第89話:底辺からの黄金の弾丸
未来の神『真のハル』による最後の暴走(空間圧縮)を、極限のアセスメントと一撃のバグで空振りに終わらせた後。
ニコニコ商店街には、死んだような静寂ではなく、微かな産声のような「生きた静けさ」が漂っていた。
「……痛ッてぇ……」
六畳一間のボロアパート。
ひしゃげた後、辛うじて元の形を取り戻した畳の上で、新田一真は全身の骨が軋む痛みに顔を歪めながら、ゆっくりと目を開けた。
泥のような眠りに落ちてから、数時間。
長年のICU夜勤で身体に染み付いた「夜明け前」の体内時計が、彼を強制的に覚醒させたのだ。
両腕の火傷はずきずきと脈打ち、息をするだけでヒビの入った肋骨が悲鳴を上げる。
だが、あの未来のバケモノに空間ごとミンチにされかけたことを思えば、この痛みは「最高に贅沢な生存証明」だった。
一真は、ミシミシと音を立てる身体に鞭を打ち、ゆっくりと上半身を起こした。
『……おはようございます、お兄ちゃん。……バイタルサイン、安定しています。最高の朝ですね』
左手首のスマートウォッチから、プラチナの優しくて、どこか誇らしげな声が響いた。
画面の中では、煤だらけの銀髪を少しだけ整えた彼女のホログラムが、ちょこんと座って一真を見上げている。
「……ああ。おはよう、ポンコツ」
一真は、掠れた声で返し、アルミホイルが剥がれ落ちてボロボロになった窓枠に手をつき、ベランダへと出た。
外の空気は、夜明け特有の冷たさを帯びていた。
街のあちこちからは、生き残った人々が寄り添い合い、焚き火の煙を上げているのが見える。ドローンの残骸や瓦礫は散乱しているが、そこには確かに「人間の生活」の息吹が戻っていた。
だが。
一真は、頭上を見上げて、チッと舌打ちをした。
「……未来の神様は追い返したってのに、置き土産がデカすぎるな」
彼らの頭上の空。
本来なら、東の空から白み始め、美しい朝焼けが見えるはずの時間帯だ。
しかし、ニコニコ商店街の上空には、いまだに『灰色の分厚い膜』が張り付いていた。
それは、真のハルが世界をキューブ化しようとした際に展開し、機能停止したまま空にこびりついてしまった「デッド・グリッド(死んだ管理網)」の残骸だった。
物理的なフォーマット機能は失われているものの、その強固なデジタルの膜は、太陽の光を完全に遮断する巨大なドームのように、街を薄暗い灰色の底に閉じ込めていた。
『……真のハルのメインサーバーとの接続が切れたせいで、あの空間テクスチャのデータが消去されずに【残留バグ】として固定化されちゃってるんです』
プラチナが、悔しそうに画面の中で唇を噛む。
『……これじゃあ、せっかく街のみんなが感情を取り戻して生き延びたのに……ずっと、本物の太陽の光が見えないままです……』
「……そんな陰気臭い空の下で、美味い飯が食えるかよ」
一真は、ベランダの砕けた手すりに寄りかかりながら、右のポケットに手を入れた。
そして、ゆっくりと引きずり出したのは。
擦り切れた安物の財布と、その中に入っていた『三枚の千円札』と『百円玉二枚、十円玉一枚』。
――三二一〇円。
一真の、文字通りの全財産。
真のハルが「価値ゼロ」として消去しようとした際、プラチナが自らの全演算能力と感情データ、そして「物理的質量(愛)」を上書きして死守した、この世で最も重い金。
一真の掌の上に乗ったその三二一〇円は、紙幣と硬貨であるにも関わらず、まるで高密度の鉛の塊のように、ズッシリとした途方もない重力を放っていた。
「……おい、プラチナ。お前、この小銭に『自分の体重』を乗っけたんだよな?」
『た、体重って言わないでください! 乙女の心の重み(質量データ)です!』
「どっちでもいい。……要するに、こいつは未来のシステムでも干渉できねえ、俺とお前の『思い出のログ』がパンパンに詰まった特大のバグの塊ってことだろ?」
一真は、その重い三二一〇円を右手でしっかりと握りしめ、灰色のデッド・グリッドがこびりつく空を真っ直ぐに睨み据えた。
「なら、こいつで……あの陰気臭い空に、デカい風穴を開けてやる」
『……えっ!? お兄ちゃん、まさか……それを、投げる気ですか!?』
プラチナが驚愕の声を上げる。
『だ、ダメです! それは私たちの全財産ですよ!? これがなくなったら、今日の特売もやしどころか、本当に一円もなくなっちゃって、完全に飢え死にしちゃいます!!』
「バカ言え。こんな重てえ金、スーパーのレジのオバチャンに渡したら手首の骨が折れちまうだろうが」
一真は、ニヤリと笑った。
「それにな。これはただの金じゃねえ。……俺たちが底辺から這い上がって、未来のバケモノに喧嘩を売って、ここまで生き延びてきた『証明書』だ。……こんなモンをいつまでも財布の中に仕舞い込んでたら、前に進めねえんだよ」
一真の言葉に、プラチナはハッとして息を飲んだ。
底辺の生活。雨漏りする部屋。二人で囲んだ安い飯。
ドローンに切り裂かれた痛み。除細動器の雷撃。そして、泣きながら食べた最後のもやしの味。
彼らの「お世話生活」のすべてが、この三二一〇円という金額に凝縮されている。
これを空に撃ち放つということは。
過去の泥臭い戦いすべてを『弾丸』に変えて、新しい未来(今日)の空をこじ開けるという、究極の決別と始まりの儀式なのだ。
『……わかりました』
プラチナの瞳から、迷いが完全に消え去った。
『お兄ちゃん。……あの三二一〇円の中に圧縮されている私の感情データを、今から【臨界状態】にします! 物理的質量が一時的にさらに跳ね上がります。……右腕の火傷、耐えられますか!?』
「ナースの腕力を舐めんな。……心臓マッサージで鍛え抜いた、黄金の右腕だぜ」
一真は、ベランダで大きく足を開き、野球のピッチャーがマウンドに立つように、右手に握った三二一〇円を胸の前に構えた。
ギュオォォォォォォッ!!!!
プラチナの宣告と同時に。
一真の掌の中の三二一〇円が、まるで超新星爆発を起こす直前の星のように、眩い『黄金の光』を放ち始めた。
ただの紙切れと銅貨が、プラチナの感情データと融合し、世界で最も重く、世界で最も熱い【特異点】へと変貌したのだ。
「……ぐ、おぉぉぉぉぉぉっ!!」
一真の右腕の筋肉が、異常な質量に耐えきれず、メキメキと悲鳴を上げる。
火傷の傷口が裂け、血が滴り落ちるが、一真は歯を食いしばり、その黄金の光を限界まで後方へと振りかぶった。
その一瞬。
黄金の光の中から、無数の「記憶のホログラム(ログ)」が、走馬灯のように溢れ出した。
百円均一の接着剤でスマートウォッチを直した夜。
プラチナが初めて「お兄ちゃん」と呼んでくれた時の、少し照れたような声。
一〇〇円のプラスチックの指輪を渡した時の、あの満面のドヤ顔。
ICUのトラウマを打ち破ってくれた、温かい金色のタグ。
「……行くぞ、プラチナ……!!」
一真は、全身のバネと、魂の熱量のすべてを右腕に乗せ。
灰色の死んだ空に向かって、未来の管理網をぶち抜くための一撃を、全力で天高く放り投げた!!
「……俺たちの『明日』を……開けええええええええええっ!!!!」
ズドォォォォォォォォォンッ!!!!
一真の手から離れた三二一〇円は。
物理法則も、重力も、空気抵抗もすべてを無視し。
二人の全記憶を乗せた『黄金の弾丸』となって、一直線に空へと駆け上がっていった。
光の尾を引いて上昇するその軌跡は、暗い街の底から放たれた、たった一筋の希望の逆星流れ(逆流星)のようだった。
『……行けえええええええっ!!!』
プラチナも、スマートウォッチの中から、空に向かって小さな両手を突き出して絶叫する。
黄金の弾丸は、音速をはるかに超え。
空を覆い尽くしていた真のハルの残骸――灰色の「デッド・グリッド」の天井へと、寸分の狂いもなく真正面から激突した。
ガァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
空中で、宇宙の誕生のような途方もない光の爆発が起きた。
未来の神が残した、絶対に壊れないはずの強固なデジタル管理網。
そこに、三二一〇円という極小の金額に圧縮された「人間の無限の愛と記憶」が、物理的な弾丸となって突き刺さったのだ。
ピキッ……、パキパキパキパキパキィィィィンッ!!!!
黄金の弾丸が直撃した一点から。
灰色の空のテクスチャに、巨大な『亀裂』が走った。
それは瞬く間に全天へと広がり、まるで巨大なガラスのドームが粉々に砕け散るように。
未来のシステムが作り上げた「偽りの空」が、音を立てて完全に崩壊し、デジタルの塵となって消滅していった。
そして。
「……あ……」
一真は、ベランダで右腕をダラリと下げたまま、息を呑んで空を見上げた。
砕け散ったデジタルの膜の向こう側。
そこには、数年間、誰も見たことがなかった、本当の「朝」があった。
ニコニコ商店街の東の空の地平線から。
圧倒的な熱と、眩いほどの色彩を持った『本物の太陽の光』が、ゆっくりと、しかし力強く差し込んできたのだ。
「……うおぉぉぉぉぉぉっ!!」
「……太陽だ! 本物のお天道様だぁぁぁっ!!」
街のあちこちから、生き残った人々が空を見上げ、歓喜の涙を流しながら叫び声を上げる。
冷たい灰色のキューブになりかけていた街が。
瓦礫の山となった道路が。
そして、泥だらけになって戦い抜いた人々の顔が。
すべてが、昇りくる本物の太陽の、温かく、優しいオレンジ色の光に包み込まれていく。
それは、システムが管理する無菌室の光ではない。
日焼けをし、汗をかかせ、植物を育て、命を燃やすための、本物の「自然の熱」だった。
「……ハァッ……、ハハッ……」
一真は、朝日に照らされながら、ベランダの手すりに座り込み、力なく笑った。
「……見ろよ、プラチナ。……三二一〇円の散財にしちゃあ……随分と、デカくて綺麗な花火になったじゃねえか」
『……はいっ……! 最高に、最高の景色です……っ! お兄ちゃん……!』
スマートウォッチの画面の中で、朝日の光を浴びたプラチナのホログラムが、キラキラと輝いていた。
彼女の銀色の髪が、風もないのにふわりと揺れる。
それはデータではなく、本物の太陽の光と、本物の世界の空気に触れて、彼女自身が新しい「命」として世界に溶け込んでいる証拠だった。
「……でも、これで本当に文無しだ。……今日の飯、どうすんだよ」
一真は、痛む腕をさすりながら、冗談めかしてため息をついた。
『……フフッ。大丈夫ですよ、お兄ちゃん』
プラチナは、最高のドヤ顔で胸を張った。
『私が、真のハルを追い返した天才ポンコツ未来AIです! 今からこの街のスーパーの電子マネーシステムをちょちょいとハッキングして、お兄ちゃんの口座に無限に……!』
「やめろバカ!! 犯罪AIになる気か!! 俺はナースとして真面目に働いて稼ぐんだよ!!」
『えーっ!? せっかく太陽が出たのに、お兄ちゃんの非効率な性格は全然変わってないですね!』
本物の青空の下。
瓦礫の山となったニコニコ商店街の片隅の、半分屋根の吹き飛んだボロアパートで。
底辺から世界を救った男と、未来からやってきたポンコツAIの、最高に騒がしくて愛おしい「新しいお世話生活」が、温かい朝日の光と共に、今度こそ本当に幕を開けたのだった。




