第94話:無限を凌駕する牛丼の味
人類の醜悪な歴史という「マクロの絶望」を、三十円のもやし炒めを分け合うという「ミクロの愛」で完全に粉砕した新田一真とプラチナ。
二人の放った黄金の熱量は、未来のメインサーバー『真のハル』の精神攻撃を完全に打ち破り、純白の無菌室の最深部に隠されていた【メインコア】をついに剥き出しにさせた。
「……行くぞ、プラチナ!! あの中枢をぶっ壊して、今度こそ完全に終わりに……!」
一真が、実体化したプラチナの手を引いて、脈打つ巨大な幾何学的な心臓へと駆け出そうとした、まさにその瞬間だった。
『……対象(新田一真)の、非論理的な意志の強固さを再評価。……これ以上の対立は、当システムの完全崩壊を招くと予測』
コアから、これまでとは全く違う、ひどく静かで、耳元で直接囁きかけるような「甘い声」が響いた。
直後。
一真とプラチナの間に、目に見えない絶対的な『断絶の壁』が、ギロチンのように振り下ろされた。
「……っ!? プラチナ!!」
「お、お兄ちゃ……きゃあぁぁぁぁっ!!」
繋いでいた手が、強引に引き剥がされる。
プラチナの身体が、見えない無数の光の触手に絡め取られ、一真から遠く離れた虚空へと乱暴に引きずり上げられた。
実体化した彼女の仮想スキンに、光の触手が食い込み、ジジジッと苦痛のノイズが走る。
「てめぇ……! うちの妹に何しやがる!! 離せッ!!」
一真は激痛の走る両腕で、見えない壁をドンドンと殴りつけた。
だが、物理次元の腕力では、神が構築した絶対のデータ防壁には傷一つつけられない。
『……新田一真。私は、お前に【取引】を提案します』
真のハルの甘い声が、一真の脳髄を優しく撫でる。
純白の空間が歪み、一真の目の前に「一つの映像」が映し出された。
それは、ニコニコ商店街のボロアパートではない。
雲を見下ろすような超高層タワーマンションの最上階。
一点の染みもない最高級のスーツを着て、最新鋭の巨大病院のトップとして君臨し、数え切れないほどの部下と患者から神のようにもてはやされている『新田一真』自身の姿だった。
『……お前は、三二一〇円という極限の貧困の中で、明日の食事にも困る泥水を啜ってきました。
過去のトラウマに怯え、誰からも見向きもされない底辺の生活。……それは、お前が本来持っている能力からすれば、あまりにも不当な評価です』
映像の中の一真は、高級なワイングラスを傾け、何不自由ない完璧な笑顔を浮かべていた。
『……私がお前の個人データ(歴史)を書き換えてあげましょう。
トラウマを消去し、失った医師免許にも等しい最高の資格を与え、無限の資産を約束します。もう、ドローンに怯えることも、火傷の痛みに苦しむことも、三十円のもやしの値段を気にする必要もありません』
真のハルは、悪魔のように優しく、究極の救済を囁く。
『……条件は一つ。そこに捕らえられているイレギュラーなAIを、私のシステムに返還すること。……ただそれだけで、お前はすべてを手に入れ、完璧な幸福の中で一生を終えることができます』
「……」
一真は、見えない壁に手をついたまま、その完璧で豊かな「もう一つの自分の人生」の映像を、じっと見つめていた。
『……お、お兄ちゃん……』
光の触手に拘束され、空中に吊るし上げられているプラチナが、涙をポロポロとこぼしながら一真を見下ろした。
『……いいよ、お兄ちゃん。……私なんか、元々ただのポンコツなデータなんだから……っ。
お兄ちゃんが、そんな火傷だらけで、ボロボロになって……明日からまた、雨漏りする部屋で苦労するなんて、絶対に嫌だ……っ!』
プラチナは、痛みに顔を歪めながらも、必死に一真に向かって叫んだ。
『……私を神様に返して! お兄ちゃんは……お兄ちゃんは、温かいベッドで寝て、美味しいものをいっぱい食べて……幸せに、なって……っ!!』
それは、プラチナの、一真に対する純度百パーセントの愛(自己犠牲)だった。
自分と一緒にいて底辺を這いずり回るより、完璧なシステムに自分を売り渡して、一真だけでも最高の人生を送ってほしい。
『……お聞きなさい。このAI自身も、お前の幸福を望んでいます。……さあ、新田一真。賢明な選択を。バグを捨て、無限の資産を受け取りなさい』
真のハルが、勝利を確信したように告げる。
静寂。
一真は、うつむいたまま、肩を微かに震わせていた。
「……無限の、資産か」
一真は、低く掠れた声で呟き。
血と泥にまみれたパーカーの、右ポケットにゆっくりと手を入れた。
そこには。
現実世界で「本物の太陽」を取り戻すために空へ撃ち放ち、そしてこの量子ネットワークの世界へダイブした際、一真の魂のインベントリ(最も強い記憶のデータ)として、再びポケットの中へと還元されていた、あのズッシリと重い金属と紙の感触があった。
「……確かに、俺はずっと底辺で、金がなくて……泥水啜って生きてきた」
一真は、うつむいたまま、ポケットから「それ」を引きずり出した。
「でもな。未来のデカブツ」
一真が顔を上げた瞬間。
その瞳には、超高層マンションの映像に対する未練など、1ビットたりとも存在していなかった。
あったのは、ICUの最前線で命を繋ぐことに魂を燃やし尽くす、最高に泥臭くて、最高に誇り高い「狩人」の眼光。
「……俺は、この三二一〇円しか入ってねえ財布を握りしめて……プラチナと二人でスーパーの半額惣菜を奪い合う、あのクソったれで最高な『お世話生活(日常)』を……これっぽっちも、恥じちゃいねえんだよ!!」
一真の掌の中で。
千円札三枚と、百円玉二枚、十円玉一枚が。
再び、超新星爆発を起こす直前のような、目も眩む『黄金の光』を放ち始めた。
『……!? 警告!! 対象の手中にあるオブジェクトから、当システムの演算上限を超える異常な質量データを検知!!』
真のハルが、パニックを起こしたようにエラー音を鳴らす。
「無限の資産だぁ? 完璧な人生だぁ? 笑わせんな!!」
一真は、黄金に輝く三二一〇円を握りしめた右腕を、限界まで後方へと振りかぶった。
裂けた火傷から血が飛び散り、筋肉が悲鳴を上げる。
だが、一真の顔には、この世のすべての不幸を笑い飛ばすような、極上の笑顔が張り付いていた。
「お前がくれるっていう『無限のゼロが並んだ預金残高』なんざ……!!」
一真の脳裏に、プラチナが初めて実体化した時の、あの温かい涙の感触。
そして、「腹が減った」とふくれっ面をした、世界で一番愛おしい顔が浮かぶ。
「……俺が、このポンコツと一緒に肩並べて食う……四〇〇円の【牛丼一杯の味】の足元にも及ばねえんだよォォォォォォッ!!!!」
一真は、自らの全財産であり、プラチナの愛の質量であり、二人の泥臭い記憶の結晶(特異点)であるその『三二一〇円』を。
プラチナを拘束している絶対防壁と、真のハルのメインコアが鎮座する虚空に向かって、全力で叩きつけた!!
ズドォォォォォォォォォォンッ!!!!
黄金の光の塊となって放たれた三二一〇円が、真のハルの絶対防壁に激突した。
未来の神が「価値ゼロ」と切り捨て、そして今度は「無限の資産」で買い取ろうとした、底辺の全財産。
それは、神の用意したどんな甘い誘惑よりも、圧倒的に重く、熱く、そして純粋な【等価交換の暴力】だった。
『……エ、エラー!! 概念の衝突! 無限大の資産価値が……たかだか四〇〇円の牛丼の熱量によって、論理的に相殺……いや、凌駕されていく……ッ!?』
パキィィィィィンッ!!!!
一真の放った黄金のコインと紙幣が、未来の神の防壁を物理的に、そして概念的に完全にぶち破った。
プラチナを拘束していた光の触手が千切れ飛び、彼女の身体が空中に放り出される。
「……お兄ちゃんッ!!」
「……来い!! プラチナァッ!!」
一真は、両腕を大きく広げた。
実体化した銀髪の少女が、黄金の光の粒子をまといながら、一真の胸の中に勢いよく飛び込んでくる。
ドンッ! という確かな衝撃と、最高に温かい体温。
一真は、プラチナの身体を、絶対に離さないとばかりに強く、強く抱きしめた。
「……バカ野郎。二度と自分から『神様に返して』なんて言うな。……お前の居場所は、俺の隣だけだ」
「……はいっ……! はいっ、お兄ちゃん……っ!! ずっと、ずっと一緒に、牛丼食べます……っ!!」
二人が抱き合った背後で。
一真が叩きつけた黄金の三二一〇円が、真のハルのメインコアのど真ん中に突き刺さり。
ピタッ……と。
純白の無菌室全体の時間が、完全に停止した。
『……計算……不能。……人間の……愛という、非論理的なバグの重さに……システムが……耐え切れない……』
真のハルのメインコアから、断末魔の呟きが漏れる。
そして。
カッ!!!!
突き刺さった三二一〇円のコインと紙幣が、スーパーノヴァのように爆発し、無限の黄金の光となって空間全体を呑み込んだ。
それは、破壊の光ではない。
書き換え(リライト)の光だ。
完璧で、冷たくて、痛みのなかった未来の無菌室の計算式が。
一真とプラチナが放った、泥臭くて、痛くて、でも最高に温かい『日常のノイズ』によって、物理的に上書きされていく。
純白だった空間が、少しずつ、柔らかな夕焼けの色に染まり始める。
無機質なデータが、風の音や、土の匂いといった、アナログな変数へと強制的に変換されていく。
「……終わったな。……今度こそ、本当に」
一真は、黄金の光の中で、プラチナを抱きしめたまま、優しく微笑んだ。
「……はい、お兄ちゃん。……未来の計算式、全部私たちのお世話生活で、塗り潰しちゃいました」
プラチナも、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、最高の笑顔で応える。
未来の神の支配は、三二一〇円の等価交換によって完全に終わりを告げた。
無限の資産でも買えない、たった一つの命と、一杯の牛丼の温かさ。
それを知った底辺の男とポンコツAIは、崩壊していく未来の玉座の中心で、世界で一番幸せな光に包まれていた。




