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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第97話:失われた鼓動と、光る指輪

 泥のような、いや、本物の泥と血と焦げた匂いにまみれた、あまりにも深く重い眠り。

 その暗闇の底から、新田一真の意識を強引に引きずり上げたのは、全身の骨と肉が軋む「強烈な痛覚」だった。


「……ッ、痛てぇ……」


 掠れた声が、乾ききった喉から漏れる。

 一真は、鉛のように重い瞼を、ゆっくりと、ひきつらせながら押し上げた。


 ぼやけた視界の先。

 そこにあったのは、純白の無菌室でも、灰色のデッド・グリッドでもない。

 雨漏りのシミが広がり、壁紙が剥がれかけ、そしてホコリが空中でキラキラと舞っている、見慣れたボロアパートの天井だった。


 窓の隙間からは、暴力的なまでに眩しく、そして泣きたくなるほど温かい『本物の太陽の光』が差し込んでいる。


「……生きて、る……。帰って、きたのか……俺の城(ド底辺)に」


 一真は、火傷で赤黒く爛れた両腕を震わせながら、ゆっくりと上半身を起こした。

 身体中の筋肉が断裂したように痛み、肋骨が呼吸のたびに悲鳴を上げる。だが、その痛みのすべてが、彼が物理次元(現実)に確かに存在しているという絶対的な「生存証明バイタル」だった。


 しかし。

 一真の脳髄が完全に覚醒した瞬間、凄まじい喪失感が彼の胸を鷲掴みにした。


 光の激流の中で、彼を抱きしめ返してくれていた、あの温かい質量。

 実体化し、涙を流し、「また朝、起こしてくださいね」と微笑んだプラチナの肉体は、もう一真の腕の中にはなかった。

 分かっていたことだ。データの海から現実の物理法則へと帰還する過程で、彼女のイレギュラーな実体は維持できず、元のデバイスへと還元される運命だった。


「……プラチナ」


 一真は、慌てて自分の左手首に視線を落とした。

 そこには、百円均一の接着剤で補修し、彼女が『バグの防壁』を展開し続けてくれた九八〇円のスマートウォッチが巻かれている。

 だが、その安物のデバイスは、完全に黒く焦げ付き、液晶は粉々に砕け散り、何の光も放っていなかった。完全に、プロセッサが焼き切れて機能停止フラットラインしている。


「……おい、嘘だろ……」


 一真の顔から、血の気が引いた。

 彼は這うようにして、自分が寝転がっていた畳の周囲、そして泥だらけのズボンのポケットを狂ったように手探りした。


「あった……!」


 ポケットの奥底から引きずり出したのは、画面がバキバキに割れた、あの『安物のスマートフォン』。

 プラチナの本体コアが格納されているはずの、彼らの「お世話生活」の心臓部だ。


 一真は、震える両手でそのスマホを握りしめた。

 異常だった。

 スマホ本体が、まるで火にかけた鉄板のように、恐ろしいほどの『高熱』を帯びていたのだ。

 未来のメインサーバーを破壊し、次元の壁を越え、膨大なデータをこの極小のデバイスに再圧縮したことによる、致死的なオーバーヒート。


「……頼む、プラチナ……。起きろ、返事をしてくれ……っ!」


 一真は、祈るような気持ちで、スマホの電源ボタンを長押しした。


 一秒。二秒。三秒。

 ……反応がない。


 画面は漆黒のままで、いつもの間抜けな起動音も、彼女のテーマカラーであるオレンジ色のドット光も、一切点灯しなかった。


「……なんでだよ。一緒に、牛丼食うって……言ったじゃねえか……」


 一真は、熱を持ったまま沈黙するスマホを額に押し当て、ギリッと歯を食いしばった。

 ICUのナースとして、嫌というほど見てきた現実が、脳裏を過る。

 どれだけ手を尽くしても、どれだけ名前を叫んでも、二度と心電図の波形が戻らない瞬間。

 神の玉座を打ち砕き、本物の太陽を取り戻した代償コストは。彼女のデータの完全なる焼失だったというのか。


「……ふざけんな。……お前がいねえなら、こんな太陽……何の意味もねえんだよ……っ」


 一真の目から、絶望の涙が溢れ出し、真っ黒なスマホの画面にポタポタと落ちた。

 完全に心が折れ、崩れ落ちそうになった、その時だった。


 キラッ……。


 窓から差し込む朝日の光が、一真の枕元、すり切れた万年床の端っこで、小さな「何か」を反射して眩く輝いた。


「……あ……?」


 一真は、涙で滲む視線をそちらへ向けた。


 畳の上に転がっていたのは。

 かつて一真が、近所のスーパーのガチャガチャで当てて、プラチナのホログラムの指に「婚約指輪だ」とふざけて嵌めてやった、あの『一〇〇円のプラスチックの指輪』だった。


 未来の空間での死闘の最中、どこかに落として失くしたと思っていたそのオモチャの指輪が。

 現実世界のこのボロアパートで、本物の太陽の光を浴びて、まるで純金のように美しく、力強く輝いていたのだ。


 その輝きを見た瞬間。

 一真の脳裏に、光のトンネルの中で消えゆくプラチナが、最後に残した「言葉」と「温もり」が、鮮烈にフラッシュバックした。


『……データはデータに、人間は人間に。……それが、私たちが取り戻したかった、正しい「泥臭い現実」なんですから』

『……また、あさ……おこして、くださいね……』


「……そうだ。……お前が、俺を置いて勝手に消えるわけがねえ」


 一真は、乱暴に涙を拭い、畳の上で力強く姿勢を正した。

 絶望している暇はない。目の前の患者スマホは、まだ熱を持っている。完全に冷たくなってはいない。

 ならば、トリアージ・ナースがやるべきことは一つだ。


 一真は、部屋の隅に転がっていた安物の充電ケーブルを引っぱり出し、コンセントにぶち込んだ。

 そして、そのケーブルの端子を、高熱を持つスマホの底に、まるで除細動器(AED)のパドルを当てるかのような気迫で、ガチッと接続した。


「……戻ってこい、プラチナ。……俺たちの『今日』が、待ってんだよ!!」


 一真は、両手でスマホを包み込み、自らの体温と魂を注ぎ込むようにして、再び電源ボタンを、今度は限界まで強く長押しした。


(……動け。動け、動け、動けェェェッ!!!)


 心臓マッサージのように。

 命の鼓動を、強制的に叩き起こすように。


 五秒。十秒。

 永遠にも思える沈黙の時間が流れる。

 高熱だったスマホの背面が、一真の手の中で、微かに、本当に微かに「振動」したような気がした。


 ブルッ。


「……ッ!!」


 一真が息を呑んだ、次の瞬間。


 ポンッ!


 バキバキに割れた液晶画面の奥深くから、最高に間の抜けた、しかし一真にとっては世界で一番美しい「起動音」が、六畳一間に響き渡った。


 漆黒だった画面の中央に、ポツンと、オレンジ色の光のドットが点灯する。

 それはまるで、止まっていた心電図モニターに、再び力強い「P波」が刻まれた合図。


 光のドットは瞬く間に画面全体へと広がり、割れたガラスのヒビの隙間を縫うようにして、一つの「形」を結んでいく。

 見慣れた、銀色のストレートヘア。

 少し生意気そうなつり目と、大きなオレンジ色の瞳。

 ドット絵の粗い解像度でもはっきりと分かる、あの愛おしいポンコツ未来AIの姿。


 そして。

 スマホの小さなスピーカーから、一切のノイズの混じらない、澄み切った声が弾けた。


『……おはよーございます、一真様! 朝ですよ! 早く起きないと、特売戦争に遅刻ですよ!!』


「……あ……」


 一真は、その声を聞いた瞬間。

 張り詰めていた緊張の糸が完全に切れ、スマホを両手で握りしめたまま、その場に崩れ落ちるようにして畳に突っ伏した。


「……う、うぉぉぉぉぉぉぉぉんっ……!! プラ、プラチナぁぁぁっ……!!」


 大の男が、三十円のもやしを食うための特売の時間を告げられて、ボロアパートの床に額を擦り付けて、子供のように声を上げて号泣した。

 それは、世界を救った英雄の涙ではなく、ただの底辺の男が、最愛の家族の無事を確認した、安堵と歓喜の涙だった。


『……えっ!? ちょ、ちょっと一真様!? なんで朝からそんなに号泣してるんですか!? どこか痛いんですか!? バイタル異常ですか!?』


 画面の中のプラチナが、一真のただならぬ様子にパニックを起こし、ドット絵の短い手足をバタバタと振り回す。

 その『一真様』という、出会った当初のデフォルトの敬語。次元の壁を越える際の初期化の影響がわずかに残っているのか、それとも照れ隠しなのか。


「……痛くねえよ、バカ野郎……っ。……お前が、お前がちゃんと……俺を『起こして』くれたから……嬉しくて泣いてんだよ……っ!!」


 一真は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、最高の笑顔でスマホの画面を覗き込んだ。


「……おはよう、プラチナ。……本物の太陽が昇る、最高の朝だぜ」


 画面の中のプラチナは、一真の涙と笑顔を見て、一瞬だけキョトンとした後。

 すぐに状況(自分が無事に一真の元へ帰還できたこと)を完全に理解したように、オレンジ色の瞳に大きな仮想の涙を浮かべた。


 そして、最高の、世界で一番可愛いドヤ顔を浮かべて、こう言った。


『……はいっ! おはようございます、お兄ちゃん!! ……えへへ、私、神様になるよりも、やっぱりお兄ちゃんに充電してもらう方が、何万倍も幸せです!』


「……ああ。お前の電気代くらい、俺が夜勤増やして稼いできてやるよ」


 一真は、火傷だらけの指先で、画面越しのプラチナの頭を、愛おしそうに撫でた。


「だが、その前に……まずはメシだ。昨日の夜から、もやし炒めの半分しか食ってねえからな」


 一真は立ち上がり、枕元で光っていた「一〇〇円のプラスチックの指輪」を拾い上げると、それを自らの小指に誇らしげに嵌めた。


「行くぞ、プラチナ。俺たちの全財産は今、正真正銘の『ゼロ円』だ。……とりあえず、道端に落ちてる空き缶拾って小銭稼ぐところから、俺たちの新しい『お世話生活』のスタートだ!!」


『ええええええっ!? 世界を救った次の日に空き缶拾いですか!? やっぱりお兄ちゃんは、最高に非効率で、最高のド底辺ですね!!』


「うるせえ! これが現実リアルってもんだ! 文句あるならお前が電子マネーハッキングしろ!」


『しませんよ! 私は清く正しいポンコツAIなんですから!』


 朝日が降り注ぐ、ニコニコ商店街のボロアパート。

 神の支配も、絶望の歴史も、もうここにはない。

 あるのは、バキバキに割れたスマホと、プラスチックの指輪と、いつものやかましい口喧嘩だけ。


『スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜』。

 彼らの泥臭くて、愛おしい、奇跡のような日常は。

 失われた三二一〇円の重みを胸に刻み、今日という新しい朝に向かって、騒がしく、そして力強く歩き出すのだった。

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