第51話
怖くて、振り返れなかった。
あの冷たい手が、肩に置かれている。
氷そのものみたいな温度。
絶対に、生きている人間のものじゃない……
「すみません……」
声は、ひどく掠れていた。
今にも渇き死にそうな、砂漠の旅人みたいな声だった。
「足立区へは……どう行けば……あぁ……」
◇
ドンドンドン……
「翔太! 宿題やらずに、またこっそり配信見てるんでしょ!?」
「翔太!」
「お母さん、入るわよ!」
ガチャッ。
扉が開く。
部屋へ入った女性が最初に目にしたのは、こちらに背を向けたまま机に突っ伏している少年だった。
机の脇には、手つかずの宿題。
そして、その横には山積みになったケーキの箱。
それを見て、女性は苦しげにため息を漏らした。
「翔太……あのことが……つらいのは分かってる……
でも、この世には……どうしても……避けられない事故って、あるのよ……」
「……」
暖色のデスクライトに照らされながら、少年は何も答えない。
腕の中へ顔を埋めたまま、微動だにしなかった。
女性は嗚咽を堪えながら、そっと少年の背中を撫でる。
「お父さんだって、きっと……翔太に、こんなふうになってほしくは……」
女性はゆっくりと腰を曲げ、背後から少年を抱きしめた。
その身体は、小刻みに震えている。
彼女だって同じだった。
これから先の人生を、どうやって生きていけばいいのか。
この先のことなんて、まともに考えられなかった。
「全部、僕のせいなんだ……
僕が誕生日なんか迎えなければ……お父さん、あんなことにならなかった……
いっぱいケーキ買ったのに……
なのに……お父さん……
なんで帰ってこないの……
お願いだから伝えてよ……
もうケーキなんかいらないって……
全部、僕が悪いんだ……
地獄に落ちなきゃいけなかったの、ほんとは僕のほうなのに……」
腕の隙間から、か細い声が漏れる。
「違う……翔太のせいじゃない……
責めるなら、私を責めなきゃ……
あの日、代わりに行っていたのが私だったら……」
女性ももう、それ以上言葉を続けられなかった。
涙が、ぼろぼろと零れ落ちる。
【すみません……】
静まり返っていた空気を、突然しゃがれた声が裂いた。
掠れすぎて、まともに聞き取れないほどの声。
なのに。
母子の胸は、なぜか強く揺さぶられた。
忘れたはずの記憶が。
当たり前だった日々の断片が。
一瞬で胸の奥から蘇ってくる。
【足立区へは……どう行けば……あぁ……】
「足立区……?」
二人は同時に顔を上げた。
そして、スマホに映るライブ配信画面を見る。
◇
「そ、その……わ、私も……よ、よく分からなくて……」
終わった!!
幽霊の質問に答えられなかったら殺されたりしない!?
と、とりあえずどっちか指差したほうがいい……?
「ほ、本当にごめんなさい……私も迷子なんです……殺さないで……殺さないでください……」
私は必死に謝り続けた。
やがて。
肩に置かれていた冷たい感触が、ふっと消える。
さらに、しばらく経ってから。
ようやく私は、恐る恐る後ろを振り返った。
「ひゃあああああ――!!」
そこには、虚ろな目をした男が立っていた。
手には、ぐしゃぐしゃに潰れたバースデーケーキの箱。
……絶対、怨念めちゃくちゃ強いやつだ!
子供に誕生日ケーキ買いに行った帰りに事故死とか、そういう最悪な死に方したタイプでは!?
これ絶対、怨霊クラスのやつじゃん!!
けれど。
私が男を見つめた瞬間、その目に、わずかに正気が戻った。
『パパ! パパなの!? パパ!! 僕だよ、翔太だよ!!』
『(10万円相当のギフトを送信しました)
お願いです!! 一度だけでも話をさせてください!!
お願いします!! お願いします!!
足りないなら、もっと払います!!
だから、お願いです!!』
ポチがそのコメントを強調表示してくれたおかげで、私はすぐ気づいた。
「えっと……目の前の幽霊さん、ご家族なんですか?
あっ、いや、そんなギフト投げなくても大丈夫ですよ!?」
「何か伝えたいこと、あるんですよね?
そうだ、配信に通話機能ありましたよね。直接お話ししてください!」
私は通話接続ボタンを押した。
ポチが空中へ映像を投影し、向こう側の画面を映し出す。
それを見た瞬間。
男の表情に、一気に生気が戻った。
「恵子? 翔太!?
あぁ、ごめん、今すぐ帰るからな。どうも道を間違えたみたいで……
ケーキも……」
男は自分の持っていたケーキ箱を見下ろし、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんな……ケーキ、落として潰しちゃったみたいだ。
すぐ買い直してくるから……」
『パパ!』
『……バカ……っ』
映し出された二人が、男へ抱きつく。
男は目を見開いた。
二人の泣き声を聞きながら。
ようやく、自分が何者なのかを思い出したみたいに。
静かに、息を吐く。
「……ごめんな……
俺……
もう……帰れない、みたいだな……
ごめんな……」
「謝らないでよ!!
そもそもケーキ買いに行ってって頼んだの、私なんだから!!
謝るべきなのは、私のほうでしょ!!」
女性は目の前の空気を、必死に抱きしめる。
本当にそこに彼がいるみたいに。
「全部、私のせいなの!!
誕生日なんか迎えなきゃよかった!!
全部、全部、私のせいなのよぉ!!」
三人はそのまま抱き合いながら、堰を切ったように泣き続けた。
もう二度と叶わないはずだった再会。
押し潰していた悲しみが、一気に溢れ出していく。
私は鍋を抱えたまま、その横にしゃがみ込み、なんとも言えない顔になる。
……とりあえず。
幽霊さん、私を殺す気はないみたい。
というか、気づけば。
周囲には、いつの間にか大量の人影が現れていた。
赤い彼岸花の中を、魂たちがぼんやりと三途の川へ向かって歩いている。
「さっきまでは、こんな人影いなかったのに……
やっぱり……転送陣が壊れてるから?」
【あるいは、あなた自身が“生者”から遠ざかっている可能性もあります。】
「……そういう怖いこと言わないでよ!!
今ちょうど感動して泣きそうだったのに!!」
しかも。
私は気づいてしまった。
三途の川へ向かっていたはずの魂たちが。
私と目が合った瞬間、次々と立ち止まり――
その目に、徐々に正気が戻っていった。
『あっ……あれ、娘じゃないか……!?』
『(10万円相当のギフトを送信しました)
お願いです!! 娘に会わせてください!!
昨日、娘がダンジョンで死んだばかりなんです!!
お願いします!!』
『(20万円相当のギフトを送信しました)
あそこの覆面男、呼んでもらえませんか?
頭に穴開いてるやつです。
昨日、一緒に銀行強盗した金塊をあの野郎どこに隠したのか聞きたいんですけど。』
『(10万円相当のギフトを送信しました)
すみません、そこの首にストッキング巻いてる男を呼んでもらえますか?
今週の漫画原稿、まだ納品されてないんです。』
「………………」




