凍てついた時計の針②
数日後。ニキは診療所の窓から、外の広場を眺めていた。
そこには、ユウ、ゴズ、タイガの三人が、明日の休みの予定について肩を組み、大声で笑い合っている姿があった。
(……レイン、シド、ヨタカ。昔の彼らも、きっとあんな風に、不器用に笑い合っていたんだな)
同じ志を持つ者として、ニキには痛いほど分かった。レインが命を懸けてでも救いたかったもの。そして、残された二人に、どんな「未来」を生きてほしかったのかが。
次の日の夜、誰もいない診療所の中で診療録の整理をしていた。ふと、記録と書かれた古い木箱を見つけた。年季が入っており、恐らく昔に使われていた色々な記録が何かの都合でここに運ばれてきたのだろう。
箱を開けると日々の日記と書かれた古い書物があった。丁寧に梱包され状態はかなり良い。そして中を見た時ニキは知った。
「……これは……」
ニキは診療所の監視をしている猪獣人にヨタカとシドを呼んで欲しいと頼んだ。あの、思い出の場所まで。
ヨタカとシドの二人は息を切らしてあの星降る丘へとかけつけた。
訝しむ二人の前に、ニキは静かにその革表紙の束を差し出した。
「ニキ、これは……?」
「俺が見つけた、古い診療録だ。……レインが遺した、彼自身の日記でもある」
二人の息が止まった。ニキは二人に診療録を見せ優しく微笑んだ。
「俺は席を外す。あとは……お前たち二人で話せ」
夜風だけが吹き抜ける中、ヨタカとシドの間に、息が詰まるような沈黙が落ちた。
手にある古い紙の束からは、微かに、もう忘れてしまいそうだった懐かしいインクの匂いがした。
シドが震える手でそれを受け取り、ニキは静かに立ち去った。
ゆっくりと表紙を開く。
月明かりに照らされたページには、几帳面で、どこか丸みを帯びた見慣れた文字が並んでいた。
「……『今日の訓練で、ヨタカがまた無茶をした』」
シドの掠れた声が、夜の丘に響き始めた。彼は文字を追うように、ゆっくりと、大切に読み上げていく。
「『あいつの翼は本当に綺麗なのに、本人が一番大切にしていない。……ずっと空を飛べるように、僕が手入れをしてやらなきゃ』」
ヨタカの肩が、びくりと大きく跳ねた。だが、シドは止まらない。涙で滲む視界を必死に拭いながら、次のページを読み進める。
「『シドが脱皮の時期で苦しそうだ。……無口な奴だから絶対に痛いと言わないけれど、鱗の隙間がひどく荒れている。シドの肌に合う特製の保湿薬を作った。明日、こっそり渡そう。……あいつらの背中は、僕が守るんだ』――」
「……シド」
ヨタカの低く、震える声が遮った。
「もう……読むな。もう、十分だ」
シドの手から診療録が滑り落ち、二人の間の草むらにばさりと落ちた。
ヨタカは、自分の胸の奥で、長年かけて分厚く張り巡らせていた氷の壁が、音を立てて砕け散っていくのを感じていた。
「……せっかくニキが、作ってくれた場だ。……もう、隠すのはやめにしよう」
ヨタカは顔を上げ、夜空を見つめた。その声から、冷徹な隊長の仮面が完全に剥がれ落ちていく。
「……あの時、俺はお前と一緒に泣いてやれなくて、……すまなかった」
それは「拙者」ではなく、一人の青年としての「俺」の言葉だった。ヨタカは、血が滲むほど強く拳を握り締め、シドを真っ直ぐに見据えた。
「俺が一人で心を閉ざしたせいで、お前にずっとずっと、似合わない道化を演じさせちまった。俺は……。お前と昔のように笑い合えば、きっとレインを思い出して、封じ込めた弱い俺自身が今度こそ完全に壊れてしまうのが、怖かったんだ。だから、『氷の隊長』という誰も触れない殻に逃げ込んだ!」
ヨタカの瞳から、大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って落ちた。
「お前が無理をして笑っているのを分かっていながら、その不器用な優しさに、俺はずっと縋っていた……! 自分だけが傷ついた悲劇の主人公のフリをして、同じようにつらかったはずのお前を、お前の傷ついた心を!何年も見て見ぬふりをしてお前を孤独にさせた! ……こんな卑怯な俺を……許してくれ、シド……ッ!」
魂を削るようなヨタカの謝罪に、シドの顔から「オレっち」という薄ら笑いの仮面が、無惨に剥がれ落ちた。
「……ふざけんなよ、ヨタカ……ッ!」
シドは激しく咆哮し、ヨタカの胸ぐらを両手で力任せに掴み上げた。
「謝るのは……オレの方だろ! お前が一番傷ついて、心が死にそうになってたのに……。オレ……、オレは、言葉の選び方一つ分からなかった。ただ横で、ヘラヘラ笑って誤魔化すことしかできなかった……!」
シドのトカゲの瞳から、滝のように涙が溢れ出し、ヨタカの胸元に落ちていく。
「レインが死んで……オレだって、お前と同じくらい辛かった。でも、それ以上にお前まで消えちまいそうで……っ! だから、笑うしかなかった。昔のバカみたいに笑い合ってた時間を、少しでも取り戻したくて……っ」
シドは掴んでいた手を離し、ヨタカの胸に力なく頭を押し当てて、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「オレは……ただ……! 元の三人に……お前と、また一緒に笑い合いたかっただけなんだよぉ……ッ!!」
「……シド」
ヨタカは、泣きじゃくる親友の背中に、強く、強く腕を回した。
「……ああ。……俺もだ。本当は俺も、昔みたいにシドと笑い合いたかった……!」
星降る丘の上で、二人の不器用な男たちは、何年ぶりかも分からない、心からの涙を流した。
隊長と副隊長という虚構の壁は消え去り、そこにあるのは、共に友の死を悼み、互いの不器用な愛を確かめ合う、無二の親友の姿だけだった。
やがて、涙が枯れるほど泣き尽くした二人は、互いのぐしゃぐしゃになった顔を見て、ふと吹き出した。
「お前……鼻水出てるぞ、シド」
「うるせぇよ。お前こそ、昔みたいに泣き虫に戻ってんじゃねぇか」
ガツン、と。二人の拳が力強くぶつかり合う。
それは、レインを失ったあの日から止まっていた時計の針が、ついに再び動き出した瞬間だった。星空の下、二人は過去の呪縛から解き放たれ、憑き物が落ちたような晴れやかな笑い声を響かせた。
「……ニキ! 隠れてないで、出てこい!」
ヨタカが丘の下に向かって大声を上げる。茂みの影から、気まずそうに頭を掻きながらニキが姿を現した。
「悪かった、勝手に診療録の中身を見て。でも……よかった」
ニキが安堵の息をつくと、ヨタカとシドは深く、深い感謝を込めて頭を下げた。
「ニキ。……いや、先生。レインの遺してくれた言葉を、俺たちに届けてくれて……本当に感謝する」
「オレからも……ありがとう、先生。アンタのおかげで、オレたちはやっと前を向けた」
真面目な顔で頭を下げる二人に、ニキは微笑んで首を振った。
「礼なら、これから働くことで返してくれ。……レインさんが夢見た、誰もが笑って暮らせる里。その未来を創る手伝いを、俺も全力でさせてもらう」
「ああ、もちろんだ。俺たち三人で、必ず創り上げよう」
「オレも、これからは副隊長として……いや、一人のダチとして、お前らの背中をしっかり守らせてもらうぜ」
冷徹な氷の隊長と、道化を演じていた副隊長は、その重い過去の鎧を脱ぎ捨て、ついに悲しみを昇華させた。
夜明けの光が、三人の影を新しく、そして力強く照らし出そうとしていた。
■症例Aおよび症例Bの精神的障壁の解除について
過去の強烈な喪失体験に起因する、両名の精神の抑圧状態は、極めて強固な防衛壁として彼らの行動を制限していた。
本件において特筆すべきは、遺された古い記録という外的要因を投下したことによる、対象の心理的防衛の完全な破壊である。長年培われた自己嫌悪と贖罪の念は、劇的な感情の爆発とともに解体され、対象は極めて無防備かつ柔軟な精神状態へと移行した。
■今後の展望に関する追記
過去の亡霊という絶対的な行動指針を喪失した彼らは今、新たな依代として、干渉者への絶対的な帰依を深めている。
彼らが「未来」と呼ぶ新たな結束は、今後いかなる苛烈な「処置」を実行する上でも、反抗の意思を削ぎ落とす最高の鎮痛剤となるだろう。不要な障壁はすべて取り払われた。彼らの精神が掌の上でどのように変容し、崩壊していくのか。その推移を記録する準備は、完全に整った。




