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白きこの手は何を成すのか  作者: N民


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12/19

隠された傷痕③


深い、深い霧の中だった。

どこからか、誰かの声が聞こえる。よく知っているはずなのに、顔が思い出せない。

何かを言っている。少しずつ、その輪郭がはっきりとしてきた。


『――……』

「どうした? 助けが欲しいのか?」


ニキは霧の向こうに向かって、手を伸ばして尋ねた。

だが、返ってきたのは助けを求める声ではなかった。ひどく冷たく、嘲笑うような、氷のように鋭い声。


『――ぬるま湯で遊ぶのは楽しいか?』


「……ッ!!」


叫び声を上げ、ニキは跳ね起きるようにベッドから身体を起こした。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


心臓が早鐘のように打ち鳴り、全身がびっしょりと冷たい汗で濡れている。あの声は誰だったのか。思い出そうとすると、頭の奥が割れるように痛んだ。


「先生!? 大丈夫か!」


隣の部屋から、物音を聞きつけたゴズが慌てて駆け込んできた。


「ゴズ……」

「めっちゃ汗かいとるやん。うなされとったんか?ほら、拭いたるからじっとしときや」


ゴズは大きな手で不器用に、けれどとても優しく、布でニキの額や首筋の汗を拭ってくれた。その温かい体温に触れ、ニキの荒い呼吸が少しずつ落ち着いていく。

そこへ、部屋の扉が静かにノックされた。


「先生。朝食の支度が整いましたよ。ゴズさんも、食堂へどうぞ」


いつものパリッとしたシャツを着こなしたユウが、穏やかな笑顔で立っていた。

なぜユウが朝からここにいるのか疑問に思いながら、重い身体を引きずって食堂へ向かうと、そこには目を疑うような光景が広がっていた。


「うおおおおっ!? なんだこれ、すげぇ!!」

「王様の飯かいなっ!」


食卓には、見たこともないような豪華な料理が所狭しと並んでいた。ふっくらと焼き上げられた数種類のパン、色鮮やかな野菜のスープ、厚切り肉のロースト、そして美しく飾り切りされた果物。どれも温かく、栄養に満ち溢れている。


「わたくしが作りました。さあ、冷めないうちにお召し上がりください」


ユウが優雅にお辞儀をすると、ゴズとタイガは歓声を上げて飛びついた。

ニキも促されるまま席に着き、世話を焼かれながらふと横を見て固まった。


「……なんで、ヨタカとシドまで?」

「いや〜、朝の見回りに来たら、ユウさんに『お席を用意してございます』って有無を言わさぬ笑顔で座らされたんスよ。ご馳走様っス!」


シドはちゃっかりとスープを堪能している。そしてその隣――ニキの真横の席には、どういうわけかヨタカが不機嫌そうに腕を組んで座らされていた。


困惑するニキに、料理を並べていたユウが背後からスッと近づき、耳元で衣擦れのような囁き声を落とした。


「先生。ヨタカ様としっかり仲を深めていただくための配慮でございます。……ご安心ください。これから毎日少しずつお二人の席の距離を縮めていくよう調整して参りますので」

ユウの声音は、主人の交友関係を円滑に進めようとする純粋な「執事としての気遣い」に満ちていた。だが、その完璧な計画性と徹底した采配に、ニキは背筋が寒くなるのを感じた。

(ユウ……そういう変なところに気を使うのをやめろ……!)

ニキは引き攣りそうになる頬を押さえながら、ユウの手厚すぎるもてなしを受けて朝食を胃に収めた。

ヨタカは最初こそ文句を言いながらも、彼の大好物が並んでいるためか次第に黙々と食事を進めていた。


「ヨタカ様、シド様。これから朝と夕はこちらで食事を召し上がって頂きます。長老様より既に許しを得ておりまして、食事の時間は任務を外れるかこちらの診療所での勤務となります。どうぞ、ご理解くださいますよう。」


ユウに突然衝撃の事実を言われ、ヨタカは持っていたパンを落としてしまった。シドは「良かったっスね〜、ニキ先生とご飯食べられて」とまたからかっていた。


その日の昼。

怒涛のように患者が押し寄せる診療所の合間、ユウが裏から出してきたのは、片手でも食べやすく、それでいて極上に美味しいサンドイッチや笹の葉巻きなどの軽食の数々だった。

「うめぇ! これなら仕事しながらでも食えるぜ!」とゴズとタイガはまたしても大喜びだ。

さらに夕食時。

食卓には、もはやここが森の奥の里であることを完全に忘れさせるような、フルコースと見紛う豪華なディナーが並んでいた。


「……なんだこれは……。」


また連れてこられたヨタカが言葉を失っていた。

ユウはさっきまで、ニキと一緒に診療所の仕事を完璧にこなしていたはずだが、一体いつこれだけの準備をしたのか。ニキを上座に座らせ、背後に控えて世話を焼くユウの表情には、余裕すら漂っている。

(……一体どうなっているんだ……?)


ふと、疑問に思ったことをそのままユウに訊いてみる。


「あのさ、ユウ。すごく嬉しいんだが、これだけのものを用意するためのお金はどうなってるんだ?」


ニキが恐る恐る尋ねると、ユウはティーポットを傾けながらふわりと微笑んだ。


「ご心配には及びません。まず、先生の治療によって体調を崩す者が減り、里全体の労働稼働率が著明に向上しております。また、先日お助けになられたと聞いております、熊獣人の皆様が護衛や討伐などの危険な依頼を受けてくださることで、他の里との交流も安全に行えるようになり、里に有益な交流や交易も盛んになってきております。そのようなこともあり、診療所にはそれなりの支援金が入っております。仕える主の経営状況の把握、運用は執事の嗜みですので、わたくしが診療所の資金運営の管理を長老様より引き継ぎ致しました」


さらりととんでもない事実を告げたユウは、ゴズとタイガに向き直った。


「お二人の働きぶりも大変素晴らしく、診療所の利益に大きく貢献しております。そのため、長老様の許しを得て、来月からは、お二人にも正式に給料をお支払いいたします。これは先日からわたくしに軟膏を塗ってくださるお2人へのささやかなお礼でございます。」

「お給料やて……!? 貰ってええんか……っ!」

「オレ……生まれて初めてだ……っ」


ゴズとタイガは抱き合って大泣きし、食堂は大騒ぎとなった。

ニキも少しだけもらい泣きした。ユウがすぐ涙を拭いてくれた。


賑やかな夕食が終わり、シドの監視のもと、ゴズとタイガが食器を片付けに席を立った時のことだった。

食堂には、紅茶を淹れ直すユウと、それを見守るニキ、そして相変わらず居心地悪そうに座っているヨタカだけが残された。

ユウがニキの前にカップを置く。その際、彼はニキの耳元にスッと顔を寄せ、昨日よりもさらに深い、慈しみを含んだ声で囁いた。


「ニキ先生。……昨夜の温泉のこと、やはり『休ませるため』だけではございませんでしたね?」


ニキが肩を揺らす。ユウの金色の瞳が、すべてを見透かすように細められた。


「わたくしは、激しい体罰によって肌を焼かれ、殴られて参りました。そのため、人前で肌をさらすことはおろか、他人に身体を触れられることに……耐え難い恐怖を抱いております。不意に手が近づくだけで、身体が強張るほどに」


ユウの言葉に、隣で聞いていたヨタカがハッとしたように顔を上げた。


「先生は、わたくしのその『怯え』に気づいておられた。だからこそ、あの遠慮を知らない賑やかな二人組に、二週間もの間、強制的にわたくしの肌に触れさせようとしたのでしょう? 拒絶する暇も与えず、ただ温かい手の温もりで、わたくしの心の傷を上書きするために」


ユウは一度言葉を切ると、深く、優雅に頭を下げた。


「軟膏を塗るだけなら、ニキ先生が塗ってくださるか、もしくは道具を使って自分で行うよう命じることもできたはず。……それをあえて、あの者たちの騒がしくも優しい真心に委ねた。先生……あなたは、外傷だけでなく、わたくしの『人間への恐怖』をも治そうとしてくださったのですね」

「……っ。あはは、いやー、やっぱり執事には敵わないな」


ニキは照れ隠しに後頭部を掻いた。


「ユウの身体の傷は、軟膏を塗ればいつか消える。でも、誰かに優しく触れられた記憶がないと、あんたの心はずっとあの王朝に閉じ込められたままだと思ったんだ。

……ゴズとタイガなら、あんたの事情なんてお構いなしに、暑苦しいくらい温かく接してくれるだろうから」

「……左様でございますね。二人に背中を流されている間、わたくしは……初めて、他人の手が『痛くない』ことを知りました」


ユウは顔を上げると、一粒の涙も流さず、しかしこれまでにないほど人間味のある、穏やかな微笑みを浮かべた。


「恐ろしいお方です、ニキ先生。あなたは優しさという名の罠で、わたくしの魂までをも救い上げてしまった。……そんなお節介で、底知れないお人好しのあるじを支えるのは、執事冥利に尽きるというものです」

「……ふん。全くだ」


ずっと黙っていたヨタカが、呆れたように、けれどどこか誇らしげに鼻を鳴らした。


「こいつの無鉄砲な優しさは、毒よりも質が悪い。一度あてられれば、一生逃れられん。……執事、貴様も覚悟しておくことだな」

「ええ、ヨタカ様。重々承知しております。ヨタカ様もそうなのでしょう?」

「な……!拙者は長老の命に従い監視しているだけだ!」

「……それは大変失礼をいたしました、ヨタカ様」


ユウはいつもより穏やかな笑顔だった。


ユウはサフィニアのブローチを光らせ、再びニキに向き直った。


「先生。改めて誓いましょう。わたくしはこの命、そしてこの心を、あなた様のお世話のために捧げます。……わたくしの献身から逃げ出そうなどと、二度と考えないでくださいね、『ニキ様』?」

「…………は、はい。よろしくお願いします」

「それでは、わたくしは入浴の準備をいたしますのでこれにて」


ユウは深くお辞儀をし、立ち去った。「今日もしっかり塗ったるからな!」「昨日の話の続きを早く聞かせてくれ!」という声が聞こえてきて次第に静かになった。


有能すぎる執事の「執念」にも似た忠誠心に、ニキは今度こそ、心地よい降参の溜息を漏らした。

(……やっぱり、執事は怖い。でも、これからは一人で抱え込まなくていいんだな)

窓から差し込む陽光が、新しく家族のような絆で結ばれた診療所の面々を、優しく包み込んでいた。

■症例Fにおける身体的・精神的損傷の処置について

長期的な身体への加害による熱傷の痕、およびそれに伴う深刻な接触への恐怖反応が確認された。

本件において特筆すべきは、対象が抱く強い拒絶反応を、他者の遠慮のない接触によって強引に上書きする治療手法の有効性である。温浴という無防備な状況下で、あえて過剰な身体的接触を繰り返すことにより、対象の強固な防衛壁を崩すことに成功した。長年植え付けられた恐怖が、「安堵」という新たな認識へと塗り替えられていく過程は、精神の再構築において非常に有意義な観察記録となった。


■今後の経過に関する追記

長きにわたり抑圧されてきた反動からか、彼の主治医に対する忠誠、および心理的な依存の度合いは極めて高い。

恐怖という鎖から解放された対象が、この先どのように身を委ねていくのか。完璧に自己を制御してきた精神が、温かな環境下でいかに変容していくか。その推移を茶の香りと共に最も近い席で見届けることとしよう。


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