53 キアラ
無機質な内装と金属の枠のベッドは、石造りの王城ではこの空間だけが別世界のようだ。
床の素材はツルツルしながらも微かにクッション性があり、この場所以外で見たことが無い。
キアラ・フォンターナは、建国祭の初日の夜からここに居る。
そろそろひと月になるだろうか。
普段は王妃専属の文官として働いている。
現在の夫であるリカルドが王城の医療室へ搬送されて来た為に、介護を依頼された。
リカルドとの出会いはキアラにとって不快であり、不幸の始まりだ。
だが、彼もまた同じ人物の被害者でもあるので無下には出来なかった。
キアラはベッドで眠るリカルドの脇で、椅子に座り様子を見る。
ただ寝息を立てていることに安心し、胸元のグラスホルダーに視線を移す。
拉致された時に首に掛けていたので、これだけはアンバーブロウ邸から持って来られた。
千切れそうになる度に中のコードを替え、同じ順番で通し直している。
何度も「派手すぎる」と言ってはノアに作り替えてもらい、ようやく出来上がった思い出の品だ。
捨てられるはずがない。
「ごめんね、キアラ」
キアラはふいに声を掛けられ肩を跳ね上げた。
リカルドが目を覚ました。
あと二年もすれば五十だと言うのに、年齢にそぐわない幼い話し方。
よく顔を見れば涙が一筋落ちている。
キアラは居た堪れなくなって、立ち上がりその場を離れた。
リカルドに初めて会ったのは、幼馴染のアンナと共に出席した夜会。
アンナは学業は優秀であったが内気で病気がちな娘だった。
婚約者リカルドと初めて顔を合わせる手筈となっていた。
父のラマート子爵が知人に挨拶に出る間「一人で待つのは淋しい」と言って、アンナはキアラに側にいてとねだった。
それが不幸の始まりだった。
リカルドはアンナではなく、キアラを婚約者と勘違いした。
キアラはすぐその場を辞そうとしたが、リカルドがその手を掴んで離さなかった。
当時キアラは学園でノアとひっそりと交際していた。
女子生徒からはとても人気があったが、朴訥として実直な性格のノアはその事態に困惑していた。
きっかけはほんの些細な事だったが、いつの間にか想い合うようになり交際を始めた。
ノアに夜会での出来事を話すと、
「交際している事は双方の家には承諾済みなのだし、早めに婚約してしまった方が良いのではないか」
と返ってきた。
社交シーズンであったのが幸いして、すぐさま書面だけでも婚約を交わす事が出来た。
婚約も公表し、部門をまたぐ事でリカルドからの横槍を躱す為に、コルデラ侯爵の協力を仰いだ。
その頃アンナもリカルドとの婚約が成立し、ノアと共に安堵した。
冬の初めの学園卒業と共に二人はクローステール男爵の邸へ居を移し、冬の間リカルドとの遭遇を避けた。
その甲斐あって翌春には、無事婚儀を執り行うに至った。
それから二年後クリスが誕生し、さらに二年後にはエリオットが誕生した。
アンナのもとにもクリスと同年の男児が産まれ、ラマート子爵家に後継者が出来た。
だが、学園卒業から十年、初秋のある日アンナから一通の手紙が舞い込む。
『子供も大きくなり、王妃直属の書記官として採用されたが、体調が芳しくないので出仕があやうい。もしもの事があれば、キアラに話が行く可能性がある』そう記されていた。
他部門に嫁いだというのに、何故自分にその役が回ってくるのかキアラには理解できなかった。
アンナからの手紙はその一通のみで、ふた月待っても何の音沙汰もなかった。
社交シーズンが終わり、クローステール男爵領の邸へノアと戻った。
コルデラ侯爵領内の冬支度についての会合に、ノアが出かけた夜にそれは起こった。
子どもたちを寝かしつけ、一息ついた時だった。
キアラは突然大きな袋に入れられ拉致された。
馬車に乗せられ数日、マールム公爵邸に降ろされた。
「お前は『内務』の裏切り者だ。お前のせいでお前の実家の男爵家は潰され、両親は野垂れ死ぬだろうな。それが嫌なら言うことを聞け」
当時すでに隠退していたジュゼッペの脅しに屈した。
一体何が裏切りなのかさっぱり解らないが、両親を盾に取られてはそうするしかなかった。
その日、久しぶりにリカルドと対面した。
やけに高揚した様子でキアラに話しかけてきたが、キアラはそれを相手にするどころではなかった。
胸に掛かったグラスホルダーを握りしめ、ただひたすらにクローステール男爵領に帰りたいと泣き崩れていた。
ノアに、可愛い子どもたちに会いたかった。
初めのうちはジュゼッペから「王妃に取り入れ」と命じられていた。
それが三年目の春、予想だにしない事が起きた。
ジュゼッペがコトリと小さな見慣れない形の銃をテーブルに置いた。
「国王と王妃にこれを使え」
驚愕のあまり「嫌です!」と大声でキアラは抵抗した。
怒りで顔を赤く染めたジュゼッペは、手加減無しに両頬を打った。
二度、三度、と。
「死にたくなければ、お前はこれで事を成せ!」
キアラはバッグに銃を入れて、ふらふらとした足取りで王城に出勤した。
王妃クラーワが何事かと問い詰めてくるが、キアラの心は何も動かない。
「何でもありません」と、それしか答えられなかった。
数日その調子でいたが、業を煮やし諜報員を使って調べたクラーワにキアラは保護された。
両親が心配だったが、クラーワにそちらも心配ないと優しく言い含められた。
キアラは銃を床に置き、クラーワに平伏した。
そして自分の知るすべてを話したのだった。
病室から出たキアラは医療室の長椅子に腰を落とし、再びグラスホルダーを握りしめた。
あれからずっと同じ事を想い続ける。
──ノアに、クリスに、エリオットに会いたい。
ノアはまだ自分を必要としてくれるのか。
他の男のもとへ来てしまった自分を、どう思っているのか。
銃を持たされ暗殺者となった自分の娘と息子の将来が心配でならない。
──ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
引き千切られるような胸の痛みに、涙が枯れることはなかった。
涙で滲む視界の中で、グラスホルダーのコードが少し解れているのが見えた。
「直さないとね」そっと、ハンカチで包む。
キアラは手芸が苦手だ。
何度針を指に刺したか分からない程だ。
でも、これだけはひたすらに自分で直し続ける。
今はこれだけが自分の拠り所なのだから。




