第46話
そのときの私は――
まるで、崖際まで追い詰められたウサギみたいだった。
本能的な恐怖で頭の中は真っ白。
足は震えて、逃げ出すことすらできない。
「誰に売るのか、さっさと言えよぉ……?」
赤髪の筋肉男が、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
もう背中は木にぴったり張りついていた。
逃げ場なんて、どこにもない。
足音が近づく。
神経は、とうに限界まで張り詰めていた。
コツ。
コツ。
そして――
ぷつん。
何かが、切れた。
ずっと張り詰めていた何かが、限界を超えて断裂したみたいに。
私は勢いよく顔を上げた。
「なんで絶対あんたたちに売らなきゃいけないの!? SSS級なら何しても許されるわけ!? 私まだ“売る”なんて一言も言ってないのに、わけ分かんないことアバアバ喚きながら勝手に競り始めてさぁ!! うるさいんだよほんとにぃぃぃっ!!!」
「うぇっ」
赤髪の筋肉男の足がぴたりと止まる。
彼は露骨に気まずそうな顔で、頭をかいた。
「い、いや……売りたくないのか? でも……なんでだよ?」
「……ん?」
金髪の女も眉をひそめる。
指先で空中を払うように操作すると、目の前に何枚もの資料がホログラム表示された。
「公開プロフィールを見る限り、あなたかなりお金に困ってるわよね? この薬を売れば、一生遊んで暮らせるレベルの資産になる。つまり、合理的に考えれば“売らない理由”が存在しないわ」
「G級冒険者の現段階では、“完全回復薬”そのものに大した価値はありません」
青髪の女も、不思議そうに私を見る。
「ですが、百億あれば装備も錬金薬も揃えられる。A級以上の冒険者になることも可能でしょう。どう考えても、売却したほうが合理的です」
私は一歩前へ出た。
背筋を伸ばし、真顔で言い放つ。
「お金じゃ買えないものだってあるの!!」
「……」
三人は数秒、黙り込んだ。
「……まあ、それはそうね。特に“完全回復薬”みたいな代物なら尚更だわ」
金髪の機甲女が小さく息を吐く。
「家族に重病人でもいるの? だったらS33ダンジョンの治癒の泉に連れて行ってあげてもいいけど」
私は首を横に振った。
「いないよ。まだ病気になってないから」
「……まだ?」
金髪女が眉を寄せる。
「未来への備え、ってこと? でも、その相手が常にあなたのそばにいる保証なんてないでしょう? もし瀕死になった時、その人が近くにいなかったら、回復薬は意味をなさないわよ?」
「絶対そばにいるもん!」
私は即答した。
「寝る時も、探索する時も、ご飯食べる時も、ずっと一緒にいる! 絶対に離れない! そばにいない状況なんてあり得ない!」
「……はぁ??」
三人が周囲を見回す。
「じゃあ、そいつ今どこにいるんだよ。全然見えねぇけど?」
そして三人の顔に浮かんだのは――
明らかに、“頭のおかしい人”を見る目だった。
その瞬間。
青髪の女が、何かに気づいたように目を見開いた。
彼女の視線が、私の隣に浮かぶポチへ向けられる。
私は反射的にポチを抱きしめた。
青髪女は静かに目を閉じる。
眉を寄せ、指先で何かを計算するみたいに空をなぞった。
「……なるほど」
ぽつりと呟く。
「失礼しました。余計なお世話でしたね……」
再び目を開いた彼女は、複雑そうな目で私を一瞥すると――
そのまま身体を青い流星へ変え、一瞬で消え去った。
「What?? なんで急に帰ったんだあいつ!?」
赤髪の筋肉男と金髪女は、完全に置いていかれていた。
数秒後。
筋肉男が、はっとした顔になる。
「……待てよ。お前が言ってる“そいつ”って、まさか……そのAIか!?」
次の瞬間。
爆発みたいな笑い声が響いた。
「嘘だろ!? マジでそのAIなのかよ!? あり得ねぇだろ!! 一〇〇億の薬をAIのために残すのか!? 一〇〇億ドルだぞ!? ドル!! 円じゃねぇんだぞ!? そいつ口すらねぇじゃん!!」
「味覚モジュールつけたらあるもん!!」
金髪女は呆れたように首を振る。
「味覚モジュールを搭載しても、薬効は発動しないわ。あれはスペクトル解析で成分を“味として再現”してるだけ。本当の意味で食べてるわけじゃないもの」
「消化モジュールもあるでしょ!」
「まあ、あるにはあるけど……」
彼女は肩をすくめた。
「超高額モジュールよ? しかも実用性はほぼゼロ。お金が有り余ってる大バカくらいしか、AIに消化モジュールなんて積まないわ」
赤髪の筋肉男も腕を組む。
「つーか、その完全回復薬一個あれば、お前の持ってるみたいなAIアシスタント何十万台も買えるだろ。しかも最新型でな。お前のそれ、もう型落ち通り越して錆びかけだぞ」
「そんなのいらない!!」
「うっ……」
筋肉男と金髪女が顔を見合わせる。
そして同時に、肩を落とした。
「……こいつ、ガチでカウンセラー案件かもしれない……」
ぶるっ。
そのとき、ポチが小さく二回震えた。
【少し、私の意見を聞いていただけますか?】
「ん?」
ポチがふわりと浮かび上がる。
そのまま筋肉男と金髪女の方へ向いた。
【お二人様。私も本来なら、“私はただのAIにすぎません。型落ちのAIのためにここまで大きな代価を支払うのは、あまりにも割に合いません”……といった話をするべきなのでしょうが】
【このバカは、きっと聞きません】
「……誰がバカなの!? なんでまた敵の味方して私のこと罵ってるの!?」
【この子は、本当に筋金入りのバカですので】
「……まだ罵るの!?」
【ですので、お二人様が常識として提示している“価値の比較”も、“武力による威圧”も、このレベルのバカにはまったく通用しません】
「……どこがバカなの!? 私、この前だって事件解決の手伝いしたじゃん!」
【もしお二人様が、彼女の手から完全回復薬を得たいのであれば、方法はひとつだけです】
【彼女と友人になることです】
【彼女に、“この人になら薬を使ってもいい”と思える、大切な相手だと認識させるのです。そうすれば、あなた方が傷つき、瀕死になったとき、彼女はきっと薬を使って助けようとするでしょう。あるいは、薬そのものをあなた方に託すかもしれません】
「こんな勝手に決めつけてくるクソ野郎どもと友達になんかなりたくない!」
【AI利用規約に基づき、ユーザーの過度な依存を回避するため。AIである私は、彼女と現実を繋ぐ唯一の存在になることはできませんし、なるべきでもありません】
【だから私は――】
「もういい!」
私はポチのスピーカーを、ぎゅっと塞いだ。
無表情のまま。
「……もう、いい……」
周囲が静まり返る。
聞こえるのは、風に揺れた木の葉のざわめきだけだった。
そのとき。
筋肉男が拳を持ち上げる。
盛り上がった上腕二頭筋に、ミミズみたいな筋が浮き上がった。
「つまり、そのAIをぶっ壊せば、お前は薬を売るってことだろ?」
「……それに触ったら、殺す」
「――は?」
筋肉男はぎょっとした顔で周囲を見回した。
今の声の主を探すみたいに。
けれど次の瞬間、ようやく気づく。
人間とは思えないほど冷え切ったその声が――
目の前の少女から発せられたものだったことに。
さっきまで、恐怖で震えていたはずの少女。
私はしゃがみ込み、鋭い石片を拾い上げる。
そして、それを自分の手首へ押し当てた。
以前、私の血は一滴だけで、邪教団全員をモルモットに変えた。
しかも今は、運命薬をあれだけ飲んだ直後だ。
もしこれをエアロゾル状にして撒いたら――
何が起きるのか、私にも分からない……




