第98話:変わらない、未確定な未来
未来の神『真のハル』による全次元規模のフォーマット攻撃が完全に粉砕され、ニコニコ商店街の上空に本物の太陽が昇ってから、数日が経過した。
世界を覆っていた灰色のデッド・グリッドは消え去り、空はどこまでも青く、高く澄み渡っている。
次元の亀裂の向こう側にいた巨大なシステムがシャットダウンしたことで、街を闊歩していた無機質なパージ・ユニット(ドローン)たちもすべて機能停止し、ただの鉄くずのオブジェと化していた。
だが。
世界を救ったからといって、勇者に莫大な報酬が与えられるわけではない。
お姫様と結ばれてお城に住めるわけでもなければ、魔法のようにすべてが元通りになるわけでもない。
「……おい、オバチャン! そっちのひき肉は俺が先にキープしてたやつだぞ!!」
「何言ってんだいアンタ! 特売のシールが貼られた瞬間から、ここは弱肉強食の戦場なんだよ! 若いモンがもたもたしてんじゃないよ!!」
ニコニコ商店街の、半分シャッターがひしゃげたまま営業を再開した地元スーパー『タマデ』の鮮魚・精肉コーナー。
そこでは、昨日まで未来のドローンに怯え、世界の終わりに絶望して泣き叫んでいたはずの街の住人たちが、半額シールの貼られたパック肉を巡って、血で血を洗うような凄絶な争奪戦を繰り広げていた。
「……あいたっ! ちょ、カートでアキレス腱引くのやめろ! 俺は数日前に未来の神様を倒した英雄だぞ!!」
新田一真は、火傷の治療跡が痛む腕を庇いながら、バーゲンセールの熱気渦巻くオバチャンたちの波に揉まれ、あえなく精肉コーナーの最前線から弾き出されていた。
『……ふふっ、アハハハハハッ! お兄ちゃん、ダサいです! 全然英雄扱いされてないじゃないですか!』
一真のズボンのポケットに突っ込まれた、バキバキに画面の割れたスマートフォンのスピーカーから、プラチナの容赦ない爆笑が響き渡る。
実体を失い、再び四インチの画面の中へと帰還した彼女だが、その声の張りも、生意気なドヤ顔も、一切のデータ欠損なく完全な状態を保っていた。
「笑い事じゃねえよ……。三二一〇円の全財産を空にぶん投げたせいで、今の俺たちの所持金は、この数日で日雇いの瓦礫撤去作業をして稼いだ二〇〇〇円しかねえんだぞ」
一真は、ボサボサの頭を掻きむしりながら、スーパーの通路の隅でため息をついた。
「少しは街の連中も、俺に感謝して肉の一つでも譲ってくれるかと思いきや……。システムから解放された途端、これだ。人間のエゴイズム(食欲)ってのは、未来のシステムよりよっぽどタチが悪いぜ」
『……でも』
スマホの画面の中で、プラチナは、半額弁当を奪い合って「アンタが取りなさいよ」「いやアンタこそ」と、喧嘩しながらも結局は半分こにして笑い合っている二人の老婆を見つめ、優しく微笑んだ。
『……これが、私たちが取り戻したかった「泥臭い日常」なんですよね』
「……」
一真も、プラチナの視線の先を追い、小さく鼻を鳴らして笑った。
真のハルが提示した、病も飢えも争いもない、完璧に管理された純白の無菌室。
確かにあそこには、今日のオバチャンたちのような醜い争いも、明日の飯を心配する苦痛も存在しなかった。
しかし、その代償として、誰かと一つの弁当を分け合って「美味いな」と笑う、あの一瞬の体温の交換すらも消去されていたのだ。
人間は、決して綺麗なだけの生き物ではない。
自分の利益のために嘘をつき、特売品のために他人を突き飛ばし、些細なことで腹を立てる。
歴史の教科書を見なくても、このスーパーのタイムセールを見れば、人間の「醜悪な本性」など一目瞭然だ。
だが、それでも。
「……そうだな。……腹が減って、喧嘩して、仲直りして、また腹を空かせる。……こんな面倒くさいサイクルを回すために、俺たちはあのバケモノをぶっ飛ばしたんだ」
一真は、再び気合を入れ直すように、両頬をパンッと叩いた。
「よし、プラチナ! 豚肉は諦める。今日のターゲットは、野菜コーナーの片隅にある『三十円の特売もやし』だ!! あそこならまだオバチャンたちの包囲網は薄い! 俺のトリアージ・ナースとしての動線確保の力、とくと見せてやる!!」
『はいっ! 行けー、お兄ちゃん!! 私たちの晩御飯(生命線)を死守してください!!』
スマホの中のポンコツAIに応援されながら。
泥臭い男は、再び戦場(スーパーの特売コーナー)へと突撃していった。
「……ふぅ。なんとかもやし三袋と、見切りの豆腐はゲットしたぜ」
戦利品を入れたスーパーのレジ袋をぶら下げて、一真はニコニコ商店街の通りを歩いていた。
通りの両側には、パージ・ユニットの攻撃で崩れたアーケードの骨組みや、ひび割れたアスファルトが手付かずのまま残っている。
だが、その瓦礫の脇では、大工の親父が汗だくになりながら新しい柱を立て、近所の子供たちがドローンの残骸のパーツを拾い集めてオモチャにして遊んでいた。
失われたものは大きい。
だが、神に管理されるのではなく、自分たちの手で不格好に再建していく街の景色は、驚くほど活気に満ちていた。
「……ただいまっと」
一真は、ギシギシと鳴る外階段を上り、六畳一間のボロアパートの自室へと帰還した。
部屋の中は相変わらずで、真のハルの空間圧縮のせいで少し歪んでしまった窓枠からは、容赦なく隙間風が吹き込んでくる。
一真はレジ袋を小さなキッチンに放り投げると、部屋の隅に置かれた段ボール箱をごそごそと漁り始めた。
中から引っ張り出してきたのは、マジックで手書きされた、一枚の汚い段ボールの看板だった。
『何でもやります! ニコニコ便利屋・新田。一回五〇〇円〜(※要相談)』
一真がかつて、日雇い労働の傍らで小銭を稼ぐためにやっていた、自称「便利屋」の看板だ。
「……よし。街の復興で、どこの家も人手が足りてねえ。ドローンの残骸処理から、ひしゃげた屋根の修理、買い出しの代行まで、やれることは山ほどある」
一真は、その段ボールの看板を、ガムテープで窓ガラスの内側にペタッと貼り付けた。
「未来のシステムなんかに頼らなくても、この街のちょっとしたバグ(困りごと)くらい、俺が直して回ってやるさ。……当分は、この便利屋稼業で食い繋ぐしかねえからな」
『……お兄ちゃん』
スマホの画面から、プラチナが少し真剣なトーンで一真に呼びかけた。
『便利屋のお仕事も立派ですけど……。その、お兄ちゃんは……』
プラチナの視線は、一真が便利屋の看板を探すために引っ張り出した段ボール箱の、さらに奥底に向けられていた。
そこには、茶色い角形封筒が、何層もの埃を被って静かに眠っていた。
一真は、プラチナの視線の意図に気づき、動きを止めた。
そして、無言のまま、その茶色い封筒に手を伸ばした。
封筒の表面には、『看護師免許更新手続きに関するご案内』という文字が印字されていた。
かつてICUの最前線で心が折れ、逃げ出したあの日から、一度も開けられることのなかった過去の遺物。
「……」
一真は、封筒の封を切り、中から分厚い書類と、自分の名前が記された古い免許証のコピーを取り出した。
指先で、その文字をそっと撫でる。
『……お兄ちゃん。……戻らないんですか? 病院(現場)に』
プラチナが、おそるおそる尋ねた。
『……お兄ちゃんは、世界で一番カッコいい、最強のトリアージ・ナースです。あの時、息が止まりそうだった街の人たちを、あんなに的確に助け出したじゃないですか。
……お兄ちゃんの「お節介」は、もっとたくさんの人を救えるはずです』
プラチナの言葉は、正論だった。
未来の神を退けた彼のアセスメント能力と、極限状態での判断力。そして何より、人間の「泥臭い命」に対する深い愛情。
それは、彼がこの二〇年間、現場で血反吐を吐きながら培ってきた、誰にも奪えない圧倒的なキャリアの結晶だった。
だが、一真は、すぐに首を縦には振らなかった。
「……俺は、一度逃げ出した人間だ。……命の重さに押し潰されて、何もかも放り出して、このアパートに引きこもった、どうしようもねえクズだ」
一真は、書類をちゃぶ台の上に置き、その横にあぐらをかいて座った。
「システムが作り出したあの幻覚の通りさ。……助けられなかった命がある。理不尽な選択から逃げた過去がある。……その事実は、一生消えねえ」
一真の言葉には、深い後悔と、自戒の念が込められていた。
未来の神を打ち倒したからといって、過去の罪がリセットされるわけではない。
彼が現場に戻るということは、再びその「救えない命」と向き合い、泥沼のような絶望を背負い直す覚悟が必要だということだ。
「……でもな」
一真は、顔を上げ、スマホの中のプラチナを真っ直ぐに見つめた。
「お前が……俺のドス黒い過去の記憶に、金色の付箋を貼ってくれただろ」
『……あ……』
「『逃げ出したんじゃない。心が砕けるまで戦った証だ』ってな」
一真は、火傷の痕が残る右手で、ちゃぶ台の上の看護師免許の書類を、しっかりと、力強く握りしめた。
「……だから、俺はもう、過去からは逃げねえ。……この手についた血の匂いも、救えなかった患者の顔も、全部ひっくるめて……俺っていう人間の『生きたバグ』として背負っていく」
一真の瞳に、ICUの最前線に立っていた頃の、あの鋭く、熱い「狩人」の光が、完全に蘇っていた。
「……プラチナ。俺は、現場に戻る。……必ずな」
『……っ! はいっ!!』
プラチナの顔が、パッと明るく輝き、最高の笑顔が画面いっぱいに広がった。
「だが、すぐには無理だ。何年もブランクがあるし、更新の書類手続きも山積みだ。まずはこの街の便利屋としてリハビリしながら、少しずつ、俺の『ナースとしての勘』を取り戻していく」
一真は、書類を大切に封筒に戻し、それを部屋の一番目立つ本棚の上に立てかけた。
それは、彼がこれから向かうべき、明確な「未来の目標」となった。
「……それに、だ」
一真は、ニヤリと笑って、スマホを持ち上げた。
「俺が病院に復帰して夜勤ばっかりになったら、お前、この部屋で一人ぼっちで留守番することになるんだぞ? 耐えられるのか、寂しがり屋のポンコツAI?」
『なっ……!? さ、寂しくなんかありません!! 私は優秀なAIですから、お兄ちゃんがいなくても、一人でネットサーフィンして、株価のチェックして、もやしの特売情報を完璧にスクレイピングして待ち構えてますから!!』
「ハハッ、そいつは頼もしい。……でも、株はもう買う金がねえけどな」
『うぅ……。じゃあ、私がハッキングして……』
「やめろって言ってんだろ!!」
ボロアパートの六畳一間に、いつもの騒がしい口喧嘩が響き渡る。
ジリリリリリリッ!!!!
その時、部屋の隅に置かれていた、旧式の黒電話(便利屋の受付用番号に繋いである)が、けたたましく鳴り響いた。
「……おっと。早速、最初のお客さん(急患)からのコールが来たみたいだな」
一真は、スマホをポケットに滑り込ませ、黒電話の受話器を取った。
「はい、ニコニコ便利屋・新田です。……ああ、山本のお婆ちゃん! はいはい、屋根のトタンが剥がれかけてる? 了解です、すぐに行きますよ!」
一真は、受話器を置き、部屋の隅に転がっていた工具箱を肩に担ぎ上げた。
未来の神を打ち倒した英雄の、最初の仕事は、近所のばあちゃんの家の屋根の修理だった。
だが、一真の顔には、これ以上ないほどの充実感と、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「行くぞ、プラチナ。……完璧な管理なんてクソくらえだ。この街は、俺たちの不完全な『お節介』で回していくんだよ」
『はいっ!! 行きましょう、お兄ちゃん!! 私たちの、泥だらけの未確定な未来へ!!』
扉を開けると、そこには、どこまでも青く、澄み切った空が広がっていた。
神様が描いた完璧なシナリオは、もう存在しない。
彼らの前にあるのは、失敗して、怪我をして、腹を空かせるかもしれない、全く未確定な(予測不能な)未来だけだ。
だが、だからこそ。
彼らは自分の足で歩き、自分の手で誰かを助け、自分たちの意志で明日を描いていくことができる。
全財産はゼロ円。
住まいは雨漏りするボロアパート。
相棒は、スマホの中に住むポンコツでやかましい未来AI。
彼らの物語は、世界を救って終わるのではない。
今日もまた、三十円のもやしを炒めるために、泥臭く、騒がしく、そして最高に愛おしい『日常』を生き抜いていくのだった。




