命を繋ぐ刃①
結界のすぐ外にある、小さな兎の民の集落。
彼らは華奢で弱く見えるが、長老の保護を固辞し、自分たちの足で大地に立とうとする気高く誇り高い人々だった。
愛する者を救おうとする切実な祈りと、それに全力で応えようとしてくれる診療所の仲間たち。
俺の意図を汲み取り完璧な介助をしてくれるユウ、文句を言いながらも誰より早く薬草を届けてくれる不器用なヨタカ。そして、里の人々に溶け込み、笑顔と活気をもたらしてくれるゴズやタイガ、シド。
彼らが側にいてくれたからこそ、俺は恐れることなく、小さな命を繋ぎ止めるための刃を握ることができたのだと思う。
少し無理をしてまた叱られてしまったが……患者の穏やかな寝顔と、仲間たちが笑い合う温かい食卓を見られただけで、俺の疲れなんて吹き飛んでしまった。
これは、結界の境界線で出会った誇り高き兎の民と、俺の頼もしい家族たちが紡いだ、命と笑顔の記録だ。
ある日の午前。いつものように診療所で薬草の仕分けをしていると、重い鎧の音を鳴らしてヨタカが入ってきた。
「ニキ。長老から伝令だ。結界のすぐ外にある『兎の里』から、急ぎの病人を診てほしいと救援要請が来ている」
「兎の里から……わかった、すぐに行こう」
ニキは即座に往診用の鞄を手に取った。その横で、清潔な白衣に身を包んだユウが、流れるような手付きで包帯や煮沸済みの器具を鞄に補充していく。有能で冷静沈着な彼もまた、今や診療所になくてはならない頼れる助手だった。
「拙者も同行する。結界の外に出る以上、護衛は必須だ」
ヨタカの先導で、ニキとユウの三人は森を抜け、里の境界を覆う結界の縁へと向かった。
結界を抜けて少し歩くと、すぐに拓けた土地と、こぢんまりとした可愛らしい家々が見えてきた。
「結界のこんなに近くに集落があるんだな」
ニキが周囲を見渡しながら言うと、前を歩くヨタカが振り返らずに答えた。
「兎の民は、見ての通り体格的に華奢で、戦闘には不向きな種族だ。魔物などの脅威があった際、すぐに長老の結界内へ逃げ込めるよう、あえてこの距離に里を作っている」
「なら、最初から結界の中に住めば安全じゃないのか?」
「……以前、長老からも打診があったらしい。だが、『自分たちの足で立てるうちは、自立して生活したい』と固辞されたそうだ。彼らは誇り高い。それに……」
ヨタカは目を細め、畑で忙しそうに働く兎獣人たちを見た。
「彼らの作る野菜や、栽培する薬草は極めて質が良い。我々の里の備蓄も、彼らとの交易に助けられている部分が大きい。関係は極めて良好だ」
里に足を踏み入れると、すぐに異変に気づいた。
行き交う兎獣人たちに混じって、数人の「人間」の姿があったのだ。顔を隠すような深いローブを身にまとい、長い杖を持った魔法使いのような出で立ちの旅行者たち。彼らはニキたちを一瞥すると、すぐに視線を外した。
「人間とも交流があるのか……」
ニキが呟いたその時、一人の若い兎獣人の女性が、涙目で駆け寄ってきた。
「お待ちしておりました! どうか、どうかランドを助けてください……っ!」
彼女の名はトナ。案内に従い、小さな家の奥の寝所へ通されると、そこには見るに堪えない姿で横たわる兎獣人の青年、ランドがいた。
「ヒュー……ッ、ヒュー……ッ」
笛が鳴るような高い音が、彼の喉の奥から漏れている。苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返すその姿は、素人目にも命の危機が迫っていることが分かった。
トナが泣き崩れながら語ったところによれば、彼は非常に優しく誠実な恋人で、数日前、トナと薬草取りに出かけた際に魔物に襲われたという。トナを庇ったランドは、魔物が吐き出した濃い瘴気を、至近距離からまともに浴びてしまったらしい。
ヨタカが、邪魔が入らぬよう腕を組んで部屋の入り口に立つ。
ニキはランドの枕元に静かに膝をつき、怯えるトナを振り返って、力強く、そして優しく微笑んだ。
「もう大丈夫だ。俺たちが来たからには、絶対に助ける」
その言葉に、トナはせきを切ったように泣き出した。
ユウが静かにニキの隣に膝をつき、無言で診療録と筆を構える。
ニキの瞳から、温かな青年の光が消え、深淵のような「医者」の眼光が宿った。
「――まずは診察から」
ニキの優しく温かい手が、ランドの熱を持った身体に触れる。頭から足の先まで、皮膚の温度、脈の速さ、筋肉の強張りを、指先と視覚で正確に読み取っていく。
「……全身に瘴気が回っているな。腋の下、太もも、首筋にあるこの黒い発疹。これは瘴気に対する身体の過剰な防衛反応……いわゆる『魔力拒絶』の末期症状だ」
ニキはランドの顎をそっと持ち上げ、気道を確保しながらユウに告げる。
「気道が腫れ上がり、空気があまり通っていない。このヒューヒューという狭窄音と、無意識に喉を掻きむしろうとする窒息の兆候が見られる。指先を見てくれ。紫色の『死色』が出ている。正常に呼吸ができていない証拠だ」
ユウが手早く手拭いでニキの額に滲んだ汗を拭いながら、凄まじい速度で診療録に症状を書き留めていく。
「ニキ様、背中を」
ユウの指摘でランドを静かに横向きにすると、肩甲骨の間に、まるで黒い泥が固まったような、脈打つ巨大な「瘴気の腫瘍」がへばりついていた。
「……これが元凶か。瘴気が体内で凝固し、毒を絶え間なく血液に送り込んでいる。そして、その毒が喉を塞いでいるようだ。」
トナが口元を押さえ、悲痛な声を上げた。
「そんな……どうすれば……っ」
「やることは二つだ」
ニキは立ち上がり、入り口に立つヨタカを振り返った。
「まず、物理的にあの腫瘍を切除する。この腫瘍を取り除けばある程度は症状が緩和されるだろう。同時に、魔力拒絶を抑え込む体質改善が必要だ。ヨタカ、悪いが里に戻って『銀葉草』と『白狼の根』を持ってきてくれ。この二つを煎じて飲ませないと、腫瘍を取っても時間がた経つとそのうち急性の虚脱状態に陥って、最悪の場合心臓が止まる。」
ヨタカは目を丸くした後、呆れたようにため息をついた。
「……見張り団の隊長を使い走りにするとは、其方もずいぶんと偉くなったものだ。……待っていろ。すぐに戻る」
文句を言いながらも、ヨタカの背中の翼が一瞬で展開し、突風と共に姿を消した。その背中は、誰よりも急いでいた。
「ユウ、切除の介助を頼む。ここからは時間との勝負だ」
「はい、ニキ様。器具の清浄は済んでおります」
ニキは鞄から、細く小さな医療用の刃を取り出した。痛みを完全に消す薬はない。恐らく激痛を伴うが、やるしかない。
「トナさん、少しの間だけ、彼の身体をしっかり押さえていてくれ。絶対に動かさないように」
「は、はい……っ!」
ユウが既に腫瘍の周りに多少の麻酔効果のある軟膏を塗ってくれていた。ニキは深く息を吐き出し、刃の先端を、黒く脈打つ腫瘍と健康な皮膚の境目へと滑り込ませた。
「――切るぞ」
刃が肉を裂く、鈍い感覚。
「ガァァッ……!!」
ランドが意識のないまま、喉の奥で絶叫し、身体を激しく動かそうとする。トナが必死に押さえつける。
切開した瞬間、腫瘍の中からドロリとした黒い血が溢れ出した。強烈な腐臭が部屋に充満する。
「ユウ、拭き取りを!」
「はい」
ユウが即座に清潔な布で黒い血を拭き取り、視界を確保する。ニキの目は、一切の感情を排した機械のように冷徹だった。
(腫瘍の根は……背骨の神経の近くまで達している。神経をわずかでも傷つければ、彼は一生歩けなくなる。……慎重に、だが素早く……!)
ギリギリの境界線を、刃の側面を使って剥がしていく。健康な肉にへばりついた黒い根を、指先の感覚だけで削り取る。ニキの額から滝のように汗が流れ落ち、それをユウが的確なタイミングで拭い取る。
「脈拍、さっきより微弱ですが触知可能です。呼吸数はさらに上昇。」
ユウが経過を冷静に告げ、手が空いた一瞬の隙に、診療録へ術中の処置内容を克明に記載していく。トナは両手を強く握り締め、ただひたすらに祈るように二人を見つめていた。
張り詰めた糸のような緊張感が、部屋の空気を重く支配する。
「……そこだッ」
ニキが手首の角度を変え、最後に残った一番太い瘴気の根を、一息に切断した。
「ゴハッ……!」
ランドが大きく痙攣し、直後、その口から黒い息が吐き出された。同時に、ヒューヒューと鳴っていた喉の音が消え、静かで穏やかな呼吸音へと変わる。
「……取れた。あとは縫合する」
ニキは素早く傷口を洗浄し、針と糸で丁寧に、そして美しく皮膚を縫い合わせた。
最後の糸を切り落とした瞬間。
ニキはどっと疲れが押し寄せ、その場に手をついて大きく息を吐き出した。
「お疲れ様でした、ニキ様」
ユウが穏やかな声で労い、水筒を差し出してくれる。
「ありがとう、ユウ。完璧な介助だった」
ニキが水を受け取った直後、外からドタドタという騒がしい足音が聞こえ、部屋の扉が勢いよく開いた。
「先生! 薬草、持ってきたで!」
「オレたちも手伝うぜ!」
飛び込んできたのは、息を切らしたヨタカと、彼に連れられてきたゴズ、タイガ、そしてシドだった。
「診療所は今日は落ち着いてたし、隊長に呼ばれたから飛んできたっスよ〜」
とシドが笑う。
「みんな……」
「さあ、薬草の煎じならオレに任せとき! シド、火ぃ貸してくれ!」
「了解っス」
ゴズとシドが手際よく竈を借りて薬草を煎じ、軟膏を練り始める。
タイガは「オレは力仕事なら任せろ!」と、ランドの家の水汲みや、壊れかけていた薪小屋の修理に兎獣人たちと共に向かっていった。ヨタカも当然のようにそれに混ざり、巨大な丸太を軽々と担ぎ上げている。
ニキは、その頼もしい仲間たちの背中を見ながら、ふっと笑みをこぼした。
「……ユウ、術後の経過記録を分担しよう。彼が目を覚ますまで、もう少しだけ仕事だ」
「はい、ニキ様。熱や脈拍の推移と、魔力拒絶の減退状況は私がまとめておきます」
死の淵にあった兎獣人の小さな家は今、活気と、命を繋ぎ止めるための温かな絆で満ち溢れていた。
ランドの背中を蝕んでいた黒い腫瘍が去り、寝室に漂っていた死の気配は、少しずつ朝の光に押し流されていった。処置を終えたランドの顔には、まだ蒼白さは残るものの、安らかな眠りの呼吸が戻っていた。
「ニキ様。あとは私が診ておきます。少しお休みください」
ユウが、ニキの青白い顔を案じて声をかけた。
「……ありがとう、ユウ。でも、まだ術後の体温変化を記録しておきたいし、煎じ薬の濃さも確認して……」
「ダメだと言っているだろう。其方はいつもそうだ」
部屋の隅で腕を組んでいたヨタカが、地響きのような声で割り込んだ。ニキの反論を許さぬ圧を持って一歩踏み出し、その屈強な手でニキを丸椅子へと押し戻す。
「ニキ様。ヨタカ様のおっしゃる通りです。万が一の時に執刀医であるあなたが倒れては、元も子もありません」
ユウとヨタカに促され、ニキは観念したように息を吐いた。案内された隣室の寝床へ向かおうとすると、ゴズが盆に乗せた湯呑みを持ってやってきた。
「先生、これ飲んでな。疲れによく効く薬湯や。タイガと一緒に材料探してきたんやで」
「ありがとう、ゴズ」
受け取って一口啜った瞬間、ニキの表情が劇的に歪んだ。
「……っ、ごふっ!? に、苦い……死ぬほど苦いぞ、これ」
「ははは! 良薬は口に苦し、や。しっかり飲んで寝てや!」
ゴズの屈託のない笑いに見送られ、ニキは苦味に震えながらも薬湯を飲み干し、用意された寝床に横になった。




