第49話
二時間後。
私はしょんぼりした顔で、ダンジョン入口の前に立っていた。
深く息を吸う。
そして――くるりと後ろを向く。
「……急に、まだ必要なものがある気がしてきた……ちょっともう一回確認してくる……」
「現実逃避しないでください! さっきもう『ダンジョン産フグ』『青野の錬金薬十本』『レンガより分厚い除霊札の束』『新品のパンツ十枚』『爪切り』『キーボード』まで準備してたでしょう!? 後半は今回の探索とまったく関係ないですからね!?」
「なんか……いちご大福も必要な気がする。できればココナッツまぶしてあるやつ」
「……完全におやつ目的じゃないですか!!」
もう無理なの!?
本当に行かなきゃダメなの!?
なんで視聴者、みんな『wwwww』しか打たないの!?
誰か助けてよぉ!!
青野がぽん、と私の肩を叩いた。
「昨日、あなたが配信した『奇遇・古代魔法市場』ってかなり珍しいイベントだったんですよ。それに今日は最新ダンジョンの情報公開配信もあるので……今のあなた、もう日本で一番勢いある配信者みたいなものですから」
「ちゃんと配信を成功させれば、今夜にはポチの味覚モジュールくらい買えるかもしれませんよ?」
「ほんと!?」
「もちろんです――って、ちょっ!? リュック!!」
私はリュックをひったくるように掴むと、そのまま迷いなくダンジョン転送陣へ全力疾走した。
今回の転送陣は、人の気配が消えた河川敷に設置されていた。
遠くには、ぼんやりと都市の輪郭が見える。
……静かすぎる。
鳥の鳴き声もない。
風で木々が揺れる音すら聞こえない。
まるで、時間そのものが止まってしまったみたいだった。
空気はどこか重たく、ひんやりとしている。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
目を閉じて、そのまま転送陣へ足を踏み入れる。
「ポチ……ちゃんと転送できた?」
周囲は相変わらず静まり返っていて、転送前とまるで変化がない。
だから、自分が本当に移動したのかすら分からなかった。
【ダンジョンへの侵入を確認しました】
「……周りに何があるか、教えてくれる?」
【細長い花弁が外へ巻き、無数の細い指のように揺れています。亡者の川には怨霊の霧が漂い、鮮血が大地を覆い尽くし――】
「童話風描写モードに切り替えて!!!」
【美しい彼岸花の花畑が地平線まで広がっています。澄んだ川には生者たちの想いが流れ、小さな白い橋が静かに架けられています。波には夕焼けの残光が揺れていました】
「ふぅ……」
私はようやく、恐る恐る目を開けた。
『綺麗!!』
『うわ、めっちゃ綺麗!!』
『ここ本当に冥界なの!?』
『彼岸花畑が果てしなく続いてる……!』
配信コメントの大半は、目の前の景色への感嘆で埋め尽くされていた。
実際、世界そのものを埋め尽くす彼岸花の海は、圧倒的な光景だった。
まるで夢の中にしか存在しない景色みたいで。
……でも。
ここが“死者の世界”を模した場所だと思うと、どれだけ綺麗でも足の震えは止まらない。
「わ、私たち……ここでピクニックしよう……」
私は転送陣に背中をぴったり押しつけたまま、片手で地面の転送陣を必死に掴み、へにゃっとその場に座り込んだ。
【……入口から手を離せないの、さすがにビビりすぎでは? 視聴者も見ていますよ】
「離した瞬間、そのまま冥界に消えて、誰にも見つけてもらえなくなるかもしれないじゃん!」
【……じゃあ、なぜ入ってきたんですか……味覚モジュールが欲しいだけなら、昨日の薬を売ればよかったのでは?】
「やだ!」
私は地面にリュックを下ろした。
中から小さなカセットコンロと、いくつかのタレ、箸、皿を取り出していく。
警察のおじさんが言ってた。
彼岸花を食べて、効果を説明してほしいって。
三途の川の水も飲んで、釣りも試してみてほしいって。
……つまり。
この三つだけ終わらせればいいんだよね?
うん。
別に怖がってるわけじゃない。
ただ、生者は冥界に長く留まっちゃいけないっていうし……
そういう伝承、いっぱいあるじゃん。
生者が冥界に長くいると、そのまま永遠に迷い込むって。
【これはあくまでダンジョンです。少し冥界に似ているだけです。“ダンジョン異星説”によれば、数百光年先の惑星である可能性が高いので、そこまで怯えなくても……】
「ネットで怖い画像見たときだって、偽物って分かってても怖いでしょ!? それに、本物の冥界が実は宇宙のどこかの星だった可能性だってあるじゃん!」
【ですが、ずっと片手で転送陣を掴んでいるのは――そんな力で握ったら……】
ガキッ。
私は手を持ち上げた。
呆然とした顔で、自分の手の中にあるものを見る。
……転送陣の石板だった。
地面に刻まれていた転送魔法陣が、壊れた蛍光灯みたいに一瞬チカチカと瞬き――
ぱちん、と音を立てて消えた。
「………………」
さっきまで高速で流れていたコメント欄すら、一瞬だけ止まった気がした。
遠くで。
冷たい風が、彼岸花の海をざわりと揺らす。
三途川の水音が、初めてはっきり耳へ届いた。
【はい。ちょうど、こんな感じです】




