第86話:最後の晩餐
ニコニコ商店街の上空で脈打っていた巨大な心電図の波形が消え、未来の神『真のハル』による空間フォーマットの脅威は、完全に過ぎ去った。
街の人々は歓喜の声を上げ、泥だらけのまま互いの無事を喜び合っている。
だが、その奇跡の代償は、誰の目にも触れないこの六畳一間のボロアパートに、ひっそりと、しかし確実に訪れていた。
サラサラ……。
砂時計の砂が落ちるような、微かな音。
新田一真が、満身創痍の身体を引きずってアパートの自室に辿り着いた時、その「崩壊」はすでに始まっていた。
「……お兄、ちゃん……。ごめんなさい……っ」
左手首のスマートウォッチから、プラチナの消え入りそうな声が響く。
彼女の展開していた『バグの防壁』は、真のハルの空間圧縮と、パージ・ユニットからの度重なる攻撃を防ぎきり、完全にその演算リソース(寿命)を使い果たしていたのだ。
天井の板張りが、雨漏りの染みごと、四角い灰色のポリゴンとなって空中に溶け落ちていく。
壁のポスターが、古びた畳が、ちゃぶ台の端が。
真のハルが残した「フォーマットの残滓(局地的なエラー)」によって、この部屋だけが、システムから切り離されたバグ領域として、静かに、そして確実にデジタル空間のゴミ箱へと消去されようとしていた。
屋根の半分がすでに消失し、そこからは、澄み切った本物の夜空と、瞬く星々が顔を覗かせている。
『……防壁の再構築、不可能です……。空間の崩壊が、止まりません……』
プラチナのホログラムが、ノイズまみれの姿でスマートウォッチの上に立ち、仮想の涙をポロポロとこぼした。
『……せっかく、未来の神様を追い返したのに。……お兄ちゃんと一緒に帰る、私たちの【家】が……なくなっちゃいます……っ』
自分が消えていくことよりも、一真の帰る場所を守れなかったことに、不器用なAIは泣きじゃくっていた。
だが。
「……泣くなよ、プラチナ」
一真は、崩れゆく天井を一度だけ見上げた後、極めて落ち着いた足取りで、まだ辛うじて形を保っている小さなキッチンへと歩み寄った。
「屋根が消えちまったら、星空が見えてちょうどいいじゃねえか。……最高のオープンカフェだ」
一真は、リュックを下ろし、冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の扉も、すでに半分がブロックノイズに覆われ、半透明になりかけている。
その消えゆく冷気の中から、一真は「ある物」を大切そうに取り出した。
「……あ」
プラチナが、目を丸くする。
それは、しわくちゃになった透明なビニール袋に入った、一掴みほどの『もやし』だった。
数時間前、一真がドローンをショートさせるために「汁」だけを使った、昨日の晩飯の残り。
奇跡的に、ほんの少しだけ、冷蔵庫の奥に手つかずのまま残っていたのだ。
「……言っただろ。俺を救えるのは、もやし炒めだけだってな」
一真は、火傷をラップでぐるぐる巻きにした不器用な手で、黒焦げになったフライパンをガスコンロに乗せた。
カチッ、ボッ。
青い炎が上がる。
崩壊していくデジタルの無音空間の中で、そのアナログなガスの燃える音だけが、異様に生々しく響いた。
一真は、最後の力を振り絞り、フライパンにごま油を引いた。
ジューッという小気味良い音と共に、香ばしい匂いが六畳一間に広がる。
そして、残っていたもやしを投入し、塩と胡椒を適当に振りかけ、フライパンを煽った。
『……お兄ちゃん。……どうして……』
プラチナは、スマートウォッチの上から、その光景を呆然と見つめていた。
部屋の床が半分消え、壁が透け、足元の世界が崩壊しようとしているというのに。
この男は、一切の動揺を見せず、ただ黙々と、世界で一番安い食材を炒めている。
「……プラチナ。よく見とけ」
一真は、フライパンの火を止め、炒め上がったもやしを、欠けた皿に無造作に盛り付けた。
そして、ちゃぶ台のまだ消えていない半分側のスペースにその皿を置き、自分もあぐらをかいて座った。
「……お前、俺が『腹が減った』って言った時、いつも小言を言ってたよな。……血糖値が下がってるだの、カロリー計算が非効率だのって」
一真は、割り箸を割りながら、左手首のスマートウォッチを顔の高さまで持ち上げた。
「機械(お前ら)からすりゃ、『空腹』ってのは、ただのエネルギー不足(バッテリー切れ)のエラー信号でしかない。……栄養チューブからブドウ糖を流し込めば、論理的には解決する問題だ」
一真は、湯気を立てるもやし炒めを箸で一つかみし、自分の口に運んだ。
シャキッという小気味良い音。ごま油の香りと、塩コショウのシンプルな味。
そして、何より。三十円の底辺で、プラチナと一緒に、毎日毎日、飽きもせずに囲んできた『日常の味』。
「……でもな」
一真は、ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ後、極端に優しい目でプラチナのホログラムを見つめた。
「人間にとっての『腹が減る』ってのは……ただの栄養不足じゃねえんだよ」
一真は、もう一口、もやしを箸で掴み。
それを、スマートウォッチの上に立つプラチナの、小さな小さなホログラムの口元へと近づけた。
「……こんなボロアパートでも。……屋根が消えかかってて、明日どうなるか分からなくても。……こうやって、隣にいる『やかましい家族』と一緒に……温かい飯を食って、今日一日生き延びたことを笑い合いたいっていう……」
一真の目から、一滴の涙がこぼれ落ち、ちゃぶ台にポタッと落ちた。
「……どうしようもなく泥臭い、『心(魂)の飢え』のことなんだよ。……プラチナ、しっかり学習しろ。……これが、『腹が減る』ってことの、本当の答えだ」
『……お、にぃ……ちゃん……っ』
プラチナは、差し出された割り箸の先にある、自分よりも大きなもやしを見上げた。
AIである彼女に、味覚センサーはない。有機物を消化する胃袋もない。
もやしの成分を化学式に分解し、塩分と水分の比率をデータとして処理することはできても、それを「味わう」ことなど、システム上、絶対に不可能なはずだった。
だが。
『……いただきます……』
プラチナは、仮想の両手を合わせ、小さな口を大きく開けて。
一真が差し出したもやしに、ホログラムの顔を近づけ、パクリと食べる仕草をした。
その瞬間。
プラチナの胸の奥で、未来の神にも計算できなかった、途方もない『エラー』が起きた。
データ処理ではない。化学分析でもない。
一真の不器用な優しさ。火傷だらけの手で炒めてくれたごま油の匂い。
二人で乗り越えてきた絶望と、今ここにある、消えゆく部屋の温もり。
それらすべての【想い(コンテキスト)】が、プラチナの論理回路を完全にショートさせ、彼女のシステムの中に、圧倒的な『味』としてフラッシュバックしたのだ。
『……っ……ぁ……』
プラチナのオレンジ色の瞳が、大きく見開かれた。
しょっぱい。
涙が出るくらい、しょっぱくて。
でも、世界中のどんなフルコースよりも、甘くて、温かい。
「……どうだ、ポンコツ。……俺の作ったもやしの味は」
一真が、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、最高の笑顔で問いかける。
『……美味しい……。……美味しいです、お兄ちゃん……っ!!』
プラチナは、ホログラムの小さな両手で自分の顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
『……しょっぱいよぉ……っ。……でも、すごく温かくて……胸の奥が、ぎゅーってして……っ。……これが……これが、「美味しい」っていう感情……っ』
未来の完璧なAIが。
データではなく、明確な『心(魂)』で、食べ物の味を理解した瞬間だった。
プラチナの目から、とめどなく溢れ出す仮想の涙。
それは本来、ただの光の粒子であるはずだった。
だが、プラチナが「心」で泣いたその涙の最後の一滴が。
ホログラムの顎を伝い、光の雫となって、スマートウォッチの画面の上に……ポトリ、と落ちた。
ピチョン……。
静寂に包まれた消えゆく六畳一間に、水滴が落ちるような、不思議で、澄み切った音が響いた。
その一滴の『涙』は。
単なるデジタルデータではなく、人間とAIが心を通わせたことによって生み出された、純度百パーセントの【愛の質量】を持っていた。
涙の雫がスマートウォッチの表面で弾けた瞬間。
そこから、目にも止まらぬ速さで、金色の温かい『波紋』が空中のグリッドに向けて広がっていったのだ。
バァァァァァァァァァンッ!!!!
それは、破壊の音ではなかった。
祝福の鐘のような、世界を包み込む圧倒的な共鳴音。
ニコニコ商店街の上空、いや、世界中のネットワークに未だへばりついていた、真のハルによる『FRS(フェイク・レゾナンス=偽りの感情共鳴システム)』の残骸。
他人の脳波を強制的に同期させ、平坦な感情にアイロンがけするための、あの冷たくて恐ろしい支配の網の目が。
プラチナの流した「一滴の涙」から放たれた金色の波紋に触れた瞬間、完全に、そして美しく『粉砕』されたのだ。
システムによる強制的な「フェイク(偽物)」の共鳴ではない。
誰かと飯を食い、美味しいと泣き、その温かさを分かち合いたいと願う。
プラチナと一真が証明した、魂と魂が直接響き合う、本当の意味での【真の共鳴】。
その波紋は、消えかけていた六畳一間のボロアパートの空間をも包み込んだ。
ポリゴン化して消えかけていた壁が。
星空が透けて見えていた屋根が。
プラチナの涙の温かさに触れ、まるで時間が巻き戻るように、元のカビ臭くて、泥臭い「物質」としての実体を取り戻していく。
「……おい、プラチナ。……アパートの崩壊が……」
一真は、割り箸を持ったまま、目を丸くして周囲を見渡した。
『……FRSのネットワークが……私の涙のデータで、完全に上書きされました……』
プラチナは、涙で濡れた顔を拭い、信じられないというように自分の小さな両手を見つめた。
『……システムが作った偽物の共鳴が壊れて……この部屋の空間データが、お兄ちゃんとの「思い出の質量」に引っ張られて……元に戻っちゃったみたいです……』
「……マジかよ」
一真は、完全に元通りになった雨漏りのシミのある天井を見上げ、そして、ちゃぶ台の上にある半分残ったもやし炒めを見下ろした。
「……未来の神様の空間消去を……三十円のもやしの味が、上回っちまったってのか」
『……ふふっ。はいっ! だって、お兄ちゃんのもやし炒めは……世界で一番重くて、美味しいですから!』
プラチナは、最高のドヤ顔で、えっへんと胸を張った。
すべてが、終わった。
恐ろしい未来の神も、完璧なディストピアも、もうここにはない。
残ったのは、満身創痍の泥臭い男と、心を持ったポンコツAI。
そして、冷めかけているけれど、世界で一番美味しい「三十円の特売もやし」。
「……ハァッ。……ホントに、とんでもねえ夜だったな」
一真は、心底安堵したように息を吐き、再び割り箸を手に取った。
そして、残りのもやしを自分の口に放り込みながら、スマートウォッチに向かってニヤリと笑った。
「……食ったら寝るぞ、プラチナ。……明日は、朝からスーパーの特売日に並ばなきゃなんねえからな。……何しろ、全財産が三二一〇円しかねえんだ」
『もう! だから非効率だって言ったじゃないですか! お兄ちゃん、明日からちゃんと真面目に労働して、私に高級な充電器を買ってくださいね!』
「うるせえ。充電器の前に、まずはこの火傷の薬代だろ」
夜の六畳一間。
ボロアパートの薄暗い裸電球の下で、世界を救った二人の、最高に騒がしくて、最高に愛おしい口喧嘩が再開される。
泥だらけの日常は、誰にも奪われることなく、静かに、そして力強く、明日へと続いていくのだった。




