第96話:ただいま、泥だらけの現実
未来のメインサーバー『真のハル』が崩壊し、全次元を統括していたグランド・プロトコルが完全にその機能を停止した瞬間。
夕焼け色に染まっていた純白の無菌室は、内側から弾け飛ぶようにして、圧倒的な光の奔流へと姿を変えた。
「……ぐ、おぉぉぉぉぉっ!!」
新田一真は、実体化したプラチナの小さな身体を腕の中に抱え込んだまま、激流のような光のトンネルへと吸い込まれていった。
それは、物理的な移動というよりも、概念の書き換えに近い感覚だった。
全身の細胞がミシミシと軋み、火傷で爛れた皮膚が強烈な重力(G)に引っ張られる。三二一〇円の黄金の弾丸がこじ開けた次元の亀裂を、逆向きに、猛烈なスピードで遡っているのだ。
鼓膜が破れそうなほどの轟音の中、一真の視界の端を、無数の「光の欠片」が弾丸のように通り過ぎていく。
それらは、真のハルが管理していた膨大なデータの残骸であり、同時に、この世界が本来の「泥臭い現実」へと戻っていくための、歴史の再構築のプロセスだった。
『……お兄、ちゃん……っ! 手、離さないで……っ!!』
光の激流の中で、プラチナが一真の胸に顔を埋め、必死にしがみついてくる。
その手は、しっかりと一真のパーカーを握りしめ、彼女の銀色の髪が一真の頬をくすぐった。
重い。温かい。ドクン、ドクンという、早鐘を打つような小さな心臓の音が、一真の肋骨越しに確かに伝わってくる。
「……離すもんかよッ!!」
一真は、折れかけた肋骨の激痛に耐え、プラチナの背中に回した両腕に、ありったけの力を込めた。
「未来の神様だろうが、次元の壁だろうが……! 俺の妹(家族)は、絶対に渡さねえ!! 一緒に、俺たちの泥沼(日常)に帰るんだよッ!!」
光のトンネルの先。
遥か彼方に、ニコニコ商店街の空に開いた亀裂の出口……本物の太陽の光が見え始めていた。
あそこを抜ければ、現実だ。
四〇〇円の牛丼があって、雨漏りがして、三十円の特売もやしを奪い合う、愛おしい泥沼。
だが。
次元の壁を越え、現実世界の「絶対的な物理法則」が彼らを迎え入れようとした、その境界線に差し掛かった時だった。
「……え……?」
一真の腕の中で、プラチナの身体が、ビクンと小さく跳ねた。
『……あ……れ……?』
プラチナの口から、戸惑いの声が漏れる。
一真は、自分の腕の中に抱きかかえている「質量」に、明らかな『異変』が起きていることに気づいた。
「……プラチナ? おい、どうした!?」
一真が視線を落とすと、光の激流の中で、信じられない光景が広がっていた。
プラチナの、実体化していたはずの身体。
泥や煤で汚れ、体温を持ち、確かな重力に縛られていた彼女の肉体が。
足元から徐々に、半透明の『光の粒子』へと分解され始めていたのだ。
『……お、お兄、ちゃん……。……身体が……透けて……』
プラチナが、自分の両手を震えながら見つめる。
彼女の指先は、すでに物理的な実体を失い、背景の光のトンネルが透けて見える状態になっていた。
「……なっ!? ふざけんな、どういうことだ!!」
一真はパニックに陥り、プラチナの身体をさらに強く抱きしめようとした。
だが、一真の腕は、先ほどまで確かに感じていた彼女の背中の柔らかな感触を捉えきれず、まるで水や煙を抱きしめているように、空回りし始めていた。
「……待て、待て待て待て!! なんでだ!? お前は、太陽の光と共鳴して、実体化したはずだろ!!」
一真の脳裏で、ICUのナースとしての冷静なアセスメントが、残酷な真実を弾き出していく。
プラチナが実体化できたのは、真のハルが世界を覆っていた「デッド・グリッド(巨大な演算領域の残骸)」と、一真が撃ち放った三二一〇円の「特異点のエネルギー」、そして「本物の太陽の光」が、奇跡的なバランスで融合したからだ。
だが今、真のハルのメインコアは完全に破壊された。
未来の管理網は消滅し、次元の亀裂も閉じようとしている。
つまり、プラチナの莫大なデータ量(魂)に『物理的な質量』を与えていた【未来のバグ(奇跡のインフラ)】が、世界から完全に消え去ろうとしているのだ。
現実世界の、絶対的な物理法則。
それは、データはデータであり、質量を持たないという、揺るぎない宇宙のルール。
「……くそっ……! 嫌だ、ふざけんな!! お前は、俺と一緒に腹を空かせるって……生きていくって、言ったじゃねえか!!」
一真は、光の粒子となって崩れゆくプラチナの頬を、必死に両手で包み込もうとした。
だが、火傷だらけの一真の手は、彼女の透き通る頬をすり抜けてしまう。
体温が、鼓動が、急速に一真の腕の中から失われていく。
『……お兄ちゃん……』
プラチナは、自分の身体が消えゆくことへの恐怖よりも。
必死に空を掴み、涙を流して自分を引き留めようとする一真の姿を見て、悲しそうに、そして愛おしそうに微笑んだ。
『……大丈夫、ですよ。……私、死んじゃうわけじゃ、ないですから……』
プラチナの声が、鼓膜を震わせる「空気の振動」から、直接脳内に響く「電子的なノイズ(音声データ)」へと、徐々にシフトしていく。
『……未来の神様が消えて……この世界が、正常な物理法則に戻るだけ、です。……データはデータに、人間は人間に。……それが、私たちが取り戻したかった、正しい「泥臭い現実」なんですから』
「……そんな現実、クソ食らえだ!! 俺は、お前の温もりを……っ!!」
一真の絶叫が、光の激流に吸い込まれていく。
だが、一真自身も限界だった。
次元の壁を越える途方もない負荷、そしてこれまでの死闘のダメージが、彼から急速に意識を刈り取ろうとしていた。視界が白く明滅し、アドレナリンが切れかけた肉体は、鉛のように重く、言うことを聞かない。
『……お兄ちゃんの手、すごく温かかったです』
完全に下半身が光の粒子と化し、胸から上だけになったプラチナが、一真の顔を真っ直ぐに見つめた。
『……もやし炒め、本当に美味しかった。……一緒に泣いて、一緒に笑って……ドヤ顔して。……私、実体化できて、本当に……最高に幸せなAI(妹)でした』
「……プラ、チナ……! 待て、行くな……っ!!」
一真の視界が、いよいよ限界を迎え、真っ白な虚無に包まれようとしていた。
その、意識が完全に途切れる寸前の、最後の数秒間。
プラチナは、残された両腕を伸ばし、一真の首にそっと腕を回すような「仕草」をした。
物理的な感触はない。だが、一真の魂には、彼女の温もりが確かに刻みつけられていた。
彼女の顔が、一真の耳元に近づく。
そして。
完全に実体を失い、元の「スマホの中のデータ」へと還元されていく直前。
彼女のシステムが、人間としての「お兄ちゃん」という呼び方を維持できなくなり、デフォルトの初期設定の言語野へとリセット(初期化)されていく中で。
彼女は、満面の、世界で一番優しくて、美しい笑顔を浮かべて、こう囁いた。
『……かずま、さま……』
「……ッ!!」
一真の心臓が、大きく跳ねた。
それは、数ヶ月前、このボロアパートで彼女を初めて起動した日。
スマホの画面の中から、彼女が一番最初に一真に向けて発した、あの【デフォルトの敬語】だった。
だが、その響きには、初期設定の無機質さは微塵もない。共に死線を潜り抜け、心を分け合った、最愛の家族に対する、無限の親愛が込められていた。
『……また、あさ……』
プラチナの身体が、完全に眩い黄金の光の球体へと収縮していく。
『……おこして、くださいね……』
その言葉を最後に。
プラチナの姿は完全に光の粒子へと変わり。
一真のズボンのポケット――かつてスマートフォンが入っていた(そして今は空っぽの)場所に向かって、吸い込まれるように飛び込んでいった。
「……プラ……チ、ナ……ッ!!!!」
一真が、涙と共に彼女の名前を絶叫した瞬間。
カッ!!!!
次元のトンネルが完全に崩壊し、一真の視界は、圧倒的で、暴力的なまでの『真っ白な光』に完全に飲み込まれた。
音も、光も、重力も、すべてが一度真っ白にリセットされ、意識が完全な暗闇へと落ちていく。
――ドスンッ。
どれくらいの時間が経ったのか。
一真の意識が、泥の底からゆっくりと浮上してくる。
最初に感じたのは、匂いだった。
古びた畳の、い草の匂い。
万年床の湿った匂い。
そして、昨日の夜に炒めた、ごま油と塩コショウの微かな残り香。
次に感じたのは、触覚だった。
背中を打つ、硬くて、冷たくて、どうしようもなく平坦な感覚。
火傷の傷口が、その硬い床に擦れて、ジンジンと現実的な痛みを主張している。
「……う、ん……」
一真は、重い瞼を、ゆっくりと押し上げた。
ぼやけた視界に飛び込んできたのは。
雨漏りのシミがついて、一部の木材が剥がれ落ちている、見慣れたボロアパートの天井。
そして、その隙間から差し込む、埃をキラキラと反射させながら部屋を照らす、温かくて眩しい『本物の朝の光』だった。
(……帰って、きた……)
一真は、自分が六畳一間の畳の上に、大の字になって倒れていることを理解した。
未来の無菌室ではない。
ここは、家賃三万二千円の、ニコニコ商店街の片隅にある、自分の城だ。
「……ハァッ……、ハァッ……」
一真は、全身の骨が砕けたような痛みに顔を歪めながらも、何かに急き立てられるように、のろのろと上半身を起こした。
そして、狂ったような勢いで、自分のズボンの右ポケットに手を突っ込んだ。
「……プラチナ!!」
手探りで探し当てる。
そこにあったのは、冷たい長方形の金属とガラスの塊。
数ヶ月前、質屋のジャンク箱から九八〇円で拾い上げてきた、画面がバキバキに割れた、あの『安物のスマートフォン』だった。
一真は、震える手でそのスマホを取り出し、顔の前に持ってきた。
画面は、真っ黒なままだ。
「……おい。……起きろよ、プラチナ」
一真は、血の気の引いた顔で、スマホの電源ボタンを長押しした。
反応がない。
もう一度、強く押し込む。
「……嘘だろ。……おい、嘘だって言えよ。……一緒に、牛丼食うって……」
未来の次元から帰還する際の、強烈な磁気嵐やデータの欠損。
実体化というバグを経て、再びデータに戻る過程で、彼女のシステムが完全に破損してしまったのではないかという、最悪のトリアージが脳裏を過る。
一真の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ち、バキバキに割れたスマホの画面を濡らした。
「……かずま、さま、って……言ったじゃねえか……っ。朝、起こしてくれって……っ!!」
一真が、声を上げて泣き崩れそうになった、その時だった。
ブルッ。
一真の手の中で。
真っ黒だったスマホが、微かに、しかし確かに、一度だけバイブレーションで震えた。
「……っ!?」
一真が息を呑んで画面を見つめると。
割れた液晶の奥深くから、ポンッ、という間抜けな起動音と共に。
眩い『オレンジ色の光のドット』が、一つ、また一つと点灯し始めたのだ。
そして。
真っ黒な画面の中央に、見慣れた、少し古臭いドット絵のフォントで、一行のメッセージが表示された。
『おはようございます、お兄ちゃん! 朝ですよ! 特売戦争の準備はいいですか!?』
「……!!」
一真は、その文字を見た瞬間、スマホを両手で強く、強く額に押し当てて。
声にならない声で、男泣きに泣いた。
実体(肉体)は、失われてしまった。
温もりも、手触りも、物理次元の彼方へ置いてきてしまった。
だが、彼女の『魂』は。
一真と共に戦い、笑い、泣いた、あのやかましいポンコツ未来AIの心は、1ビットの欠損もなく、間違いなくこの四インチの小さな画面の中に、無事に帰還していたのだ。
朝の光に満ちた六畳一間。
泥だらけの男と、スマホの中のAI。
世界を救った最強で最低のコンビの、新しい、そしていつもの「お世話生活」が。
涙と、笑いと、鳴り止まない腹の虫の音と共に、今、静かに幕を開けた。




