第一話 メガネくん。
夜のオフィス。
冷たい蛍光灯の光だけが、机を照らしていた。
コピー機の低い待機音。空調の風。
昼間のざわめきが消えた空間。
フロアの蛍光灯は、私たちのデスク付近を残して消えている。
窓の外では、ビルの隙間にネオンが瞬いていた。
その光を受けて、モニターの画面がかすかに揺らぐ。
フロアに残っているのは、私と先輩。
私たちの呼吸音さえ、際立って聞こえる気がした。
この時間まで残るのは、特別な事じゃない。
先輩との残業も、もう慣れている。
仕事をしているあいだは、
ちゃんと先輩で、ちゃんと後輩。
それは二人で決めたこと。
「そうそう、それ。いらないと思う」
太めの黒縁メガネ。
シャツの上に羽織ったカーディガン。
肩から腕にかけて、布がゆるく落ちている。
残業時間はいつも、少しだけ輪郭を曖昧にする。
まだ仕事の途中なのに、
一日の終わりみたいな空気が、少しだけ混じる。
そのせいで、視界の端にある“先輩”の姿に、仕事と私生活の境界が揺らぐ。
「ここはクライアントに説明、いるね」
モニターを指でなぞりながら、落ち着いた声が続く。
――自分と同じ柔軟剤の香りが濃くなる。
私より香りにうるさい、彼が選んだもの。
「ここも修正ね。
このデザイン的に、あんまり効果的な位置じゃないから」
“先輩”の言葉を置き去りにして。
意識が、香りに連れ去られてしまう。
そのまま、視界に入る白い指先の動きに視線が固定される。
「クライアントの一番の要望、なんだった?」
先輩の言葉が、ただの“音”になってしまっていて。
――気づけば、返事を忘れていた。
「……ねぇ、聞いてる?」
少し怪訝そうなその声に、意識が引き戻されて。
慌ててモニターのデザイン案に焦点を戻す。
けれど、――余計に意識してしまう。
「疲れてるのは分かるけど……」
メガネの奥の瞳が、心配そうに淡く揺れていて。
「……ここは終わらせよ?」
その声には、優しさが滲む。
ほんの一瞬、無言のまま見つめ合う。
ネオンの光がレンズに反射して、彼の瞳を染めていた。
その瞳に射抜かれて、思わず息を飲む。
どうしても、目が離せなかった。
意識とは別に――言葉が、落ちてしまった。
「……メガネ、外して?」
一瞬の沈黙。
「……なんで?」
先輩は怪訝そうに眉を寄せて、フレームに手をかける。
わずかに顎を引くと、フレームの上側から素の瞳が覗いた。
その視線に縫い止められて、動けなくて。
「あぁ。――そういう事?」
わざとらしく動作を見せながら、先輩はメガネを外す。
机に置いた瞬間、素顔の瞳に捉えられた。
それは見透かすような、少し余裕のある瞳で。
そのまま先輩は口角を上げ、少し意地悪く笑みながら――
「……キスの邪魔だから?」
返事をする間もなく、
迷いのない唇が、触れる。
触れた熱が、広がっていく。
けれど、ほんの一瞬で離れて、熱だけが残る。
その熱の隙間で、呼吸が少しだけ重なった。
「……続きはまた、あとで」
意地悪に囁いた声が、空気に滲んでいく。
私に残った熱だけを、置き去りにして。
その余韻は、モニターの光に溶けていった。




