ゼロ座標世界の実験室
リッカやアギトは答えないにしても、アサノやフィオナですらチャットに応えてくれないのは想定外だった。
チャットが届いていないということなんだろう。
それにしても本当にここはゲームの中なんだろうか。
いや、ゲームの中でなければこの世界は何だというのだろう。
天国?
その可能性は否定しきれないが、相変わらずぼくはジャーキンを着て、腰にはいつも使っている片手剣・カッツバルゲルがあった。
だから、ゲームの世界で間違いはない。
ただ足元も、頭上も、右も左も、地平線の彼方も、すべてが青色のグラデーションでできている。かろうじてあるのは、直接見ても目を傷めない太陽に、クレーターがはっきりと見える大きな月ぐらいだ。
ほかにはなにもない。雲もない。落ちて遠ざかっていくフィールドは途中まで見えていたが、いつの間にか視認することも難しくなっていった。
足元にまで青空の色が侵食しているせいで、空中に浮いている感覚に陥る。そもそも地面に立っている感覚はあるものの、足音が一切しないせいで立っているのかどうかが疑わしい。
「とりあえず何もないし、歩くしかないか」
独り言ちて、ぼくは歩きはじめた。
そして歩き疲れた。
いや、このゲームは体力切れを起こさないから、正直に言うと歩くことに飽きた。一応、青色のグラデーションは朝、昼、夕方、夜、朝、昼……と繰り返していることはわかったので、時間の経過だけはわかったけれど、日数計算も途中から数え間違いを起こし、数え飽きる可能性もあるように思えた。
アサノたちといて途中で飽きたことを、ぼく1人でやれるとはとても思えなかった。
歩くのも飽きたし、日数を計算するのも飽きた。そもそも歩いたり日数を数えたりすることに意味がないと気付いた。なら夜空の星でも数えよう、と思うものの360度すべてがプラネタリウムになってしまっているこの場所は、夜空というよりも宇宙のようで、ただでさえ失われそうな平衡感覚がさらに失われそうになり、数えるどころではなかった。
なので夜は目をつむった。しかしこのゲームは仕様として眠ることを許してはくれないので、目をつむっている間は考えごとをした。
リッカ、つまり新田里香のことだ。
日常的に虐待を受ける里香は誰にも相談することなく日々を過ごしていたが、ブラックアウト後に出会ったアギトには相談をした。おそらくあの演説の内容を聞いて決心したのだろう。
確かアギトも演説のときに虐待について触れていた気がする。いや、そうでなくとも、現実で弱者とののしられている人間にとって、彼の演説はとても感じのいい言葉に聞こえていたはずだ。
だからアギトはあれだけの信者を抱えることができた。
上っ面な正義感のみで語られていれば、「うぬぼれ屋」と称されるだけでおわっていたはずなのだ。
つまり、あの人たちにとっての正義はアギトにある。
そしてリッカにとっての正義も同じだ。迷ったとはいえ、いまはアギト側についている。
でもぼくはリッカを取り戻したいと思っているし、そんなアギトやアギトの信者の理想もすべてぶち壊したいと思っている。
この感情には、あの場で涙した弱者たちに対する慈悲は当然ない。
その覚悟でぼくはいた。
だけど……それは正しいのだろうか?
これこそ上っ面な正義感と呼べてしまうんじゃないだろうか。
いや、むしろ悪か?
ぼくは罪を背負ったダークヒーローか何かなのか?
――もうよくわからないな。
その日、ぼくは真昼の太陽の光を浴びながら、トーラスのくれたグラタンを食べていた。
いまある唯一の娯楽がこの食事だった。ぼくは必要以上にゆっくりとグラタンを口へ運び、咀嚼し、舌で味を確かめながら飲み込んでいた。
そんなとてつもなく暇な時間を過ごしていたときだった。
地平線の彼方に何かが現れた。しかもそれはこちらに近づいていた。
最初は形がわからず、プレイヤーかモンスターかの判別すらつけられなかった。
しかし近づいてくるにつれ、それがプレイヤーでもなくモンスターでもないことにぼくは気がついた。
近づいてくるものは林立する多くの建造物。
つまり町だった。
列車が遠くから近付いてくるように、巨体な物体群がある程度のスピードをつけてやってきていた。
一瞬ぼくはその町がトラウムの城下町かサントゥスの町のように見えた。しかしその予想もまたはずれた。
予想できなくて当然だった。
近づいてきた町にあった建物は、石と木でできた中世ヨーロッパ風の建物なんかではなく、コンクリートとレンガと瓦でできた日本家屋そのものだった。
現実世界でよく見た光景だ。
ぼくは驚き固まった。もちろんグラタンを食べる手は止まっていた。
「なんで現実と同じ世界がここにあるんだ?」
その疑問を解く間もなく、ぼくは無音で近づいてくる町の中へ入っていたことに気付いた。
アスファルト舗装の道路がぼくの足元をすべっていき、日本家屋が何棟もぼくのそばを通りすぎる。
ラクガキされた石壁、電柱についた犬の粗相の跡、ゴミ回収所から飛び出す生ごみの破片と、このゲームからは排除されていた汚れがこの町にはあり、リアルさが際立っていた。
まるで本物のようだった。
というより、これは本物じゃないか?
ぼくはそれを確かめるため、壁に手を触れた。
するとぼくの手は壁の中に入っていった。
「張りぼて?」
かつてフィオナの巨大化した剣が見せたような、グラフィックだけのこけおどしだ。
そう思うと、ますますこの町の意味がわからなくなる。
誰が、何のためにこの仮想現実で作り出したのだろう。
そう思ったときだった。
町の動きはだんだんと緩慢になり、そして止まった。
止まったとき、目の前には何の変哲もない1軒の家屋が目の前に鎮座していた。2階立ての普通の家屋だ。
ただ表札にはこう書かれていた
『ゼロ座標 リング・オブ・ファンタジア実験室』
「入りなよ」
どこからか声が聞こえた。若い女性の声だったが聴き慣れない声だった。
周りを見渡すが誰もいそうにない。
チャットのように脳に直接語りかけているのかもしれない。
「私の実験室、特別に招待してあげる。というか探すのすごく手間だったんだから入ってよー」
家の扉が開いた。
バタンという大きな音がする。衣擦れや咀嚼音や発声以外の音を聞いたのは久しぶりだったので、扉が開く音だけでも十分に驚いてしまった。
警戒すべきところだろうか?
しかしぼくには選択肢がそもそもなかった。
ここで断れば、また暇と戦う日々がやってくるだけだ。
ぼくは慎重に一歩ずつ、罠が仕掛けられた迷宮を歩くように、その家の中へと入っていった。
中に入ると普通に玄関があり、靴を脱ぐ場所もあった。その先には木板の敷かれた廊下や階段があり、いたるところに扉がある。ごく普通の間取りを考えれば、風呂、トイレ、リビングに繋がる扉だろう。
外と同じく、中もごく普通の日本家屋だった。
なのでぼくは脚の装備を外さなければいけないと思った。
家にあがるというのに土足というのは気持ち悪すぎる。
そんなときに女の声が聞こえた。
「んー? 別にその脚装備って汚れてないよね。というかしつこい汚れってこのゲームじゃつかないよね。そのままあがっていいよ」
確かにそうだった。ぼくの脚は汚れていない。このゲームにログインしたときと同じ状態のままだ。
ぼくは姿の見えない女性の言葉に甘え、そのままの姿で廊下を歩いた。
「その左の扉。そこを開けたら私がいるから」
ぼくの動向がどうしてわかるのだろう、という疑問は頭の片隅に置きながらぼくは扉を開けた。
部屋はゴミ屋敷かと思うほど本やパソコンなど電子機器が乱雑に置かれていた。
日本の家庭でいうと、これは引きこもりの部屋のイメージに近い。
そんな汚部屋の奥には、いくつも並ぶパソコンの画面を注視する女性がいた。
その女性の姿には見覚えがあった。
「お前はっ!」
ぼくはすかさずカッツバルゲルを引き抜いた。
「ちょ、ちょ、ちょーーーっと待ちっ! ストップ、ストップ! ああ、私のこと、バグ・ノートリアスと勘違いしているのね? まあ、しょうがないかー」
ふああ、と女性は慌てたと思ったらすぐに緊張感のないあくびをした。
ぼくはすぐに剣をしまって「すみません」と非礼を詫びた。
目の前にいる女性は白衣を着た長身の女性だった。
その姿も、あくびをする仕草も、すべて倒すべきバグ・ノートリアスと同じだった。




