第2話 もどらない日々
森の中では、ぼくの赤い上着まで黒ずんで見えた。短い足を踏み出すたび、靴の裏で濡れた葉がつぶれる。腰のひもの先では、くるりが巻き尾を体に寄せ、その後ろをくろもふさんが歩いていた。
鳥の声はしなかった。冷たい鉄の匂いだけが、木々の間にたまっている。ここにあった村の朝は、こんな匂いではなかった。
「ふみ、あそこ」
くるりの指が、太い木の根を示した。その向こうで、何かが丸まっている。ぼくらより少し大きな体に、垂れた耳と短い手足。毛は真っ黒で、白い目が二つ、こちらを向いた。
もふりんの形をした影。かげもふ、と呼びたくなる姿だった。
そのまわりを、薄い光の欠片が漂っていた。落ち葉くらいの大きさで、一枚ずつ、違うものが映っている。井戸から水をくむ手。窓辺で揺れる花。パンをちぎって、誰かに渡す指。
かげもふは欠片を一枚つまみ、口へ運んだ。光の中の花が揺れたまま、黒い口に消える。食べ終えると、湿った毛がふくらんだ。
「何を食べてるの……?」
ぼくは答えようとして、息を止めた。次の欠片には、丸眼鏡をかけた灰色のもふりんが映っていた。小さな巻き尾。前掛け。窓の下の、二つの椅子。
「ぽわさんだ」
椅子の一つに、くるりによく似た、小さな子が座っていた。灰色の手からパンを受け取り、口いっぱいにほおばっている。ぽわさんの肩が揺れて、光の中だけに笑い声が鳴った。
「ぼくみたいな子がいる」
くるりが一歩近づいた。
「でも、ぼく、こんなこと知らないよ」
ぽわさんの思い出の欠片なのかもしれない。ぼくが手を伸ばすより早く、かげもふはそれを口へ入れた。二つの椅子も、笑い声も、パチッという小さな音と一緒に消えた。
「だめ!」
ぼくの声に、かげもふの目が細くなった。口が開く。くるりの額から、薄い光が一枚、はがれた。
そこには、パン屋の裏に座る三匹が映っていた。ぼくとくるりと、くろもふさん。昨日の夕方、出発を決めてから、パンを分けて食べたときの姿だった。
光は口へ吸いこまれた。くるりが額を押さえ、ぼくを見た。
「今の、いつのこと?」
「昨日の夕方だよ。一緒にパンを食べたでしょう」
「……ぼく、そんなことした?」
腰のひもを持つ手が、冷たくなった。
「記憶を食べてるんだ」
くろもふさんが、ぼくらの肩を引いた。かげもふが根を乗り越える。短い足が地面に着くたび、木々の影が、ぼくらの靴へまとわりついた。
「走るよ!」
ひもをたぐりながら、来た道を戻った。くるりが転びかけ、ぼくが袖をつかむ。くろもふさんの袋の中で、水の小瓶がカタカタ鳴った。
明るい道へ飛び出すと、かげもふも根の向こうから手を伸ばした。その指先が朝日に触れる。ジッと音がして、黒い毛が縮んだ。
かげもふは手を引っこめ、森の暗がりからぼくらを見ていた。
◇◆◇
道端に座っても、耳の震えが止まらなかった。くるりはパンの包みを抱え、森とぼくを交互に見ている。
「あれ、まだ食べるの?」
黒い木々の奥で、薄い光が揺れた。ぼくの知っている村には、まだほかにも家がある。朝に窓を開ける顔も、夕方に帰ってくる足音もある。
「止めなきゃ」
かばんの留め金に触れた。もし、ぼくまでぽわさんを忘れたら。誰に渡す手紙なのか、その顔まで分からなくなってしまったら。
「日なたに出せば、さっきみたいに縮むかもしれません」
くろもふさんが、自分の布袋を見た。
「袋をかぶせられれば、引っぱり出せるね」
「ぼく、上から落とせるよ」
くるりが言った。包みを置こうとした手が滑り、あわてて抱えなおす。
「……怖いけど、できると思う」
ぼくらは互いの腰の結び目をほどいた。くろもふさんが、パンと水の小瓶を道端の乾いた石に並べる。くるりのこげたパンも、その隣へ置いた。
くろもふさんは空の袋を裏返して、口を大きく開いた。くるりがそれを受け取り、ぼくはひもを持った。結ぶ練習を一度すると、短い指がもつれた。
「急がなくていい。あたしが押さえるから」
くろもふさんの太い眉にも、汗が光っていた。
ぼくは、もう一度根を越えた。明るい道から数歩離れるだけで、毛の奥に冷たさが染みてくる。かげもふの白い目が、ぼくの顔を追った。
「こっちだよ」
声が細くなった。それでも、赤い袖を振った。くるりが横の木へ登り、くろもふさんが根の後ろで身を低くする。
かげもふの黒い手が伸びた。ぼくは一歩下がる。かげもふが近づき、もう一歩下がる。濡れた根に足が引っかかり、かばんが胸へ跳ね上がった。
白い目が、すぐ目の前に来た。
「いま!」
枝から落ちた袋が、かげもふにかぶさった。くるりも地面に降り、袋の端を押さえる。中の体は、濡れた泥のように形を変えて暴れた。
くろもふさんが、袋ごとかげもふを横倒しにした。ぼくは開いた袋の口にひもを回した。指が滑る。結び目がほどけかける。
「ふみ、もう一回!」
くるりの声を聞いて、ひもを引きなおした。くろもふさんが押さえ、くるりが袋口をねじる。今度は、結び目が締まった。
三匹でひもを握り、日なたへ引いた。袋は根に引っかかり、内側から何度も跳ねた。短い足で土をけっても、なかなか進まない。
「せーの!」
くろもふさんの声に合わせて引くと、袋が根を越えた。朝日の中まで運び、ぼくらは息を切らしたまま、ひもを押さえた。
ぼくとくるりが袋口の両端を持つ。くろもふさんが結び目をゆるめた。中から黒い手が出かけたとき、ぼくらは袋の口を日差しへ向けて広げた。
白い目が細くつぶれた。黒い毛が縮み、袋の底で小さな塊になる。その中に一瞬だけ、薄い光が見えた。
ぼくは手を伸ばした。けれど、光にはもう、顔も家も映っていなかった。細かな灰になって、指の間をすり抜けた。
袋が軽くなった。揺すっても、何も動かない。
森の中で、井戸の滑車が鳴った。
◇◆◇
黒い木々が薄くなり、その向こうに屋根が見えた。畑の畝が現れ、村の門が朝日に照らされる。大きなかしの木の下で、もふりんたちが互いの顔を見ていた。
くろもふさんはパンと水の小瓶を袋に戻し、くるりはこげたパンの包みを抱えた。ぼくがひもを丸めてかばんに収めてから、三匹で村へ入った。
窓辺には花があった。家の戸が開くたび、ぼくの知っている顔が出てくる。
みんな、ぼくを見ても手を振らなかった。
「ここで、暮らしていたんでしょうか」
誰かが聞いた。隣のもふりんも、自分の立つ戸口を見て、首をかしげた。
かしの木のとなりには、ぽわさんの家があった。窓の下に椅子が二つ。玄関に立つ灰色のもふりんは、丸眼鏡を直して、ぼくらを見た。
「どちらさま?」
くるりの巻き尾が、地面に下がった。
「このひとが……?」
「うん。ぽわさんだよ」
くるりは、ぽわさんの顔を見つめた。ぽわさんも、くるりを見た。二匹の間を風が通り、前掛けの裾を揺らした。
「ごめんね、ふみ。やっぱり、分からない」
ぼくは、かばんを開けた。封筒には、くるりの指の跡と、ぼくがつけたしわが残っている。
「ぼくは郵便屋のふみです。ぽわさんに、お手紙を届けに来ました」
ぽわさんは宛名を見て、前掛けで両手をぬぐった。それから封筒を受け取った。その仕草は知っていた。でも、ぼくへ向ける目は、初めて会う相手を見る目だった。
「ぽわおばあちゃん……わたしに、孫が?」
「こちらの、くるりです。この手紙を書いたのも、くるりです」
くるりが、小さくうなずいた。
「ぼくの字です。でも、書いたときのことも、おばあちゃんのことも、思い出せなくて」
ぽわさんは明るい玄関で封を開き、一行ずつ読んだ。ぼくらは、紙をめくる音を聞いていた。
「お祭りに、来てねって」
「……昨日のお祭りです。遅くなって、ごめんなさい」
ぽわさんの指が、便箋の途中で止まった。
「パンを焼けるようになったのね」
くるりは包みを開いた。こげた小さなパンを差し出すとき、口を開きかけて、閉じた。いつもの呼び方も、渡し方も、もう分からないのだと思った。
「これ、食べてもらえますか」
「ええ。ありがとう」
ぽわさんはひとかけらをかじった。薄い皮がパリッと鳴り、少し焦げた小麦の匂いがした。
「こげたところ、香ばしいわね」
くるりは、泣きそうな顔で笑った。ぽわさんは手紙を読みなおしたけれど、二匹が昔のことを話し始めることはなかった。
窓の下の椅子を見て、くるりが聞いた。
「座ってもいいですか」
「もちろん。わたしも、お隣に座っていい?」
ぼくは二匹の前へ、もう一つのパンを運んだ。くろもふさんからもらったひとかけらをかじると、いつもの塩の味が舌に広がった。飲みこむまで、少し時間がかかった。
◇◆◇
それから、ぼくらは何度も森の奥の村へ通った。くろもふさんはパンの焼き方を教え、くるりは広場の枝に飾りの布を結んだ。ぼくは、家を一軒ずつ回って、配達先を確かめた。
戻った家々の中で、もふりんたちは改めて名前を教え合った。ぼくの村でも、奥の村を知っていた仲間たちが、新しい知り合いとして会いに行った。
ぽわさんとくるりは、手紙を交わすようになった。初めて一緒にパンを焼いた日のこと。雨で洗濯物をぬらしてしまったこと。次のお祭りで、どんな布を飾ろうかという相談。
食べられた記憶は、戻らなかった。ぼくが昔の話をすると、二匹は最後まで聞いてくれた。でも、それを自分の思い出として語ることはなかった。
ある朝、ぽわさんが玄関でぼくを待っていた。手には一通の封筒を持っている。
「ふみさん、くるりさんへお願いできる?」
ぼくは両手で受け取った。宛名を確かめ、かばんのいちばん手前に入れる。まだ折り目のない手紙だった。
「はい。ちゃんと届けます」
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