第42話
私がぽかんと立ち尽くしている間に、配信コメント欄ではすでにオークションが始まっていた。
しかも、飛び交っている金額がもう、完全に私の理解を超えている。
――数百億ドル。
それって、いったいどれくらいのお金なんだろう。
どれだけのものが買えて、どれだけのことができるんだろう。
普段、もやしばっか食べて生きてる私には、まったく想像がつかなかった。
一夜にして、誰もが羨む大富豪になった……のかもしれない。
でも――
その瞬間の私の感情は、喜びとは程遠かった。
頭の中が真っ白だった。
数字が大きすぎてフリーズしたプログラムみたいに、脳が完全に停止していた。
そんな私を現実へ引き戻したのは、流れ続ける狂乱のコメントでも、ポチの呼びかけでもない。
――お腹の音だった。
「……あっ、そういえば、まだ何も食べてなかった。食べ物売ってる屋台がないか探してみようかな……」
いつもの“食べ物探しモード”に戻った瞬間、ようやく私は自分の身体を操作できるようになった。
「薬剤とかは後回し。ここで空腹で倒れたらシャレにならないし……」
みんなに魔法市のルールを紹介するって言ったんだから、まずはちゃんとそれをやり遂げよう!
……そういえば、青野はどこ行ったんだろう?
【先ほど一人で市場を見て回りに行きました】
そっか。
じゃあ、各自自由行動ってことで。
私はポチと一緒に、道沿いに並ぶ商品や取引ルールを一つずつ丁寧に読んでいった。
すると気づく。
この市場に並ぶ商品のほとんどが――“物語”を代価にしていた。
しかも要求されるのは、
『未来世界における国家と領土の物語』
『未来世界における食文化の物語』
『未来世界における人種と身体構造の物語』
……みたいなものばかりだった。
正直、こういう話って語り始めたらかなり時間を取られそうだ。
しかも魔法市の開催時間はたった一時間しかない。
だから私とポチは、あまり長居せず次々に先へ進んでいった。
「……なんか、普通に食べられるものってないの?」
十字型に広がった市場を、私とポチはほとんど隅々まで歩き回った。
それでも、“完全回復薬”以外に、その場で食べられそうなものが見つからない。
硬すぎて噛めなさそうだったり。
見た瞬間に「絶対食べたくない……」ってなるものだったり。
少なくとも、黒布の屋台以外にはまともな食べ物は存在していなかった。
[おそらく魔法市の創造主も想定していなかったのでしょう。ここには運命を変えるほどの品々が並んでいるというのに、豚みたいなのが一人、必死に食べ物を探しているなどとは]
「……コメント酷すぎるよ!!」
でも、まったく反論できない。
私は半ばやけくそになりながら、思わず黒布の屋台へ視線を向けた。
……あっちなら、何かあるのかな?
でも、どう見ても危険そうなんだよね。
しかも、黒布屋台で取引すると“借金”が残ることもあるって話だし……
[行け行け!]
[何ビビってんだよ! 百億稼いだ女だろ!]
[せっかくだし、ちゃんと奥まで見せてくれ!]
コメント欄は、完全に煽り一色だった。
……でも正直、今の私は本当にお腹が限界だった。
脚がふらつく。
何か食べないと、市場が閉じる前に、本当に気絶するかもしれない。
「……見るだけなら、大丈夫だよね?」
私は意を決して、屋台に垂れ下がった黒布を指先でつまむ。
そっと、その端を持ち上げた。
――そして。
屋台の主の姿を見た瞬間、私は一瞬きょとんとした。
「やあ。どうやら、外側のエリアは一通り探索し終えたみたいだね」
「――真の魔法市へようこそ」
そこにいたのは、最初に私たちを迎えたあの魔法使いだった。
彼は優雅に微笑みながらこちらへ手を振る。
白手袋に包まれた指先が、静かに杖を持ち上げ、空中をとん、と叩いた。
すると空気が湖面みたいに淡く波打った。
波紋の中心から、一枚のタロット仮面が音もなく浮かび上がる。
魔法使いはその仮面を摘み上げ、静かに顔へ装着した。
カードに描かれていたのは、頭上に∞の記号を掲げ、片手を天へ伸ばす男。
――“魔術師”。
魔法使いはテーブルの向こう側へ腰掛ける。
杖で円を描くと、机の上に乳白色の液体が入ったグラスが現れた。
ふわり、と。
甘いミルクの香りが周囲へ広がる。
「ここでは……」
「ぐぅぅぅ〜〜……」
「君は……」
「ぐぅぅぅ〜〜……」
「どんな……」
「はぁ〜〜っ! ありがとうございます! このシェイク、めちゃくちゃ美味しいです!!」
「……あらゆる願いを叶えることができる。ただし、この“運命薬”を飲み干す勇気があるなら、ね……」
「げふっ」
私は満足げに小さくげっぷをした。
「さっきのシェイク、もう一杯ありませんか? あっ、それと……あれってお茶みたいなサービス品ですよね? 無料ですよね?」
「……それは“運命薬”だ」




