想像しなければならない苦痛や苦悩
「あれはテスト用のモデルだったの。『リング・オブ・ファンタジア』の仮想現実がどこまで機能するか、ゲームのキャラクターモデルが出来上がるまで使っていたものよ。たくさんのカメラで私を撮って、それをゲーム用にアレンジした即席モデル。まさかデータがまだ残っていたなんて、私もビックリしちゃった」
「あの、あなたは……」
どなたですか、という言葉が上手くでなかった。
久しぶりに会話をするからか、容姿がバグ・ノートリアスと同じだからか、それとも白衣を着ている以外はどうみてもだらしのない女性にしか見えないからか、理由はよくわからない。
「私? 私は星野。この『リング・オブ・ファンタジア』のテクニカルアーティストスタッフの1人よ。テクニカルアーティストっていうのは、まあ簡単に言えば雑用係ね。色んなことをしてきたわ。例えば、それ――」
それ、と星野が指で示したものは背の低い普通の折りたたみテーブルだった。
「材質は木製。ストッパーだけが金属。ちょっともってみて」
ぼくは言われた通りにテーブルを持つ。現実と同じく、それほど重くはない。
「どう? 普通に持てるでしょ。でも表面材質と本体材質を金に設定すると――」
カチャカチャと星野は机に置いてあるパソコンを打つ。
仮想現実の世界でパソコンをするなんて奇妙な光景だ。
そう思っていた瞬間、腕にあり得ないほどの重みが襲いかかってきた。しかも表面は部屋の照明を反射していてまぶしい。
「これ、かなり重いんですけど……」
「そりゃあ、金だから当然よね。しかも重量の設定を現実と一緒にしているから結構重い」
「降ろしてもいいですか?」
片手剣をぶんぶんと振り回せる腕なのに、腕はつりそうになっていた。久しぶりに味わう感覚だ。
「降ろさなくてもいいよ、こっちで設定変えちゃうから……これでどう?」
「あ、確かに軽い……っていうか、え? 浮いてる?」
重たかったテーブルの重量がどこかへ飛んでいったような感じになった。
金色のテーブルは浮かびあがり、そしてそれに合わせるように室内の本もパソコンも、そしてぼくも星野も宙にふわふわと浮かび上がった。
「いまこの部屋の重力設定をゼロにしたの。無重力体験は初めて?」
「あ、はい。SF系ゲームはあまりやらないので……」
「そうなんだ、ふーん。あと照明ちょっとだけいじってみるね」
星野さんがそう言うと、天井にあった照明が消え、間接照明の光がいたるところから出てきた。足元にも天井にも壁にも、星空のように無数に輝いている。
「星野さん、これは一体何をしているんですか?」
「なにって、これがお仕事紹介だよ」
「それはテクニカルアーティストの仕事ですか」
「そうそう。ゲーム製作者にも色々な役職がいるんだけど、私の仕事は大ざっぱに言うと、この仮想現実を現実らしく見せる仕事なんだ。
テーブルの材質だって金に見えるようにした上で重さも設定したし、重力設定がすべての物に影響すればどうなるかっていう計算式も書いたし、こんなに物があふれかえっている中で照明が無数につけばどういった光源処理が発生するかっていう計算式も書いたわ。
さらにデザイナーさんも頑張ってくれたおかげで、どの物体も本物に見える。すごいでしょ」
ぼくはよくわからかったので相槌を打つだけにした。すごい、と言われても仮想現実のグラフィックが現実に近いことは誰でも知っている。
こういうときによく使われる『フォトリアル』という言葉はみんな知っている。
「でもさ、君。こんなフォトリアルな世界をどう思う」
「どうって……」
「アギトっていう人の言う通り、理想郷に思えるかどうか」
「アギトを知っているんですか!?」
「そりゃあ、知ってるわよ? ついでに君たちのこともずっとじゃないけど、パソコンのモニターで見てきたんだから」
そう言って星野はパソコンのモニターの1つを手でつかんだ。映っているのは、スキンヘッドのルーズだ。
「そんなことより質問に答えてよ。この世界は理想郷かどうか、君にとって何なのか」
「それは――」
ぼくは言葉を選び、慎重に言った。
「この世界はただの仮想現実だと思う。どれだけリアルでも、現実には見えないし、理想郷なんかでもない」
「そうよね。ゲームとして機能していた時は退屈しのぎぐらいにはなったけど、今はめちゃくちゃ退屈。悪いことは起こらないけど、良いことも起こらない。不条理のないプラマイゼロなこの世界は実に面白味に欠けるし……ってじよね?」
「あの、ぼくはそこまで言ってませんが」
「でもそう感じているでしょ?」
図星だった。その通りだ。
とくにその退屈は、アギトに落とされてから痛感したことだ。
「私はね、君よりもその退屈を酷く嫌っていてね、なんていうか死んでいるのと同じじゃないかって思うの」
「仮想現実で生きることが……ですか?」
「そう。アギトの言う通り、死なないメリットは大きいよ。でもこの世界はそのメリットをいかせる価値がない。生きている上で大切な発展もやりがいもない。生きるために必要なエネルギーもない。どれだけリアルでもゲームはやっぱりゲームでしかなく、つまりやるべきことがなくて退屈だから現実世界に戻りたい……っていうのが私の持論。だいたいの意見においては、君とだいたい同じはず。
でも少しだけ違うよね?」
「え?」
「君はいま、その意見が本当に正しいものか迷っている。アギトのような人間に、自分の意見が通用しないことを知ったから……違うかな?」
本当にこの人はモニター越しにぼくを見ていただけだろうか。
これも図星だった。
「そうです。アギトだけじゃなくて、その信者になったぼくの友人にも、ぼくの声が届きそうにないんです。そもそもその友人が発するサインに気付いたのはぼくじゃなくて、むしろ他人だったはずのアギトの方で……彼女は、彼女の発するサインに気付けなかったぼくに落胆したんだと思います」
星野はアゴに手をあてて、黙ってぼくの話を聞いていた。
そしてパソコンのキーをカチャカチャと打った。
重力設定を元通りにしたんだろう。浮かんでいたぼくの足は次第に地に足をつけた。
「私はその彼女のことまで詳しくモニターで見ていたわけではないれど、君とずっと行動をしていた彼女がアギト側についちゃったってことは、相当な決心が必要だったはずだよ。もちろん、君の言う正しさについては彼女なりに考えたとは思う。でも、彼女はその上で裏切った。
つまり、私がさっき言った『死んでいるのと同じ』この世界の方がいいと判断した。それぐらい、彼女の現実は酷いものだった。違うかな?」
「星野さんはなんでもお見通しですね」
「よしてよ、私を褒めてもなにもでないぞー?」
星野さんは顔を赤らめながら笑った。つられてぼくも笑う。
「ただ私だってわからないことがあるよ。どうして『死んでいるのと同じ』世界の方が良かったのか、という動機。私は彼女についても、そしてアギトについてもわからない。アギトの動機については何か聞いてる?」
ぼくは首を振る。知っているのはリッカのことだけだ。
「じゃあそれについては想像をしなくちゃいけない。相手の立場になって考えてみろよ、っていう言葉はだいたい加害者に対して言われる言葉ではあるけれど、今回の場合は逆。彼がここまでしちゃった理由を君は考えなきゃいけない。君は彼女のことで頭がいっぱいだと思うけど、ここまで来たらアギトについても考えてあげなきゃいけない。もちろん、許す許さないの感情は君の自由だけどね。
とりあえず、次の対決に備えるためにすべきことはそれだと私は思うよ」
「次の対決って、ぼくはフィールドから落ちてしまったんですけど……」
はいあがる方法がわからず、さまよっていた日々を思い出す。
あれこそ生きているか、死んでいるかわからない状況だった。二度と味わいたくない日々だ。
「ふふーん、私を誰だと思っているの? このゲームのテクニカルアーティストの星野さとみよ?」
テクニカルアーティストの星野さんの力は伊達じゃなかった。
そもそも実験室と名付けられた日本家屋も、このはりぼての街もすべて星野さんが作り上げたものだ。フィールド以外はテストフィールドとして設定されているので、開発者であれば誰でも自由にできるらしい。
ただ、今ぼくの目の前にあるJRの列車と、フィールドまで続くらしい長
い線路の存在感は、さすがに自由すぎる気がした。
「テスト用のモデルに実物の列車と線路があったから、それを出力してみたの。乗り心地まではわからないけれど、フィールドには繋がっているから大丈夫よ」
星野さんは車体を手で叩いた。列車の金属の音がカンカンと響いた。
「星野さん、色々とありがとうございます」
「いやいや、大したことはしてないよ。それよりこちらこそ普段から『リング・オブ・ファンタジア』で遊んでくれてありがとうね。これからも……まあ、この一件でサービスが終わらなければだけど、遊んでね」
「オンラインゲームは装備がもったいなくて、そう簡単には辞められないですよ」
手頃なジャーキンとはいえ、手に入れるまで時間がかかった。それをなかったことにはしたくない。
「そっか。ならいいや。でもコウ君、これから君が見ることになる光景はつらいことが多いと思うから気をつけてね」
星野さんにしては、弱々しい声音だった。そこには別れの寂しさも含まれているような気がした。
ぼくはそんな星野さんに手を振って、列車に乗り込んだ。
オレンジとグリーンのラインが特徴的なこの列車は、ぼくが座席につくと同時に空へめがけて発車した。
列車が進むにつれて、視界の下方にいた星野さんの姿も、はりぼての町並みも、すぐに見えなくなってしまった。
ぼくは遠ざかる星野さんのことを思い、少しだけ別れを惜しんだ。
開発者である星野さんはフィールドを歩くことができなかった。フィールドを歩くことができれば、退屈せずステータスをいじってチート無双でバグ・ノートリアスを倒すことができたのに、という愚痴をぼくにこぼしたぐらいだ。
その退屈を想像することは難しい。ぼく以上の苦痛や苦悩があったはずだ。
ただ、これからぼくが想像しなければいけないアギトたちの苦痛や苦悩は、おそらく星野さん以上に混沌としたもののはずだ。星野さんの言うように、つらいことが多いのかもしれない。
アギトはスーパーコンピューターやデータセンターを一瞬だけ操って永遠の時間を獲得する壮大な計画を立てて、実行させてしまった人間だ。
一筋縄でいくとはとても思えない。
ただ、それでもやるしかない。




