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五十六

男は、何が起きたのかわからなかった。焦げる臭いが充満する。顔の皮膚がヒビ割れる。全身が熱い。しかし、痛みはない。


(俺は、生きている……?)


男は恐る恐る目を開いた。見えたのは顔面いっぱいに迫る燃え盛る火の拳。それが、鼻先寸前のところで停止していた。


「駄目だよ、クゼ」


再度、声がした。それは優しげな声だったが、有無を言わせない覇気(はき)を纏っていた。

クゼは己の拳を止めた腕の先を見る。その人物を見て、僅かに目を見開いた。


「ハクビ……?」


クゼの燃え盛る火の拳。それを止めたのは、今までどこへ行っていたのか、雨水(うすい)に長らく顔を出さなかったハクビであった。クゼの火を纏った腕を掴んでいるため、ハクビの手は火に呑みこまれている。それが、焦げ臭いにおいを漂わせていた。


「止めるなよ! こいつは、センを殺した!」


クゼがハクビを引きはがそうと腕を振る。その動きで火の粉が舞った。しかし、ハクビの手はびくともせずクゼから離れない。クゼは眼光を鋭くさせハクビを睨んだ。憎しみが、男のみならずハクビにまで向いていた。こいつを殺さなければ。その想いだけが、今のクゼの頭を占めていた。

ハクビはちらりとセンの躯を見た。頭を真っ赤に染めた、痛々しい、ただの物体になり果ててしまった小さい命。


「……それでも、駄目だよ。盲目的な憎しみは、何も生まないよ?」


「煩ぇよ! 放せ! 何で! 何で!!」


煩い、何で。それを繰り返し、クゼはハクビの腕を放そうと躍起になっている。その最中で、腰を抜かせていた男はハッと気付き、躓きながらも慌てて脚を動かし、彼方へ逃げて行った。追おうとしても、ハクビが放さない。クゼはしばらくもがいたが、男の姿はすぐに見えなくなった。

ポツリ。曇天から、雫が垂れた。


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