第三話 私服くん。
日曜日の昼下がり。
やわらかい日差しと、やさしい風。
それが、頬を撫でる。
通りの向こうで、信号がひとつ変わる音がした。
舗道の上には、淡い影が散らばっている。
楽しそうな笑い声が、穏やかな空気にまぎれて消えてゆく。
待ち合わせの場所につくと、彼がいた。
白いシャツ。細身のデニム。
オフィスで見る彼より、すこしラフな姿。
道脇の柵に軽く重心を預けるみたいにして、私を待っていた。
ビルの隙間を抜けた風が、彼の髪を少しだけ揺らした。
気づけば、視線がそこに留まっていた。
その時、ふと彼がこちらに気づいて。
「あ、来た」
仕事の時とは違う、少し柔らかい空気。
メガネはない。
その姿に、胸の奥がゆるく温かくなった。
――“彼氏”の顔。
「うん、今日もかわいい」
照れも冗談もなく、まっすぐに。
その素直さに、胸がすこしだけ熱くなる。
どちらともなく歩きだす。
通りにはコーヒーの香り。
ショーウィンドウのガラス越しに、
淡い音楽が漏れてきて。
ディスプレイの光がやさしく瞬いていた。
モールの自動ドアが開く。
音の粒が広がって、心が少し弾む。
休日のショッピングモール。
ざわめき、アナウンス、人の波。
はぐれるほどではないけれど、
彼は自然に、私の歩幅に合わせてくれる。
並んで歩きたい気持ちを言わなくても、
分かってくれている気がして。
そのやさしい歩調に、少し頬が緩んだ。
そんな時――ほんの少し、手がかすめた。
呼吸が半拍、遅れた。
ちゃんと“隣にいる”のがわかる距離で。
そう思うと、わずかに心拍が上がる。
「これ、似合いそう」
小さな雑貨店の店先で、足を止めた。
彼が手に取った小さなピアス。
それを耳もとへ、そっと寄せられる。
彼の指先の温度が、耳のそばで滲んだ。
「やっぱり似合うね」
呟く声。
その低さが、唐突に近くて。
胸の奥が、少しだけ跳ねた。
気づけば彼は、それを買っていた。
店を出たところで、小さな包みが私の手のひらにのせられる。
その軽さが、やけに意識に残った。
お礼を言うと、彼は「ん」と小さく頷いて。
そのまま、歩き出す気配を見せる。
「少し風にあたって休憩しようか」
そう言って、彼は自分の髪を指で整える。
その一瞬。
仕事の時にメガネを持ち上げる、
あの癖を思い出した。
「どうしたの?」
目の前の彼と、会社の彼。
どちらも同じなのに、どこか違う。
それが、なぜかうれしくて。
でも、言葉にはできなくて。
「……ううん、なんでもない」
そんな“特別”を抱えながら、ついていく。
屋上への扉に近づくと、午後の光が滲んで見えた。
自動ドアが開くと、外の空気がやさしく流れ込む。
屋上は整備されていて、テラスのようだった。
風が、通り抜けた。
花壇の草が、かすかに揺れている。
ベンチを見つけて、二人で座る。
見上げると空。
西の端が、少し赤く染まりはじめていた。
光がガラスの縁を撫でて、風に溶けていく。
その光が、彼の横顔を照らしていて。
ふいに吹いた風で、彼の髪が目にかかる。
思わず伸ばした手。
それを、彼にそのまま掴まれる。
「どうしたの」と言おうとした刹那。
――指先が絡む。
「……っ」
彼の、熱。
息が止まった。
視線が合って、ほどけない。
「……捕まえた」
一瞬の、少し挑発的な視線。
その少し意地悪な温度に、喉があがる。
手を繋ぐのなんて、今さらなのに。
それでも、身体は、心は。
無意識に反応してしまっていて。
「顔、赤くなった」
彼が小さく笑った。
それだけで、鼓動が加速する。
言葉も、動きもいらなかった。
ただ、その甘美な熱が胸の奥に残って。
ゆっくり、ゆっくり、広がっていった。
あぁ、この甘さって慣れない。
――たぶん、一生。




