58,ありがとう
鬼と人間との新たな絆が結ばれてから六年が過ぎた。
太陽国は鬼人と共生を始めてから目覚しい発展を遂げ、他国はその光景を羨み、鬼を我が国に受け入れようと必死になった。今のところ他国間の争いは鬼人の争奪戦という形で落ち着いている。
鈴音は教職員の資格を取得し、教員としての道を正式に歩き始めていた。みやさわに住んで七年経つが、お千代は壮絶な踊りを見せたあの夜以降姿を現していない。噂では仕事を辞めて、故郷に帰還しているらしい。
六年の間にたくさんの変化があった。幸福もあれば問題も起こる。しかし今、少なくとも保たれている世界の秩序は、鈴音の望んだ未来を促している。
生け贄の日。鈴音はリアンと共にオルドビス大陸に向かっていた。戦争の犠牲、父の故郷を見に行く為に。鬼人に興味を持った椎名や清丸、妹の身を案じて龍一もこの旅に動向している。
鈴音はレイン亡き後、あの日訊いた全ての記憶をリアンに伝えた。リアンは父を失った悲しみに耐えながらも、冷静に話を聞いてくれた。鬼と人共に神住み島という名前で統一された無人の孤島には、偉大な鬼熊の墓と、怨みと愛に一生を支配された鬼人の墓が作られた。
オルドビス大陸は世界で一番広大な土地である。その遥か東南に位置する村。戦争の起こった軌跡を未来に残そうと、数十年経った後にも手を加えられていない廃村。その場所こそレインおじさんの故郷だ。鈴音達一向は説明者の老人と通訳人に案内されながら、森の道を歩く。その途中、椎名が誰とは問わずに話した。
「しかし凄い森だね。裸子植物に古生花、古代の昆虫に猛毒の実だらけだ」
「鬼人は自然を好みますシ、特に古い物に好意を抱きますかラ」
一団の中で飛び抜けて背の高いリアンが答える。リアンは人間の言葉をある程度操れるようになっていた。赤坂村で相当に勉強をしていたらしい。本来の役割を奪われた老人は不服そうだ。次いで清丸が意見する。
「しかしこの森はあれじゃの。神住み島に非常によく似とる」
「ええ、私も考えていました。きっと鬼達はそれも踏まえてあの島に越して来たのでしょう」
今度は鈴音が答えた。頭には古瀬家の髪止めをつけて、少女であった頃と変わらぬ微笑みを表情に湛えている。次に龍一が、妹の様子を気に掛けながら言った。
「この村に野党とかは住み憑いていないのか?」
鈴音達は僅かに驚いた表情を浮かべてから、一斉に吹き出した。龍一は何が可笑しいのだろうと訝しく思いながら首を傾げる。しばらく笑ってから、鈴音が答えた。
「戦争記念村だから、手は加えられていないだけで管理はされてるんだよ」
龍一は照れ臭そうに「そうなのか」と言うと、誤魔化すように森を眺め始めた。富沢はまだ笑いながら「流石はアンタの兄じゃの」と鈴音の耳元で小さく告げる。鈴音は微笑みながら頷いた。
森を抜けると、村が見えた。古く赤黒い血痕の跡、打ち崩され焦げた家屋、至る所に残された切り傷、矢の刺さった樹木……鈴音が見てきた廃村のどれよりも酷い惨状。空を見上げればどこにでもある青い景色なのに、この空間だけは正に異常だ。しばらくその姿を眺め、龍一がボソリと呟いた。
「長く暗影兵を勤めだが、こんな惨状はそうそうお目にかかれない」
「そんなにも酷いですカ。兄さン」
リアンが尋ねると、龍一はゆっくりと頷いた。リアンは龍一を兄さんと呼んでいる。鈴音がそう呼ぶように勧めたのだ。龍一も最初の間はその呼び名に戸惑っていたが、近頃は慣れてきたのか、ごく普通にその名を受け入れている。
「しかし酷いの」
「そうだね。教科書で文面だけなら学んだけれど、実際見るとなると……」
清丸と椎名が言った。鈴音はその言葉に同意する。レインおじさんの口から聞かされた記憶だけでも充分な衝撃だった。しかし、実際目にする驚きには敵わない。
不意に、鈴音は小さな影を見掛けたように思った。気のせいだろうか……そう思いながらも、身体は走り出している。誰かに呼び止められたが耳に入らなかった。行かなければならない。そう、導かれるように。
気が付けば、一軒の廃屋が目の前にあった。切り傷だらけの天井高い建物。鈴音は血の跡がある扉を開けて、家屋の中に入った。埃の臭い、蜘蛛の巣、腐った畳、崩れ落ちた天井。
『なんで分かっちまうんだろうな……』
鈴音を追いかけてきたリアンがボソリと呟いた。瞳にはじんわりと涙を浮かばせている。鈴音にもその気持ちがよく分かった。ここはきっとレインおじさんの家。目を閉じて、耳を澄ますと聞こえてくる。優しい両親に愛されて育つ、小さな鬼人の声が。
『行ってきます』
はっきりとした声が耳に届き、鈴音はハッとした。そしてまた走りだす。姿は見えないが確かにおじさんの優しい気配を感じるのだ。
影を追いかけて、森へと続く道まで追い掛けてきた。もう一度瞳を閉じて耳を澄ます。
『遅いよレイン』
『ごめんね。今日は何して遊ぶの?』
『鬼ごっこでもしよう』
『賛成〜俺が人間役ね』
鈴音は自分の呼吸音を聞きながら、目をゆっくりと開いた。森の入り口には子供の鬼人が五人で話をしている。その中に、子供の頃のリアンそっくりな青鬼を見付けた。懐かしさが胸に込み上げ、息が詰まる。涙を流しそうになるのを必死で堪えた。
『じゃあ、行こうぜ』
赤鬼が言うと、皆森の中に向かって走り始めた。鈴音は息を大きく吸い込み、『待って!』と叫ぶ。すると、一人の小さな青鬼だけが不思議そうにこちらを振り向き、首を傾げた。
何を伝えるかなんて、決まっている……
『有り難う……レイ……』
鈴音はそこで言い詰まった。有り難う……有り難う。心の底から感謝を告げるんだ。だったら……
『お父さん……』
小さな青鬼はその言葉を聞いて、照れ臭そうに笑った。
これから待ち受ける運命を彼は知らない。それでも鈴音の父は、無邪気な笑みを浮かべたままで、友達の待つ森の中へと走り去って行った。
怨恨の崇拝者……完結です。あとがきは活動報告に書く予定ですので、時間がございましたら覗いてみて下さい。
約十ヶ月……有難うございました!