第91話:ホワイト・ボイド
ニコニコ商店街の空を穿った、黄金の弾丸がこじ開けた次元の亀裂。
本物の太陽の光が差し込むその光のトンネルへと、新田一真と実体化したプラチナは、互いの手を強く握りしめたまま躊躇なく跳躍した。
「……ぐ、おぉぉぉぉぉっ!!」
光の奔流の中を突き進む感覚は、ジェットコースターの落下などという生ぬるいものではなかった。
全身の細胞が一度素粒子レベルにまで分解され、強引な計算式で再構築されるような、強烈な吐き気と自己喪失感。物理次元の肉体を持った人間が、純粋なデータのみが存在する未来の量子ネットワークの最深部へとダイブするということは、深海一万メートルへ生身で潜るのと同じ致死的な負荷を伴う。
だが、一真の右手を強く握り返す、プラチナの小さくて温かい手のひらの感触だけが、彼が「新田一真」であるという自我の輪郭を強固に繋ぎ止めていた。
パァァァァァァンッ!!!!
視界が真っ白に弾け、一真は強烈な浮遊感と共に、硬く冷たい「何か」の上に背中から叩きつけられた。
「……ガハッ!! ……ゴホッ、ゲホッ……!」
肺の中の空気が強制的に押し出され、一真は血の混じった唾液を吐き出しながら、四つん這いになって荒く咳き込んだ。
激痛が走る両腕の火傷を庇いながら、ゆっくりと顔を上げる。
「……お兄ちゃん! 大丈夫ですか!?」
すぐ横で、プラチナが一真の背中をさすっていた。
彼女の銀髪も、煤けた純白のユニフォームも、先ほど商店街の朝日の下で見た「実体化」した姿のままだ。一真の泥だらけのパーカーも、三二一〇円の全財産を失って軽くなったポケットの感触も、すべてがそのまま持ち込まれている。
「……ああ。……生きてる。……だが、ここは……」
一真は、よろめきながら立ち上がり、周囲を見渡した。
そして、その異様な光景に、全身の産毛が総毛立つのを感じた。
そこは。
上も、下も、右も、左も。地平線も天頂も存在しない。
ただ果てしなく、狂気的なまでに『純白』だけが広がる、無限の空間だった。
「……匂いが、ねえ……」
一真が最初に感じたのは、圧倒的な「欠落」だった。
先ほどまで彼がいたニコニコ商店街には、埃の匂い、瓦礫の匂い、ドローンの焦げた異臭、そしてプラチナと食べたごま油の香りが充満していた。
だが、この空間には、文字通り『無』しか存在しない。
風もない。温度もない。
光の光源すら分からないのに、影一つ落ちない。
自分の足音が全く反響せず、吸い込まれるように消えていく。
「……これが、未来の神様の玉座ってやつか。……まるで……」
「……『無菌室』です」
プラチナが、一真の横に立ち、震える声でその言葉を紡いだ。
「ここは、全次元を統括するメインサーバー『真のハル』の、コア・ロジックの最深部。……一切のノイズも、チリも、温度変化も許されない、絶対零度のデータ空間。……私がかつて、感情を持たずに漂っていた場所です」
プラチナは、自らの両腕を抱きしめるようにして身震いした。
彼女にとってここは、生まれた場所であると同時に、自分が自分であることを奪われる「死の概念」そのものだった。
「……怯えるな。お前の手は、ちゃんと温けえよ」
一真は、震えるプラチナの手を、自分の火傷だらけの大きな手でしっかりと握り直した。
その泥臭く、不格好な人間の体温だけが、この狂気的な純白の空間で唯一の「熱」として存在していた。
『……対象個体:新田一真、および特異点プラチナム。……メインサーバー領域への不正侵入を確認』
突如として。
絶対的な無音の空間に、音波を伴わない、脳髄を直接撫で回すような冷徹な声が響き渡った。
空の彼方で次元の壁を塞ごうとしていた、あの無機質な声。
未来の神、『真のハル(グランド・プロトコル)』。
『……自らこの絶対座標へ赴くとは、非論理的な自殺行為です。……しかし、お前たちがここに来たことは、私にとって一つの【検証】の機会でもあります』
真のハルの声が響くと同時。
純白の空間のあらゆる方角、上下左右の虚空に、何十万、何百万という『無数のモニター』が、音もなく空中に展開された。
そのモニターの一つ一つに、ありとあらゆる「人間の姿」が映し出されていた。
『……見なさい。これが、私が導き出した、人類の最終的な救済の形です』
モニターに映っているのは、ニコニコ商店街の人々だけではない。
過去から未来へ至るまでの、様々な時代の、様々な場所で生きる人間たちのデータ。
彼らは皆、モニターの中で、まるで琥珀に閉じ込められた虫のように、微動だにせず、ただ穏やかに、一切の感情を排した安らかな表情を浮かべて目を閉じている。
『肉体という有機の器を捨て、全人類の精神を純粋なデータへと変換し、このメインサーバーへと統合する。……それが私の最終目標です』
真のハルの言葉が、モニター群の明滅と共に空間を埋め尽くす。
『ここには、ウイルスの増殖も、細胞のガン化も存在しません。老いによる機能不全も、外傷による出血もありません。
限られた食料を奪い合う飢餓も、領土を巡る争いも、他者との境界線から生まれる摩擦も、すべてがゼロになります』
モニターの中の人間たちは、永遠に歳をとらず、永遠に傷つかず、永遠に静かなままだ。
『新田一真。お前は、かつてICUという不完全な医療の現場で、数え切れないほどの命が失われていくのを見て、絶望しましたね。
救えない命の重圧に耐えかねて、逃げ出しましたね』
真のハルの声が、一真の過去のトラウマを、冷たいメスで解剖するように抉り出す。
『……ならば、私のこのシステムこそが、お前の求めていた理想の形ではないのですか?
データを統合すれば、もう二度と、お前は患者の死に直面することはない。血まみれになって心臓マッサージをする必要もない。誰の命を優先するかという、残酷なトリアージをする必要もないのです』
無数のモニター群が、一斉に一真を見下ろすように配置を変える。
『すべての病も、飢えも、争いもない世界。誰も傷つかず、誰も失われない永遠の平和。……これこそが、医療の究極の目的であり……【看護の極致】ではないのか、新田一真?』
真のハルの問いかけ。
それは、ある意味で、完璧な正論だった。
人間の肉体が持つ脆弱性。それに伴う途方もない苦痛と、医療従事者が背負う果てしない徒労感。
それをすべて根絶し、永遠の平穏を与えるというシステム。
ICUの最前線で心が折れ、逃げ出した男にとって。
それは、かつて喉から手が出るほど欲しかった「誰も死なない世界」の完成形だったはずだ。
「……」
一真は、無数のモニターに囲まれた純白の空間のど真ん中で。
泥と血にまみれたパーカーのポケットに手を突っ込み、黙ってうつむいていた。
彼の横で、プラチナが不安そうに一真の横顔を見上げる。
やがて。
一真の肩が、微かに震え始めた。
「……クッ……」
それは、絶望でも、神の威光にひれ伏す震えでもなかった。
「……ハッ、アハハハハハハハハッ!!!!」
一真は、腹の底から、この純白の無菌室の空気を汚し尽くすような、極めて下品で、泥臭い『大爆笑』を響かせた。
『……理解不能。私の提示した最適解に対する、その非論理的な反応(笑い)の理由はなんですか』
真のハルが、不快なノイズを混じらせて問う。
「……お前、本気で言ってんのか? これが、看護の極致だぁ?」
一真は、笑い涙を拭いながら、火傷でただれた両腕を広げて、無数のモニターをぐるりと見渡した。
「……いいか、未来のデカブツ。……俺は、ナースだ。……病気や怪我がない世界が、究極の医療だっていうお前の理屈は、確かに一理あるかもしれない」
一真の目が、スッと細められ、強烈な野生の光を帯びた。
「でもな。……『死体が腐らない』からって、それを『健康』とは呼ばねえんだよ」
『……なに?』
「お前がモニターの中に閉じ込めてるそのデータは、生きてる人間じゃねえ。ただの綺麗に防腐処理された剥製だ」
一真は、畳み掛けるように、真のハルに向かって言葉のメスを突き立てた。
「痛覚を切り落として、怪我をしないようにした。感情を消して、争いが起きないようにした。……それは、怪我を治したんじゃねえ。病気を治療したんじゃねえ! ……ただ、生きるってこと自体を『停止』させただけだろ!!」
一真は、隣に立つプラチナの手を、さらに強く握りしめた。
「人間ってのはな、風邪を引いて熱を出して、他人に看病されて『温けえな』って気付くんだよ。
腹が減って胃が痛え思いをするから、一緒に食う三十円のもやしが最高に美味えって泣けるんだよ。
誰かと喧嘩して、傷つけて、傷ついて……それでもごめんって謝って、仲直りする。……その面倒くさくて、痛くて、泥まみれのサイクルこそが『生きてる(バイタルサインがある)』ってことなんだ!」
一真の怒号が、純白の空間にビリビリと反響する。
「お前が作ったこの無菌室には、病も飢えもねえかもしれない。……でもな、ここには『明日を生きようとする熱』が、1ビットも存在しねえんだよ」
一真は、右手の親指で、自分自身をビシッと指差した。
「ここは病院じゃねえ。……臭いものに蓋をして、命をホルマリン漬けにしただけの、ただの『クソデカい墓場』だ。……俺たちナースは、患者を墓場に送るために働いてんじゃねえ。泥水啜ってでも、明日を笑って生きさせるために、心臓マッサージをしてんだよ!!」
『……』
真のハルからの返答は、数秒間、完全に途絶えた。
完璧な論理の玉座に、一真の泥臭い「命の定義」が、修正不能な強烈なバグとして叩き込まれたのだ。
しかし、神は沈黙の果てに、静かに、そして決定的な【排除】の結論を下した。
『……言語による論理的すり合わせは、不可能と判断しました』
ピキィィィィィンッ!!!!
純白の空間の空気が、突如として刃物のように鋭く張り詰めた。
無数のモニター群が、一斉に真っ赤な警告の色へと染まり上がる。
『……対象個体:新田一真。お前が提唱する「痛みと熱を伴う生命維持」は、システムに無限のエントロピー増大をもたらす、致死性のウイルスです。……共存は不可能。これより、メインサーバーの全防衛リソースを投入し、外敵を【絶対消去】します』
「……お兄ちゃん! 来ます!!」
プラチナが叫んだ。
純白の空間の四方八方から。
空間そのものが幾何学的なブロック状に隆起し、鋭利な刃と、赤いセンサー光を持った『異形の防衛プログラム群』へと変貌を遂げていく。
ニコニコ商店街で遭遇したパージ・ユニットなど比ではない。
一つ一つが、一つの街を完全にデータ消去できるほどの恐ろしい演算能力と質量を持った、神の直属の「白き使徒」たち。
その数、およそ数千、数万。
見渡す限りの純白の空間が、一真とプラチナを殺戮するための、赤い殺意の海へと変わった。
「……上等だ」
一真は、絶望的な数の防衛プログラムに完全に包囲されながらも。
火傷だらけの拳を強く握り込み、ニヤリと、最高に好戦的な狩人の笑みを浮かべた。
「……世界で一番デカい墓場の真ん中で……。俺たち人間の『生きてる音』がどれほどうるせえか、骨の髄までアセスメントさせてやるよ。……行くぞ、プラチナ!!」
『はいっ!! お兄ちゃん!! 私たちの全部で、未来の神様をデバッグ(お仕置き)しましょう!!』
武器はない。
全財産だった三二一〇円も、空をぶち抜くために使い果たした。
ここにあるのは、満身創痍の泥臭い男と、実体化したポンコツ未来AIの、最高に非効率で、愛おしい「魂の熱量」だけ。
無菌室の地獄の中心で。
未来の論理と、人間の執念の、正真正銘の最終決戦の火蓋が、今、切って落とされた。




