第88話:暴走する神の心音
「……ちょっとばかし、未来の神様に『もやし炒めの領収書』を突きつけてやっただけだ」
新田一真が、論理崩壊を起こして消え去った未来のメインサーバー『真のハル』の残滓に向かってそう言い捨て、六畳一間の畳に寝転がろうとした、まさにその直後だった。
ピピピピピピピピピピピピッ!!!!
左手首のスマートウォッチが、これまでに聞いたこともないような、鼓膜を劈くけたたましいエラー音を鳴らした。
同時に、プラチナのホログラムが激しくノイズを放ち、オレンジ色の瞳を見開いて絶叫した。
『……お兄ちゃんッ! 伏せて!! 終わってません!! 真のハルのシステムが……論理的に完全に論破されたことで、フェイルセーフ(安全装置)が全部吹き飛んで……ただの『破壊衝動のバグ』になって暴走し始めました!!』
「……なんだと!?」
一真が顔を跳ね上げた瞬間。
先ほどまで平穏を取り戻しかけていたボロアパートの空間が、信じられないほどの力で「ねじ曲がり」始めた。
ミシミシ、メキメキィッ!!
雨漏りのシミがある天井が、すり鉢状に凹みながら一真の頭上へ迫ってくる。
壁のポスターが、空間の歪みに巻き込まれてシュレッダーにかけられたように引き裂かれ、畳が津波のように波打って跳ね上がった。
『……エラー……。論理的解決不能。……対象セクターを、物理法則ごと……圧壊させます……ッ』
空中に、真のハルの断末魔とも呼べる、赤黒く濁った幾何学的な染みが浮かび上がり、不気味なノイズを撒き散らしていた。
それはもはや「神」の姿ではなかった。
自らの存在意義(搾取の論理)を一真に完全否定され、エラーを起こした巨大演算回路が、最後に選んだ道連れの自爆シークエンス。
ニコニコ商店街という空間そのものを、文字通り「握り潰して」物理的に消去しようとする、純粋な暴力の渦だった。
「……が、ぁぁぁっ……!」
一真は、四方八方から迫り来る凄まじい空間圧力(重力)に押し潰され、畳の上に這いつくばった。
両腕の火傷から再び鮮血が滲み出し、全身の骨が軋む。肺が圧迫され、呼吸すらままならない。
『……お兄ちゃん! ダメです、防壁が張れません! 空間そのものの座標がデタラメに書き換えられてて……! このままじゃ、私たち、ミンチにされちゃいます!!』
スマートウォッチの中で、プラチナが必死に演算を繰り返すが、狂ったように変動する重力場の中では、彼女のデジタルな防壁を展開する「基盤」すら存在しなかった。
部屋の空間が、万力で締め上げられるように、容赦なく収縮していく。
六畳あった部屋が、すでに四畳半、三畳と狭まり、一真の身体をひしゃげた家具ごと押し潰そうと迫り来る。
(……くそっ……。最後の最後で、神様が駄々っ子になりやがったか……!)
圧倒的な質量の暴力。
人間の力では、どう足掻いても抗えない絶望的な状況。
だが。
「……ハァッ……、ハァッ……。……落ち着け、プラチナ……。騒ぐな」
一真は、血を吐きながらも、その声には不思議なほどの静けさと、研ぎ澄まされた冷たさがあった。
彼は、ギリギリと迫り来る壁と天井を見つめるのをやめ。
ゆっくりと、両目を閉じたのだ。
『……えっ? お、お兄ちゃん!? 何で目を……!』
「……視覚情報を切れ。……相手は狂ったバグだ。デタラメに暴れてるように見えるが……機械である以上、絶対に『リズム』があるはずだ」
一真の脳裏に、かつてのICU(集中治療室)の光景がフラッシュバックしていた。
複数のアラームが同時に鳴り響き、患者の容態が急変し、医師や看護師がパニックになりかける極限の現場。
素人は、その圧倒的な情報量と死の気配に呑まれ、目の前の数値の異常だけを見て右往左往してしまう。
だが、一流のトリアージ・ナースは違う。
目を閉じ、耳を澄まし、指先の感覚を研ぎ澄ませる。
モニターの狂った波形ではなく、患者自身の胸の動き、呼吸の音、皮膚の温度から、直接『命のバイタル(不整脈の周期)』を読み取るのだ。
(……空間が、脈打ってる。……一定の圧力で押し潰してきてるんじゃねえ。……強く、弱く、強く……心室細動(VF)みたいに、痙攣しながら収縮してやがる)
目を閉じた一真の『アセスメント・アイ(観察眼)』が、全開になった。
ギリッ……、ギギギッ……、ドンッ。
空間が軋む音。
重力の圧力が強まる瞬間と、ほんのわずかに弱まる瞬間。
一真は、自分を押し潰そうとする未来のシステムの「暴走の波」を、心肺停止しかけた患者の『狂った心電図(不整脈)』として、その脳内で完全に可視化(データ化)し始めていた。
(……周期は、コンマ8秒。……いや、コンマ75。……三回に一回、圧力が偏る『期外収縮』がある……)
一真の額から、滝のような冷や汗が流れ落ちる。
全身の骨がミシミシと悲鳴を上げ、内臓が破裂しそうな負荷がかかっているにも関わらず、彼の精神は恐ろしいほどの凪の中にあった。
ただひたすらに、システムが放つ死の波動を観察し、その「規則性」と「矛盾」を探り当てようとしている。
『……お兄ちゃん! もう空間が二畳分しかありません!! 潰されちゃいます!!』
プラチナが泣き叫ぶ。
「……待て。……まだだ。……まだ、脈が読めねえ」
一真は、畳に爪を立て、目を閉じたまま、ジッとその「時」を待った。
空間の歪みが限界に達し、一真の肋骨がピキッと嫌な音を立ててヒビ割れた、その瞬間。
(……見えた!!)
一真の脳内で、暴走するシステムが放つ狂った波形の中に、一瞬だけ生じた『致命的な空白』が、ハッキリと結像した。
機械がランダムに暴れているように見えて、実は演算処理のループが切り替わる際に生じる、コンマ数秒のラグ。
それは、患者の心臓が不整脈の果てに完全に止まる直前に見せる、大きな痙攣の前の「息継ぎ」と同じだった。
一真は、カッと両目を見開き、限界を超えて血走った瞳で、空間の歪みの中心――赤黒いエラーの染みが浮かぶ一点を睨み据えた。
「……そこだ、プラチナ!!」
一真の咆哮が、圧縮された六畳一間に響き渡る。
「……俺の全財産(三二一〇円)に込めた、お前の『重力データ(愛)』!! あれを全部、圧縮して……〇.一秒後、空間の『左下』に向かって、全力で投げつけろ!!」
『……左下!? お兄ちゃん、あそこには何のエラーの染みもありません! ただの壁です!』
「壁じゃねえ!! コンマ一秒後に、あそこにシステムの一番脆い『死角(心臓の弁)』が移動してくるんだよ!! 俺のアセスメントを信じろ!!」
一真は、未来のシステムの暴走の周期を完全に読み切り、空間の歪みが次に向かう「座標」を、先読みしてプラチナに指示したのだ。
プラチナは、ほんの一瞬も躊躇しなかった。
一真が「そこだ」と言えば、そこが正解だ。論理的な計算など必要ない。それが、二人で積み上げてきた泥臭い絆の答えだ。
『……了解です、お兄ちゃん!! 私たちの全部(日常の重み)……食らえええええええっ!!!』
プラチナは、スマートウォッチのプロセッサを自壊寸前までオーバードライブさせ、パーカーのポケットに入っていた「世界で一番重い三二一〇円」の質量データと、自身の演算リソースのすべてを、一つの巨大な『金色の槍(バグの塊)』へと圧縮した。
そして、一真の指示通り。
現在の空間の歪みの中心ではなく、そこから少し外れた、何もない「左下の空間」に向けて。
コンマ一秒の遅れもなく、その金色の槍を全力で投擲した!!
シュゥゥゥゥゥンッ!!!!
金色の光が、圧縮された部屋の空気を切り裂き、左下の空間へと飛んでいく。
そこには、何もないはずだった。
だが、光の槍がその座標に到達した、まさに「ゼロコンマ一秒後」。
ドリュンッ!!!!
空間をねじ曲げていた真のハルの赤黒いエラーの染みが、暴走の周期に従って、自らその左下の座標へと「移動してきた」のだ。
まるで、ピッチャーの投げた球に、バッター自らが顔面から突っ込んでいくような、完璧なタイミング。
一真の極限の観察眼は、未来の神の暴走の果てにある「空振りの軌道」を、寸分の狂いもなく予測し、そこにプラチナの特大のバグを置きに行かせたのである。
ガァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
赤黒いエラーの核心部(心臓)に、プラチナの放った金色の槍(三二一〇円の質量データ)が、カウンターの形で真正面から直撃した。
『……!? ……クリティカル……エラー……。……コア・ロジック、完全破壊……』
自らの圧縮エネルギーが最高潮に達した瞬間に、その力のベクトルを内部から強引にへし折られた真のハルの暴走システム。
それは、思い切り振り被った拳を空振りし、自らの関節を外してしまったような、致命的な『自滅』だった。
バキィィィィィィンッ!!!!
空間の中心に、決定的な「空振りの穴」が開いた。
そこから、一真たちを押し潰そうとしていた途方もない重力の圧力が、風船が割れたように一気に外へと吹き飛んでいく。
「……ハァッ……、ハァァァァァッ!!!」
一真は、一気に解放された酸素を、破裂しそうな肺の奥底まで貪り食うように吸い込んだ。
シュルシュルシュル……。
波打っていた畳が元に戻る。
ひしゃげていた壁が、天井が、本来の四角い六畳一間の形へと急速に復元していく。
真のハルが起こした最後の総攻撃(空間圧縮)は、一真の完璧なアセスメントと、プラチナの信じ抜く投擲によって、完全に「空振りの自爆」へと追い込まれ、霧散したのだ。
『……やっ……やりました……。お兄ちゃん……! 空間の歪み、完全に消失! エラーの残骸も、綺麗に消え去りました……っ!!』
スマートウォッチの画面で、力を使い果たして半透明になったプラチナが、へたり込みながらも、安堵と歓喜の入り混じった声で叫んだ。
「……ああ。……上出来だ、プラチナ」
一真は、畳の上に大の字に倒れ込み、天井の雨漏りのシミを、愛おしそうに見上げた。
「……どんなにデカくて強いバケモノでも……焦って呼吸が乱れたら、そこが命取りになる。……ナースのアセスメントを舐めるなって話だ」
ヒビの入った肋骨と、火傷の両腕が激しく痛む。
だが、その痛みこそが、未来の神の最後の足掻きを打ち破り、自分たちがこの六畳一間で確かに生き残ったという、何よりの証明だった。
「……今度こそ、本当に終わったな」
一真は、疲れ切った声で呟き、目を閉じた。
『はい! もう未来からの干渉の兆候は、1ビットもありません! 私たちの完全防衛、大成功です!』
「……おう。……じゃあ、俺はもう寝る。……死んでも起こすなよ……」
一真の意識が、泥のような深い眠りの底へと沈んでいく。
『……ふふっ。はい、おやすみなさい、お兄ちゃん。……世界で一番カッコいい、私のスーパー・ナース!』
プラチナの、優しくて、少しだけ誇らしげな声が、一真の耳元で心地よく響く。
窓の外では、夜明けの冷たい風が、ボロボロになったニコニコ商店街を吹き抜けていた。
色のないディストピアを巡る、長く、そして最高に泥臭い夜が、今、本当の終わりを告げようとしていた。
未来の神でも予測できなかった、三十円の底辺からの大逆転劇。
その舞台となった六畳一間は、朝日が昇るまで、誰にも邪魔されることなく、静かで温かい眠りに包まれるのだった。




