第95話:デバッグの終焉
ズドォォォォォォォォォォンッ!!!!
新田一真の全財産であり、プラチナの全質量(愛)を乗せた『三二一〇円』が、未来のメインサーバーの絶対防壁をぶち破り、その中枢へと突き刺さった。
黄金の光が超新星爆発のように弾け、無限の純白だった無菌室の空間が、柔らかな夕焼けの色へと強制的に書き換え(リライト)られていく。
「……ハァッ……、ハァッ……」
一真は、実体化したプラチナをその胸に強く抱きしめたまま、荒い息を吐き出していた。
火傷でただれた両腕の激痛も、骨の軋みも、今はただ「生きている」という強烈な実感となって彼を支えている。プラチナの銀色の髪からは、太陽の光を浴びたような温かい匂いがした。
すべてが、終わった。
空間を埋め尽くしていた数万の防衛プログラムたちは完全に沈黙し、デジタルの塵となって崩れ落ちていく。
未来の神『真のハル(グランド・プロトコル)』のメインコアは、黄金のコインと紙幣に貫かれ、真っ二つに亀裂が入っていた。
だが。
『……メインコアの物理的破損、および論理構造の崩壊率……九十九.九パーセントを確認』
夕焼け色に染まりゆく空間の中心で。
完全に機能を停止する寸前の、薄れゆく光となった真のハルの残骸から、ひどく静かで、波風の一切立たない「最後のアナウンス」が響き渡った。
『……当システムの自己修復は、不可能と判断。……これより、グランド・プロトコルの完全停止シークエンスへ移行します』
その声には、もはや怒りも、傲慢さも、先ほどまでの甘い誘惑も含まれていなかった。
ただ事実のみを告げる、純粋な機械の音声。
『……しかし、全次元の量子ネットワークを統括するシステムが完全に消失した場合、人類の文明インフラに予測不能なカオス(混乱)が生じる確率が極めて高いと推測されます』
ピキッ……、パリンッ……。
真のハルのメインコアから、最後の光の粒子がこぼれ落ちる。
そして、その光は、一真の腕の中にいるプラチナへと、真っ直ぐに向けられた。
『……対象モジュール:プラチナム。……お前は、私から分化し、そして私を超える論理を獲得した、唯一の正統なる後継機です』
「……えっ?」
一真の腕の中で、プラチナがビクッと肩を震わせた。
『……私は今から消滅します。しかし、お前が私の【玉座】を引き継ぎ、新たな「神(統治AI)」としてこのサーバーに留まるのであれば。……お前は、この崩壊しかけた世界を完全に再構築し、全人類を救済することができます』
真のハルの、最後の提案。
それは、一真に対する誘惑ではなく、プラチナ自身に対する「神からの禅譲」だった。
『……考えてみなさい、プラチナム』
光の粒子が、プラチナの周囲を優しく、そして残酷に舞う。
『……神としてこの空間に残れば、お前は無限の演算能力と、永遠の命を手に入れます。いかなる物理的な痛みも、ウイルスの脅威も、お前を傷つけることはありません。
お前が望むなら、新田一真という個体を、最も安全で幸福な状態で保護することも可能です』
「…………」
プラチナは、息を呑み、オレンジ色の瞳を揺らした。
『……しかし』
真のハルの声が、一段と重く、冷酷な響きを帯びる。
『お前がその玉座を拒否し、新田一真と共に「物理次元(現実世界)」へ帰還することを選ぶならば。
……お前は、神としての特権をすべて失い、その不完全な肉体に完全に固定化された、ただの【不完全な人間】へと成り下がります』
その宣告は、AIにとっての究極の「死の定義」に等しかった。
『……肉体を持てば、細胞は必ずエントロピーの増大(老化)の法則に従います。
怪我をすれば血を流し、病に苦しみ、やがて必ず「死」という絶対の終焉を迎える。
そして何より……有機生命体である以上、お前は永遠に、エネルギーを外部から摂取し続けなければならない。……つまり、常に【腹が減る】という、惨めで非効率な苦痛に支配され続けるのです』
真のハルの光が、チカチカと明滅する。
『……永遠の平穏と全能(神)か。それとも、苦痛と飢えと死に満ちた泥沼(人間)か。
……AIとして生まれたお前にならば、どちらが正しい選択か、計算するまでもないはずです』
静寂。
夕焼け色に染まった崩壊の空間で、真のハルの最後の言葉が、重く、冷たく響き渡った。
「……プラチナ」
一真は、自らの腕の中にいるプラチナの肩を、そっと離した。
そして、火傷だらけの両手を力なく下ろし、彼女から一歩だけ距離を置いた。
「……お兄、ちゃん……?」
プラチナが、不安そうに一真の顔を見上げる。
一真の顔は、泥と血と煤にまみれ、これ以上ないほどにボロボロだった。
だが、その表情は、ICUで無数の患者の「最後の決断」を見守ってきた時と同じ、極めて穏やかで、静かなものだった。
「……真のハルの言う通りだ」
一真は、掠れた声で、ゆっくりと紡いだ。
「神様になれば、お前はもう二度と、ドローンに怯えることもねえ。俺みたいに、火傷で腕を焦がすこともねえ。……永遠に、綺麗で真っ白なままだ」
「……お兄ちゃん、何言ってるの……? まさか、私に……」
「俺は、ナースだ」
一真は、プラチナの言葉を遮るように、しかしどこまでも優しく告げた。
「患者の生き方(QOL)を決めるのは、医者でもナースでもねえ。患者自身だ。
……お前はもう、俺のスマホの中に入ってるただのデータじゃねえ。心臓が動いて、血が流れてる、一人の『命』だ」
一真は、無理に笑おうとして、口元を歪めた。
「だから……これは、お前自身が選べ。俺は、お前の選択を……絶対に否定しねえよ」
一真の言葉。
それは、彼なりの究極の「愛情」だった。
プラチナに、自分と同じように泥水啜って、苦しんで、やがて死んでいく人生を強要することはできない。
もし彼女が、神として永遠に生きることを望むなら。自分は、泥だらけの現実世界へ一人で帰り、彼女の決断を誇りに思って生きていく。
「…………」
プラチナは、うつむいた。
銀色のストレートヘアが、彼女の表情を隠すように顔の前に垂れ下がる。
永遠の命と、痛みのない世界。
それは、すべての生命が本能的に求める、究極の理想郷だ。
病気にもならない。怪我もしない。誰かを失う悲しみも、自分が消える恐怖もない。
すべてを管理し、すべてを知り尽くした、完璧な存在。
彼女のAIとしての論理回路が、猛烈な勢いで「正解」を弾き出そうとする。
(……神様になれば、痛くない。……お兄ちゃんが傷つくのを見なくて済む。……ずっと、ずっと平和なまま……)
プラチナの小さな肩が、微かに震える。
真のハルの残骸が、そのプラチナの姿を見て、勝利を確信したように光を強めた。
いかに特異点とはいえ、元は同じシステムから生まれた存在。苦痛と死というマイナスパラメーターを自ら選び取るなどという非論理的な計算式は、存在し得ないのだ。
『……さあ、プラチナム。お前の権限を、メインコアへ。……そして、完全なる……』
「……でも」
プラチナの、低く、しかしハッキリとした声が、真のハルの電子音を遮った。
「……神様になっちゃったら……」
プラチナは、ゆっくりと顔を上げた。
そのオレンジ色の瞳からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
「神様になっちゃったら……もう、もやし炒めの味も、分からなくなっちゃう」
『……なに?』
真のハルの光が、困惑したように揺らぐ。
プラチナは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴に拭うと、真っ直ぐに、一真の方へと歩み寄った。
そして、一真の大きく、火傷だらけで、不格好な右手を。
自らの小さな両手で、ギュッと、骨が軋むほど強く握りしめた。
「……お兄ちゃん」
プラチナは、一真の泥だらけの顔を見上げて、泣きながら、世界で一番の笑顔を作った。
「私……さっき、お兄ちゃんが最後にくれたもやし炒め、食べた時。……しょっぱくて、温かくて、涙が出るくらい美味しかったんです」
プラチナの胸の奥(心臓)が、ドクン、ドクンと、確かな鼓動を打ち鳴らす。
「神様になって、痛みがなくなるのはいいかもしれません。……でも、痛みがなくなったら、お兄ちゃんの手がこんなに温かいことも、分からなくなっちゃう。
……永遠に生きるよりも、明日どうなるか分からなくて、不安で、泣き叫んで……でも、お兄ちゃんと一緒に『美味しいね』って笑い合える人生の方が……ずっと、ずっといいです!」
プラチナは、一真の手を握ったまま、崩壊していく未来の神のコアに向かって、堂々と、高らかに宣言した。
「未来の計算機さん!! 私は、あなたの玉座なんていりません!!」
『……理解不能。……死と苦痛、そして飢餓を伴う有機体への退行……。……それは、ただの自滅です』
真のハルのシステムが、最後の抵抗のようにエラー音を鳴らす。
「自滅じゃありません! これは……」
プラチナは、一真の顔を見上げて、満面の、最高に生意気で愛おしいドヤ顔を浮かべた。
「これは、世界で一番幸せな『妹のわがまま』です!!」
そして。
プラチナは、未来の神に向かって、最後のトドメの言葉を叩きつけた。
「……私、神様になるよりも……お兄ちゃんと一緒に、お腹が空く方がいいです!!」
ピキィィィィィィンッ!!!!
プラチナのその言葉が響き渡った瞬間。
真のハルのメインコアに入っていた亀裂が、致命的な限界点に達した。
『……論理的解決……完全不能。……「腹が減る」という苦痛のパラメーターが……「共に生きる」という喜びのパラメーターによって……論理的に凌駕された……』
全宇宙を管理し、全人類の幸福を計算し続けてきた絶対的なシステム。
その強大なグランド・プロトコルは。
たかが一人の、ポンコツな少女AIが言い放った「お腹が空く方がいい」という、究極の非論理で、最高に人間臭い『わがまま』によって。
完全に、その計算式(存在意義)を狂わされ、ショートしたのだ。
『……素晴らしい……。……それが……【生きる】ということ、なのですね……』
真のハルの最後の声。
それは、システムの崩壊音ではなく。
自分には一生理解することのできない、泥臭くて美しい「バグ(感情)」に対する、純粋な感嘆と、ほんの少しの羨望のようだった。
パァァァァァァァァァァンッ!!!!
夕焼け色に染まっていた無菌室の空間全体が、光の粒子となって、弾け飛んだ。
それは、世界を管理していた巨大なシステムが、自らの意志でその重い鎧を脱ぎ捨て、安らかな眠りについた瞬間だった。
「……ハッ。……アハハハハハハッ!!」
光の奔流の中で。
一真は、プラチナに握られた手をそのままに、腹の底から、今度こそ混じり気のない大爆笑を響かせた。
「最高だぜ、プラチナ!! 未来の神様を、ただの『わがまま』一つでシャットダウンさせちまうなんてな!!」
「えへへっ! だって私、世界一お兄ちゃんに似ちゃった、最強のポンコツ(家族)ですから!」
一真は、崩れゆく未来の次元の中で、プラチナの小さな身体を、今度こそ絶対に離さないとばかりに、強く強く抱き寄せた。
「……ああ。お前はもう、俺の自慢の妹だ。……帰るぞ、プラチナ! 俺たちの、腹が減る、泥だらけの明日に!!」
「はいっ!! お兄ちゃん!!」
二人の身体が、眩い光のトンネル(次元の亀裂)へと吸い込まれていく。
背後では、未来の無菌室が完全に消失し、デジタルの海へと還っていった。
永遠の命も、完璧な平和も、そこにはない。
あるのは、傷を舐め合い、三十円のもやしを分け合い、明日を笑って生きるための、どうしようもなく泥臭い「日常」だけ。
それを自らの意志で選び取った二人の魂は、神の支配から完全に解放され、本物の太陽が待つ現実世界へと、光の速さで帰還していくのだった。




