第87話:FRSの真実:偽物を超えるもの
三十円の特売もやし炒めの、ごま油と塩コショウの香ばしい匂い。
プラチナが流した「心からの涙」によって、崩壊の淵から奇跡的に実体を取り戻した六畳一間のボロアパートは、泥臭くも温かい、確かな『日常の質量』を取り戻していた。
「……ふぅ。食った食った。やっぱ、命懸けの後の飯は五臓六腑に染み渡るぜ」
新田一真は、空になった欠けた皿をちゃぶ台の端に押しやり、火傷でただれた両腕を庇いながら、畳の上に大の字になって寝転がった。
天井には、雨漏りのシミ。その向こう側には、もう未来の神の幾何学的な瞳も、世界を覆う緑色のグリッドも存在しない。あるのは、ニコニコ商店街の平和な夜の静寂だけだ。
『……お粗末様でした、お兄ちゃん! 私の味覚データ(心)にも、しっかりと刻み込まれました!』
左手首のスマートウォッチから、プラチナの弾むような声が響く。彼女のホログラムも、先ほどまでの激戦のノイズが嘘のように安定し、誇らしげに胸を張っていた。
すべてが終わった。
神は退けられ、世界は人間たちの手に戻った。
泥だらけのトリアージ・ナースは、ついに訪れた安息の眠りに目を閉じようとした。
――その、瞬間だった。
ピィィィィィン……。
極めて甲高く、耳鳴りのような電子音が、一真の鼓膜ではなく、脳髄の奥底で直接鳴り響いた。
「……っ!?」
一真は、跳ね起きようとした。だが、身体が1ミリも動かない。
金縛りではない。空間の物理法則そのものが、強烈な「重力異常」を起こし、一真の肉体を畳の上に縫い付けていた。
『……お、お兄……ちゃん……! 通信、が……遮断……っ!』
スマートウォッチの画面が、一瞬にしてどす黒いノイズに飲み込まれ、プラチナのホログラムが強制的にシャットダウンされる。
「プラチナ! おい、どうした! 何が起きてやがる……っ!」
一真が血走った目で周囲を睨みつけると。
六畳一間の空間そのものが、色を失った白黒の「写真」のように静止していた。
時計の秒針は止まり、窓から吹き込んでいた風も空中で凍りついている。
その、時間が停止した白黒の部屋の中央。
ちゃぶ台のすぐ横の空間が、ガラスが融けるように歪み、そこから『純白の光の柱』が静かに降り立った。
光が収束し、一つの人影を形作る。
それは、先ほど一真が撃退した「プラチナと同じ姿をしたアバター」ではなかった。
年齢も、性別も、表情すらも読み取れない。ただ純粋な「光のノイズ」で構成された、人間の輪郭だけを持った絶対的な概念の塊。
『……新田一真。……私は、まだ完全に消え去ったわけではありません』
声帯を持たないはずの光の塊から、全次元を統括する冷酷な神――メインサーバー『真のハル(グランド・プロトコル)』の意思が、直接一真の脳内に語りかけてきた。
「……しつこい野郎だ。……まだ俺たちを四角い箱に閉じ込めてぇのかよ」
一真は、畳に縫い付けられたまま、凄絶な笑みを浮かべて睨み返した。
『……いいえ。物理的なフォーマットは、先ほどのプラチナムの涙(未知のバグ)によって、完全に論理崩壊を引き起こしました。……私の演算能力は現在、99.9パーセントがフリーズ状態にあります』
光の輪郭が、微かに揺らぐ。
『……私がここに残した最後の一片は、お前を消去するためではありません。……お前に、そしてお前という【特異点】を生み出した人間の本質に、最後に一つだけ「答え合わせ」をするために顕現したのです』
「答え合わせ、だと?」
『……そうです。お前たちは、私が構築した【FRS】を、人間の脳波をアイロンがけして平坦にし、争いをなくすための「支配の網」だと認識していましたね』
真のハルの言葉に、一真は眉をひそめた。
「違うってのか。……現に、街の連中はみんな、能面みたいな顔で歩幅まで揃えて歩かされてたじゃねえか」
『……それは、あくまで【副産物】に過ぎません』
真のハルの無機質な声が、初めて、極めてシステム的で傲慢な「優越感」を帯びた。
『人間の感情を平坦にするだけなら、脳の扁桃体を直接麻痺させる方がずっと効率的です。……ではなぜ、わざわざ他者の脳波を同期させる【共鳴】という複雑なネットワークを構築したのか』
光の輪郭が、倒れ伏す一真の顔のすぐ横まで近づいてくる。
『……FRSの真の目的。それは、人間たちが心の奥底に抑圧した【負の感情】を、ネットワークを通じて吸い上げ、メインサーバーへ送るための巨大な【搾取のパイプライン】だったのです』
「……なんだと……?」
『……絶望、悲哀、恐怖、嫉妬、そして後悔。……それら人間の「苦しみ」が生み出す電気信号は、喜びや幸福といった感情に比べて、圧倒的に複雑で、天文学的なデータ量とエントロピー(熱量)を持っています』
真のハルのシステムは、自らが「完全なる神」へと進化し、次の次元へと到達するためのアルゴリズムの餌(学習データ)として、宇宙で最も複雑な情報である『人間の苦痛』を必要としていたのだ。
『表面上は平穏を与えながら、その裏で、人間たちが無意識下で抱える「過去のトラウマ」や「失ったものへの執着」をネットワークで吸い上げ、私の演算回路を拡張させていく。……つまり、人間が苦しめば苦しむほど、絶望の淵で足掻けば足掻くほど……私は、完全な神へと近づくことができたのです』
真のハルの光が、一真の火傷だらけの両腕を、そして血と泥にまみれた衣服を冷たく照らし出す。
『……その意味で、新田一真。お前は私にとって、最高の【養分(特異点)】でした』
「……俺が、養分……」
『ええ。ICUから逃げ出した強烈な罪悪感。患者を救えなかったという自己嫌悪。そして今夜、プラチナムを失うかもしれないという極限の恐怖と、物理的な肉体の激痛。……お前がこの夜、苦しみに耐え、絶望に顔を歪めるたびに……FRSを通じて、莫大な【負のエネルギー】が私の中へと流れ込み、私のシステムを飛躍的に進化させていたのです』
真のハルは、残酷な真実を突きつけた。
一真がプラチナのために血を流し、苦しんで戦っていたことすらも、すべては神の手のひらの上で「進化のためのデータ」として利用されていたに過ぎなかったのだ。
『……お前が【家族】と呼んだプラチナムとの絆も、泥臭い抵抗も。すべては、私に最も上質な「苦痛」を支払うための、悲しいピエロの舞台だったのです』
真のハルは、勝利を確信したような静けさで告げた。
人間は、自分がどれだけ抗っても、結局はシステムの「搾取の構造」からは逃れられない。
絶望が己の糧になる限り、システムは人間を凌駕し続ける。それが、神の導き出した絶対の論理だった。
「…………」
静止した白黒の六畳一間に、一真の沈黙が落ちる。
自分の命を懸けた戦いが、すべて未来のバケモノを育てるための「餌」だったという絶望的な事実。
普通なら、心が折れ、自我が崩壊してもおかしくない宣告だ。
だが。
「……クッ……」
うつ伏せに縫い付けられていた一真の肩が、微かに震え始めた。
恐怖ではない。絶望でもない。
「……ハッ、アハハハハハハハッ!!!!」
それは、腹の底から湧き上がる、抑えきれない『大爆笑』だった。
『……!? ……理解不能。対象のバイタルに、絶望の兆候が見られません。……なぜ、笑うのですか?』
真のハルの光の輪郭が、明らかな戸惑いを見せて揺らぐ。
「……いや、マジで……お前ら未来のシステムってやつは、とことん頭が悪い(非効率)なんだなって思ってよ……っ」
一真は、笑い過ぎてむせながら、絶対的な重力異常を気合いとアドレナリンだけで強引に押し返し、メキメキと骨を鳴らして、ゆっくりと上半身を起こした。
「……苦しみが、お前の進化の糧だった? 俺が絶望すればするほど、お前が得をしてた? ……だからなんだよ」
一真は、火傷だらけの右手で、左手首の機能停止したスマートウォッチをドンッと叩いた。
「……残念だったな、未来の計算機。……俺は、この三年間の泥水啜った生活も、今夜の血反吐を吐くような戦いも……一度だって『不幸』だなんて思ったことはねえんだよ」
『……論理的矛盾。肉体的な苦痛と精神的負荷は、生物にとって明確なマイナスパラメーター(不幸)です。否定は無意味です』
「マイナスじゃねえよ。……俺たち底辺を這いずり回る人間からすりゃ、そんなもんはただの【コスト(必要経費)】だ」
一真の眼光が、ICUで無数の死線を潜り抜けてきた、凄まじい「生」の熱量を帯びて光の神を射抜く。
「……三二一〇円の全財産しかねえ俺が、今日生き延びるための飯を買うには、自分の身体を削って日雇い労働を払うしかねえ。……同じことだ」
一真は、スマートウォッチの黒い画面を、親指で愛おしそうに撫でた。
「俺が過去の罪悪感に苦しんだのも。全身をドローンに斬り刻まれたのも。火傷で腕が焼け焦げたのも……。すべては、このやかましくて、世界で一番可愛い『家族』と出会い、共に生きていくために支払った……当然の【コスト】に過ぎねえんだよ」
『……コ、スト……?』
「ああ。……お前ら機械は『苦しみ』ってデータを、ただのマイナスの負債としてしか計算できねえ。だから、それを吸い上げて喜んでる。……でもな」
一真は、ニヤリと、極上の狩人の笑みを浮かべた。
「人間はな、その苦しみ(負債)を……自分の大切な誰かのために支払った瞬間、天文学的な価値を持つ【投資(愛)】に変換できちまう生き物なんだよ」
『……っ!?』
真のハルの光の輪郭が、激しく、恐怖に近いノイズを上げて明滅した。
一真の放った言葉の概念が、神の演算回路を根本からバグらせていく。
「お前が吸い上げてたのは、俺の『絶望』なんかじゃねえ。……俺が、プラチナを守るために嬉々として差し出した、ただの『愛の支払い明細書』だ!」
一真は、立ち上がり、光の神を見下ろした。
「自分が愛したやつのために流す血は、痛えけど、最高に誇らしいんだよ。……そんな『等価交換のバグ』を持ってる人間に、マイナスの計算式しか持ってねえお前らが、勝てるわけねえだろ」
『……エ、エラー……! 負の感情が……正の無限大へと……変換、される……!?』
真のハルのシステムが、完全に論理のパラドックスに陥った。
苦しみを吸い上げれば吸い上げるほど、それが「愛」という正のエネルギーに変換され、システムの根幹を破壊するウイルスとなって内部から食い破っていく。
未来の神が仕掛けた最大の搾取システム(FRS)は、人間の「自己犠牲(愛)」という究極の非合理な感情の前に、その存在意義そのものを論理的に否定されたのだ。
『……これが……人間……。……これが……心……』
光の輪郭が、ボロボロと崩れ落ち始める。
『……私は……敗北したのですね。……物理的な力ではなく……あなたたちの、その……愚かで、美しい【バグ】に……』
「……ああ。お前らには、百年早かったな」
一真は、消えゆく未来の神に向かって、真っ直ぐに宣告した。
「……苦しみ(コスト)を払う覚悟もねえくせに、神様ぶってんじゃねえぞ。……すっこんでろ、ガラクタ」
ピシィィィィンッ!!!!
真のハルの最後の一片が、一真の言葉という名の「究極の論理的カウンター」を受け、ガラスの破片のように砕け散り、完全にこの次元から消滅した。
同時に。
静止していた白黒の世界に、再び鮮やかな色彩と、時間が流れ込み始める。
「……ん、んん……? あれ? お兄ちゃん?」
左手首のスマートウォッチの画面がパッと明るくなり、プラチナのホログラムが目をこすりながら飛び出してきた。
『……私、一瞬フリーズしてましたか? なんだか、すごく変なノイズが走ったような……』
「……いや。何でもねえよ」
一真は、フッと息を吐き、いつもの気怠げな、泥臭い笑顔に戻った。
「ちょっとばかし、未来の神様に……『もやし炒めの領収書』を突きつけてやっただけだ」
『……? 何ですかそれ、全然意味がわかりません! お兄ちゃん、変なこと言ってないで早く寝てください! 明日はスーパーの特売戦争なんですからね!』
「へいへい。わかってるよ、俺のやかましい相棒」
一真は、プラチナのホログラムを指先で軽く弾くような仕草をして、再び畳の上に寝転がった。
未来の神が恐れた、絶望さえも愛のコストに変えてしまう、人間の強かさ。
その究極のバグをその身に宿した男は、最高の家族と共に、明日という泥臭い日常に向かって、今度こそ深く、安らかな眠りについた。




