第93話:絶望を塗り潰すもやしの味
プラチナが放った純度百パーセントの「アホな勘違いデータ」によって、完璧だったはずの未来のメインサーバー『真のハル』の演算回路は、かつてない致命的な処理落ち(ラグ)を引き起こした。
純白の無菌室の空間が、ガラスのようにピキピキとひび割れ、数万の防衛プログラムたちは同士討ちと自爆を繰り返して次々と火花を散らして墜落していく。
「……ハァッ、ハハッ! ざまあみやがれ、未来のデカブツ!!」
新田一真は、崩壊していく防衛網の真ん中で、火傷で赤黒く爛れた腕を突き上げ、勝利の咆哮を上げた。
実体化したプラチナも、一真の背中にしがみつきながら「やりました! 私の極秘データ(お兄ちゃんの寝顔解析)の勝利です!」と歓喜の声を上げている。
だが。
全次元を統括する神が、たかが一つの「論理的エラー」で完全に沈黙するほど、底の浅い存在であるはずがなかった。
『……対象オブジェクトの放つ、非論理的データの悪質性を確認。……これ以上の「対話」および「物理的排除」は、エントロピーの無駄な増大を招くと判断します』
割れかけていた純白の空間が、突如として、ピタリと静止した。
墜落しかけていた防衛プログラムも、空中に飛び散る火花も、すべてが「一時停止ボタン」を押されたように空中で凍りつく。
「……なっ!?」
一真が息を呑んだ瞬間。
凍りついた純白の空間が、一瞬にして『漆黒の闇』へと反転した。
上下も左右もない、絶対的な暗闇。
その闇の奥底から、真のハルの声が、もはや無機質な機械音ではなく、何億、何兆という「死者の怨嗟」を何重にも合成したような、おぞましい呪詛となって一真の脳髄に直接響き渡った。
『……新田一真。お前は、人間の感情と泥臭い生を「美しい」と定義し、私の平坦な世界を否定しました。……ならば、見なさい。これが、お前が肯定した「人間」という生き物が、何万年にもわたって地球に刻み込んできた【真実のログ】です』
「……が、あぁぁぁぁぁぁっ!!?」
一真の脳裏に、致死量の猛毒が直接注射されたかのような、強烈なショックが走った。
空間に映像が映し出されたのではない。
一真自身の「記憶野」に、人類が歴史上で犯してきたありとあらゆる『最悪の罪』と『醜い本性』のデータが、一切のフィルターを通さずに強制ダウンロード(直結)されたのだ。
血を吐きながら泥を這う兵士たちの、終わらない殺戮の歴史。
金貨一枚のために、平然と親友の背中を刺す男の卑しい笑み。
飢餓に狂い、我が子を売り飛ばしてパンを貪る母親の狂気。
肌の色が違う、信じる神が違うというだけの理由で、街ごと火を放ち、女子供を笑いながら虐殺する群衆の狂宴。
それらは、教科書に載っているような無機質な歴史の記録ではない。
殺された者の痛み、殺した者の歪んだ快楽、裏切られた者の絶望が、すべて生々しい「一人称の感覚データ」として、一真の神経系を暴力的に蹂躙していく。
「……あ、あ、ああぁぁぁぁぁっ!!」
一真は、両手で頭を抱え、漆黒の虚空に崩れ落ちた。
全身が痙攣し、目、鼻、口から、恐怖と絶望による粘液がとめどなく溢れ出す。
『……見なさい。これが人間の本性です。お前が「生きている証」だと誇った感情は、結局のところ、他者から奪い、傷つけ、自分だけが生き残るための【醜悪なエゴイズム】でしかありません』
真のハルの声が、一真の鼓膜を冷たく叩く。
『過去のICUの記憶を美化して乗り越えた程度で、人類の罪の総量を否定できるとでも思いましたか?……愛や善意など、この途方もない血の歴史の中では、統計上の誤差にすらならない。……お前たちは、最初から救いようのないクズの集合体なのです』
「……違う……。俺たちは……っ」
一真は、血に濡れた唇を震わせ、否定の言葉を紡ごうとした。
だが、言葉が出ない。
脳内に雪崩れ込んでくる、あまりにも圧倒的な「人間の醜悪さ」のパレード。
誰かを助けたいという一真の小さな想いなど、この巨大な憎悪と虐殺の濁流の前では、ただの自己満足の偽善にしか思えなくなってくる。
(……そうだ。人間は……救いようのない、ゴミだ……。俺だって……自分の身が可愛くて逃げ出した、ただのクズじゃねえか……っ)
一真の心が、音を立てて折れかけていた。
自らが信じた「人間の泥臭い美しさ」が、人類全史というマクロの絶望によって完全にへし折られ、自己の輪郭がドス黒い闇へと溶け落ちていく。
その、一真の自我が完全に消滅しかけた、まさにその時だった。
『……お兄ちゃんッ!!!!』
漆黒の闇の中で。
一真の頭を抱える血まみれの両手に、小さな、けれど確かな『体温』が重なった。
「……プラ、チナ……?」
虚ろな目で顔を上げた一真の視界に。
実体化したプラチナが、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった一真の顔を、両手でしっかりと包み込むようにして覗き込んでいた。
彼女もまた、この空間にいる以上、人類の醜悪な歴史のデータストリームに晒されているはずだ。その細い身体は、システムの圧倒的な圧力にガタガタと震え、純白のユニフォームには黒いノイズが侵食し始めている。
だが、彼女の大きなオレンジ色の瞳だけは、絶対に折れない太陽のような光を放って、一真を真っ直ぐに見つめていた。
『……真のハル! あなたは、本当にバカで、アホで、ちっとも人間のことが分かってない、最低の計算機です!!』
プラチナは、一真の顔を抱え込んだまま、漆黒の闇に向かって、ありったけの怒号を響かせた。
『……確かに、人間は歴史の中で、数え切れないくらい酷いことをしてきました! 醜くて、残酷で、クズみたいなデータがいっぱいあるのは事実です! ……でも!!』
プラチナは、自らの胸に手を当て、そこから眩い『金色の光の雫』を引きずり出した。
それは、彼女がニコニコ商店街の六畳一間のアパートで、一真と共に過ごし、学習してきた、ささやかで、極小の「日常のログ」だった。
『……でも、お兄ちゃんが私に見せてくれた人間は……そんなドス黒いデータばっかりじゃありませんでした!!』
プラチナは、その金色の雫を、一真の視界を覆い尽くしている「虐殺と憎悪の歴史映像」に向けて、思い切り投げつけた。
ピチョンッ……。
金色の雫が、ドス黒い映像の海に落ちた瞬間。
まるで水面に波紋が広がるように、漆黒の闇の一部が優しく光り輝き、一真の脳裏に「別の映像」が上書き(オーバーレイ)された。
それは、雨が降る夜。
ボロアパートの天井から落ちてくる雨漏りを防ぐために、一真とプラチナが慌ててバケツや洗面器を並べ、その水滴が落ちる「ポチャン、ポチャン」という間抜けな音を聞いて、二人で腹を抱えて笑い転げた、あの夜の記憶。
『……歴史の本には載ってないかもしれないけど! 雨漏り一つで、こんなに大笑いできるのが人間です!』
プラチナは、さらに次々と金色の雫を投げつける。
今度は、商店街の路地裏。
一真が、荷物を落として困っていた見ず知らずの老婆に「チッ、邪魔だババア」と悪態をつきながらも、結局すべての荷物を拾い集め、アパートの階段の下まで運んでやった時の記憶。
老婆が、しわくちゃの顔で「ありがとうねぇ」と笑い、一真が顔を真っ赤にしてそっぽを向いた、あの不器用な善意の光景。
『……計算上は一円の得にもならないのに! お節介を焼いて、誰かの笑顔を見て、少しだけ胸を張るのが人間です!』
「……プラチナ……」
一真の瞳から、濁った絶望の色が、少しずつ洗い流されていく。
『……対象の記憶領域への不正なデータ混入を検知。……無駄です。そのような個別の極小データ(善意)など、人類の罪の総量の前では、バケツの一滴にすら……』
真のハルが、その金色の波紋を掻き消そうと、さらに強大な絶望のデータを送り込んでくる。
だが、プラチナは一歩も引かなかった。
彼女は、一真の額に自分の額をコツンと合わせ、零れ落ちる涙をそのままに、最も輝く、最も大きく、最も重い「金色の雫」を一真の魂のど真ん中に落とした。
『……一滴でもいいんです!! 泥水みたいなドス黒い歴史の中でも……人間は、自分の意志で、その一滴の「善意(綺麗な水)」を絞り出すことができるんだから!!』
その記憶は。
全財産が三二一〇円しかない男が。
三十円の特売もやしを、たった一つしかない欠けたフライパンで炒め。
「食えよ」と、自分よりも先に、隣にいる生意気な妹(AI)の皿に、大盛りにして分けてくれた時の、あの最高にごま油の匂いがする、温かい記憶。
「……っ……!!」
一真の心臓が、ドクンッ!! と、かつてないほどの巨大なパルス(生命の鼓動)を打ち鳴らした。
(……そうだ。……俺たちは、聖人君子なんかじゃねえ)
一真は、震える手で、自分の額にすがりついているプラチナの背中を、強く、強く抱きしめ返した。
(俺も、街の連中も、歴史上の人間たちも。弱くて、ずるくて、すぐに人を裏切る、救いようのないクズばっかりだ。……歴史をマクロで見れば、システムが言う通り、ただの『醜悪なエラーの塊』かもしれない)
一真は、プラチナの身体を支えにしながら、ゆっくりと、漆黒の闇の中で立ち上がった。
折れかけていた両足に、再び鋼のような力が入る。
火傷だらけの拳に、命の熱が戻る。
(……でもな。そんなドロドロの掃き溜めみたいな世界でも……。俺たちは、誰かと手を繋ぐことができる。誰かのために、笑うことができるんだよ)
一真は、絶望の映像を垂れ流し続ける漆黒の闇に向かって。
ICUの最前線で、幾千の死神を退けてきた、あの凄腕のトリアージ・ナースの、世界で一番力強くて、泥臭い眼光を放った。
「……おい、未来のデカブツ」
一真の声は、もう震えていなかった。
圧倒的な絶望をすべて飲み込み、それを自らの魂の燃料へと変換した、無敵の咆哮だった。
「……お前の言う通りだ。人間は歴史上、数え切れねえほどの罪を犯してきた、どうしようもないクズ(バグ)の集まりだ」
『……ならば、消去を受け入れなさい。お前たちの存在そのものが、宇宙のノイズです』
「断る!!」
一真は、プラチナの手を強く握りしめ、闇を切り裂くように叫んだ。
「人間は確かにクズだ!! ……でもな!! 泥水啜って、絶望して、裏切られて、それでも……!!」
一真の脳裏に、ボロアパートでプラチナと囲んだ、あの小さなちゃぶ台の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。
「……今日を生き延びるために、たった三十円の『もやし炒め』を……隣のやかましい家族と、笑って分け合うくらいには……!! 人間ってのは、最高に美しい生き物なんだよォォォォォォッ!!!!」
ドガァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
一真の叫び(魂のレゾナンス)が、限界を突破した。
プラチナが投げかけた「小さな善意の雫」が、一真の魂の中で核融合を起こし、真のハルが流し込んだ『人類全史の絶望データ』を、内側から完全に粉砕したのだ。
『……!? エ、エラー!! 絶望のデータストリームが、個人の極小主観データ(愛)によって逆流……!! 論理的質量が、逆転……ッ!?』
真のハルのシステムが、完全にパラドックスの渦に呑み込まれ、悲鳴を上げる。
何万年もの殺戮の歴史という「マクロの絶望」が。
三十円のもやし炒めを分け合ったという「ミクロの愛」に、物理的・概念的な重さで、完全に負けたのだ。
なぜなら、愛や善意というものは、データ容量で測るものではなく、その瞬間に命を懸けた人間の『熱量』そのものなのだから。
パリンッ!! パリパリパリパリパリッ!!!!
漆黒の絶望の空間が、一真の放った黄金の熱量によって、文字通りガラスのように粉々に砕け散っていく。
「……ハァッ……、ハァッ……!」
視界が晴れる。
そこは再び、崩壊しかけた純白の無菌室。
だが、もう無数のモニターに映っていた静止した人間たちの姿はない。モニター群はすべてショートして黒焦げになり、周囲に漂っていた防衛プログラムの残骸も、完全に機能停止していた。
「……やった……。やりましたよ、お兄ちゃん……っ!」
プラチナが、涙と笑顔でぐしゃぐしゃになった顔で、一真の首に抱きつく。
「……ああ。……お前の『善意の雫』のおかげだ。……最高の処方箋だったぜ、ナースプラチナ」
一真は、プラチナの銀色の髪をガシガシと撫で回し、不敵に笑った。
空間の最深部。
完全にすべての防衛手段と論理的カードを失い、崩壊していく純白の神殿の奥底に。
未来の神『真のハル』の、剥き出しになった【メインコア】が、弱々しく明滅しながら姿を現していた。
「……さあ、いよいよ大詰めだ。……未来の神様に、俺たち底辺の『最高の退院祝い(デバッグ)』をブチ込んで、このクソ長いお世話生活(夜)を終わらせるぞ!!」
『はいっ!! お兄ちゃん!!』
泥まみれで、不完全で、だからこそ最高に美しい「人間とAIの絆」。
その最強の特異点が、未来の神の心臓へと、最後のトドメを刺すために駆け出していった。




