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第二話 スーツくん。

キーボードの打鍵音。マウスのクリック音。

無機質なそれが、フロア各所で鳴る。

デザイン事務所の明かりは、そう簡単には消えない。


私も例に漏れず、モニターと見つめあう。

納期の近いデザイン案が進まない。


すでに時刻は、20時を回ろうとしていた。

疲れた目と進まないデザインに耐えられず、眉間を押さえた時だった。


「お疲れさまです」


事務所の入り口から、先輩の声が聞こえた。

目を向けると、見慣れた彼の――見慣れぬ姿。


いつもはカジュアルな先輩。

今日は、クライアントとの打ち合わせと言っていた。

それに同行するための、スーツ姿で。

いつもとは違う服装。

それだけで目が離せなくなってしまう。


先輩は、まっすぐ自分のデスクがあるこちらへ向かう。

靴音が、いつもより硬く聞こえた。


「資料、置いたら今日は帰る」


私に短くそう言って、デスクへ資料を置く。

淡々と、無駄のない仕草で。


スーツの袖口から覗く指先。

それが、やけに目についた。

思わず視線が、その手元を追ってしまう。

その余韻を振り切るように、私も作業を切り上げた。


……問題のデザイン案は、明日先輩に相談しよう。


そう切り替えて、パソコンの電源を落とした。

そのまま、椅子を押し戻して立ち上がる。

先輩と一緒のエレベーターへ向かうために。


廊下に出ると、靴音が二人だけの存在を刻んでいた。

当たり前のように隣に並び、エレベーターへ足を踏み入れる。


扉が閉まる。

続けて響く駆動音が、狭い空間を埋めていく。


――閉ざされた瞬間、空気が変わる。


ふっと、彼の気配が濃くなって。

狭いエレベーターのせいで、距離が近い。

その近さに、ようやく気づく。


「今日も残業?」


やわらかい笑みで、私に視線を向ける。

彼の気遣う声に一瞬、反応が遅れる。

それに気づかれないように、慌てて頷いた。


細身のネイビーのスーツ。

いつものメガネでさえ、今日はどこか整って見える。


……少し、ずるい。


「……あんまり無理しないようにな」


彼はしなやかな指先で、ネクタイを緩めながら。

その仕草に、視線が吸い寄せられてしまう。


「……」


……胸の高鳴りに、どうか気付かれませんように。

でもその思いは、あっさり覆される。


「……そんなに見る?」


落ち着いた声。

けれど、どこか熱を帯びていて。


「見てない……っ」


慌てて否定する。反射的に。

それがかえって、彼を刺激した。


「嘘」


わずかに口角があがる。

一歩、距離を詰められた。

そのまま彼の指先が髪に滑り込んできて。

ゆっくり、引き寄せられる。


――触れるだけのキス。


触れた瞬間、彼の息が混じって。

その温度に、身体がふっとほどける。


たった一瞬の熱に翻弄されて。

思考も、意識も、世界さえ。

ただ、その刹那に閉じ込められる。


世界が動き出すまで、短い沈黙が落ちていた。


……扉の開く音が、やけに遠くに聞こえた。

その音に紛れて、彼はさらりと身を引く。


「このまま帰るのもいいけど、どっか寄る?」


熱を与えたくせに、穏やかに笑みながら。

けれどその誘いに、心臓がまたひとつ跳ねた。


扉を出た瞬間、夜の風が頬を撫でる。

ネオンに紛れるスーツ姿。


その横顔に、

ただ、翻弄されるしかなかった。




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