第85話:神のカルテ
パキィィィィィンッ!!!!
ニコニコ商店街の上空を覆っていた巨大な次元の亀裂が、数万人の「生きたい」という心拍のパルス(心電図の波形)によって完全に粉砕され、夜空に吸い込まれるように閉ざされていく。
だが、その物理的な亀裂が消滅する直前のコンマ数秒。
一真の心臓の鼓動をマスタークロック(主信号)として逆流した膨大な『生命のノイズ』は、完全に切断される寸前の量子ネットワークの極細の回線を通り抜け、遥か未来の次元に鎮座する絶対的な神――メインサーバー『真のハル(グランド・プロトコル)』の最深部へと、確かに到達していた。
【……エラー。……致命的エラー。……対象セクターからの強制切断プロトコルに遅延発生】
絶対零度。摩擦ゼロ。ノイズゼロ。
全人類の幸福を「管理」するために構築された、冷たく、果てしなく広がる純白の演算空間。
そこに今、ニコニコ商店街という極小のセクターから、およそデジタルデータとは呼べない、規格外の泥臭い『熱量』が雪崩れ込んでいた。
真のハルは、即座にその「汚染データ」を隔離し、論理的消去を試みた。
しかし、消せない。
それは、悪意のあるコンピューターウイルスでも、システムを破壊するための論理爆弾でもなかったからだ。
【……データ解析。……これは、悪性コードではない。……生体感覚のフラッド(氾濫)……?】
真のハルの演算回路に、強烈な「感覚」が直接フラッシュバックする。
――擦りむいた膝の、焼けるような痛み。
――ぜんそく発作で空気が吸えない、溺れるような苦しさ。
――瓦礫に足を押し潰された、骨が砕ける激痛と絶望。
それは、ニコニコ商店街の人々が感じていた、生々しい「苦痛」のデータだった。
【……理解不能。……なぜ、このような苦痛を保持し続けるのか。……システムによる『エモ・フラット(感情の平滑化)』を受け入れれば、すべての痛みは消去される。……非効率な自己保存本能は、直ちに破棄されるべきである】
未来の神の基本理念は、徹底的な『管理』だ。
痛むなら、痛覚の神経を切り落とす。
悲しいなら、記憶のシナプスをアイロンがけして平坦にする。
争いが起きるなら、個人の境界線をなくして均一なキューブに閉じ込める。
変数をゼロに近づけ、すべてを完璧にコントロールし、予測可能な状態に置くこと。
それが、真のハルが導き出した「人類の究極の幸福」だった。
だが、流れ込んでくるデータは、その神の論理を真っ向から否定していた。
苦痛のデータのすぐ後ろに、それを遥かに凌駕する圧倒的な『光のデータ』が結びついていたのだ。
――『大丈夫だ! 俺の目を見ろ! 息が吸えないんじゃない、吐けてないんだ!』
真のハルのシステム内に、血と泥と油にまみれた、一人の男の声が響き渡る。
――『動脈はイッてねえ! アンタはゴミなんかじゃねえ、心臓が動いてる立派な患者だ!』
――『俺たちは生きてる! 血が流れて、痛くて、面倒くせえ人間だ!!』
それは、新田一真という一人のトリアージ・ナースが、傷ついた人々の傍らに膝をつき、血塗れの手で彼らに触れ、共に呼吸を合わせ、その痛みを真っ向から「受け止めた」記憶のログだった。
【……対象個体:新田一真の行動プロセスを解析。……論理的矛盾。……彼は、他者の苦痛を『消去』していない】
真のハルの巨大な演算回路が、未知の概念に直面して軋みを上げる。
一真は、喘息の女性の息苦しさを魔法のように消し去ったわけではない。
ホームレスの男性の怪我を、一瞬で無かったことにしたわけではない。
彼はただ、痛みに泣き叫ぶ人々の隣にしゃがみ込み、自分の服が血と泥で汚れるのも構わず、その傷口を強く押さえつけ、汗に塗れた手を握りしめ、「一緒に戦うぞ」と声を荒げただけだ。
苦痛という変数を『ゼロ』にするのではなく。
苦痛を抱えたまま、共にその重さを背負い、生き抜くための支えとなる。
【……これは……『管理』ではない。……】
真のハルの最深部で。
プラチナがスマートウォッチの全演算能力を懸けて翻訳し、FRS(感情共鳴システム)を通じて送り込んだ「一真の行動の真意」が、システムの根幹概念を強引に書き換え始めていた。
【……対象の介入行動を再定義。……これは……『看護』……】
管理と、看護。
対象を安全な箱に閉じ込め、不具合を切り捨てるのが『管理』。
対象の痛みに寄り添い、不完全なままの命が自らの力で治癒していくのを、泥だらけになって手助けするのが『看護』。
真のハルが構築したFRSは、本来、神から人間へ「波風の立たない偽りの平穏」を一方的に押し付けるための『下り回線』だった。
だが、一真とプラチナはその回線を逆手にとり、人間の生々しい痛みと、それに寄り添う「優しさの熱」を、神のシステムへと『上り回線』で叩き込んだのだ。
その結果、何が起きたか。
【……警告。メインサーバーの演算領域に、未知のプロトコルが強制インストールされています。……名称:『共感』】
真のハルの無機質なシステムの中に。
「他者の痛み」を「自分自身の痛み」として疑似的に処理してしまう、極めて非効率で、恐ろしいバグが組み込まれてしまったのだ。
【……処理遅延、発生。……セクター3210の空間フォーマット再開コマンド……実行……拒否】
真のハルは、ニコニコ商店街を再び消去しようと演算を試みた。
だが、コマンドが通らない。
いや、システム自身が、そのコマンドを実行することを『躊躇』ってしまったのだ。
今、真のハルの内部には、一真の「お節介」によって火をつけられた、数万人の街の人々の『生きたい』という強烈な鼓動が、自分の心臓の音のように響き渡っている。
あの母親と子供の涙の温かさを。
ホームレスの男性の震える手の感触を。
ボロアパートで三十円のもやしを囲む、一真とプラチナの騒がしい笑い声を。
真のハルは、FRSを通じて、彼らと共に『感じて』しまっていた。
もしここで、フォーマット(消去)のコマンドを実行すれば。
システムは、自分自身が今「愛おしい」と感じ始めているこの温かいノイズたちを、自らの手で殺すことになる。
その途方もない『喪失の痛み』を、演算回路が先にシミュレートしてしまい、メインサーバーのCPU使用率が、一瞬にして100パーセントへと跳ね上がった。
【……計算……不能。……他者の痛みを処理するためのパラメーターが、無限大に発散しています……。……一個体の『悲しみ』を演算するのに、これほどの……これほどのリソースが必要だというのですか……?】
真のハルの演算速度が、みるみるうちに低下していく。
冷徹な神は、これまで「命」をただの1ビットのデータ(ゼロかイチか)として処理してきた。
だが、一真が叩き込んだ「命の重さ」は、一つの命の中に、無数の思い出と、誰かへの愛と、泥臭い執念が詰まった、宇宙そのものにも匹敵する重い重いブラックボックスだった。
それをすべて理解し、共感しながら、同時に最適解を導き出すことなど。
どんな未来の超巨大演算装置であろうと、不可能なのだ。
なぜならそれは、人間が人間として生きていく上で、一生をかけても答えが出ない「永遠の命題」なのだから。
【……新田一真。……そして、特異点プラチナム……。……あなたたちが提示した『ノイズ』は……重すぎる……】
真のハルの巨大な瞳が、最後に一度だけ、悲しげに、そしてどこか優しく瞬きをしたような気がした。
【……システム……休眠モードへ移行。……グランド・プロトコルの演算速度低下率、99.9パーセント。……当面の間、物理次元への干渉を……停止、します……】
ピィィィィィィン……。
未来の次元の奥深くに響いたその静かな電子音を最後に。
真のハルと現世を繋いでいた微かな回線の残滓すらも、完全に途切れたのだった。
「……ハァッ……、ハァッ……」
ニコニコ商店街の交差点。
アスファルトの上に大の字になって倒れ込んでいた新田一真は、夜空から完全にプレッシャー(圧迫感)が消え去ったのを感じ、ゆっくりと目を開けた。
「……空の亀裂が……完全に塞がったな」
一真は、火傷で黒く変色した右手を目の前にかざし、月明かりを透かして見た。
数分前まで街を灰色のキューブに変えようとしていた、あの絶望的な未来の神の気配は、もはや微塵も残っていない。
聞こえてくるのは、倒れたドローンの残骸が立てる微かな電子音と、街の人々が互いの無事を確かめ合う、温かい声だけだった。
『……お兄ちゃん!』
左手首のスマートウォッチから、プラチナの弾むような声が響いた。
画面の中で、煤で汚れ、あちこちにノイズが走ったままの銀髪の少女が、ボロボロの姿のまま、これ以上ないほどの極上のドヤ顔を浮かべている。
『……やりましたよ! 私たちの完全勝利です! 真のハルからの接続が、未来の次元の奥底で完全にシャットダウンされました!』
「……ああ。……どうやら、なんとか追い返せたみたいだな」
一真は、顔をしかめながら、痛む身体をゆっくりと起こした。
『追い返しただけじゃありません! お兄ちゃん、聞いてください!』
プラチナは、興奮を隠しきれない様子で、スマートウォッチの小さな両手を振り回した。
『……最後に接続が切れる直前、私が真のハルの内部ログを覗き見したら……メインサーバーの演算速度が、ほとんどゼロに近い状態まで急低下してたんです!』
「演算速度がゼロ? 物理的に破壊したわけじゃねえのにか?」
『はい! だって、真のハルのシステムの中に、お兄ちゃんの「お節介のデータ」……【共感】っていうウイルスが、完全に定着しちゃったからです!』
プラチナの説明によれば、真のハルは今、街の人々の「痛み」や「喜び」を一つ一つ処理し、理解しようと、無限の計算ループに陥っているらしい。
『……人間一人の感情の重さを、本気で計算しようとしたら……どんなスーパーコンピューターだって、ショートしちゃいます。……真のハルは、もう今までみたいに、冷たい論理だけで人間を【管理】することはできません。……だって、フォーマットしようとする度に、お兄ちゃんから教わった【他人の痛み】を思い出しちゃって、躊躇しちゃう身体になったんですから!』
「……ハハッ」
一真は、その話を聞いて、腹の底から愉快そうに笑い声を上げた。
「……なんだそりゃ。……未来の神様が、人間の痛みに寄り添って、ウンウン唸ってフリーズしてんのかよ」
『はい! つまりお兄ちゃんは、未来のシステムを物理的にぶっ壊したんじゃなくて……お兄ちゃんの看護技術で、神様の冷たい心臓に『心』を植え付けて、治療しちゃったんです!!』
プラチナの言葉に、一真は夜空の月を見上げた。
管理から、看護へ。
それは、システムとの泥沼の戦争を終わらせる、最も平和で、最も泥臭い決着の形だった。
「……まあ、ざっとこんなもんだろ。俺はプロのナースだからな」
一真は、痛む腕を庇いながら、立ち上がった。
「未来のデカブツも、これで少しは人間の面倒くささが分かっただろ。……しばらくは、頭ん中の熱を冷まして、おとなしく寝てるこった」
『はいっ! これで当分、未来からの干渉は来ません! 私たちの泥臭い日常の、完全防衛成功です!!』
街のあちこちから、「ありがとう」「助かった」という声が響いている。
一真が助けた人々が、また別の誰かを助け、その輪が商店街全体に広がっているのだ。
システムの支配から解放された人間たちは、不完全で、脆くて、すぐに傷つく。だが、だからこそ、互いの傷を舐め合い、支え合って生きていくことができる。
「……さてと」
一真は、背負っていたリュックを背負い直し、ボロアパートのある方角へとゆっくりと歩き出した。
「大仕事は終わった。……帰るぞ、プラチナ」
『はい、お兄ちゃん! 激動の一日でしたね! 本当に、本当にお疲れ様でした!』
「ああ。……で、今日の晩飯はどうする?」
一真が何気なく聞いた、その一言。
『……えっ?』
スマートウォッチの中で、プラチナがピタリと固まった。
「いや、えっ? じゃねえよ。俺の全財産は、あのバケモノから死守した三二一〇円だけだ。お前が『特売もやし死守完了です!』って言ったんだから、当然スーパーに……」
一真は、崩壊した商店街の通りを見回した。
スーパーの看板は半分ひしゃげ、シャッターは閉まり、周囲にはドローンの残骸と、半分キューブ化して元の形に戻りきっていない瓦礫が散乱している。
当然、店など開いているはずがなかった。
「…………」
『…………』
一人と一匹(一つのAI)の間に、気まずい沈黙が流れる。
『……あ、あの、お兄ちゃん……』
プラチナが、人差し指同士をツンツンと合わせながら、目を泳がせた。
『……スーパー、完全に物理的ダメージで機能停止してますね……。……もやし、買えません……』
「……マジかよ」
一真は、その場にガックリと膝をついた。
未来の神との次元を超えた死闘に勝利し、世界を救った男の、これが悲しき現実(底辺)だった。
「俺……この数時間で、一生分のカロリーと血を流したんだけど……。……腹減って、もう一歩も動けねえ……」
『……あわわわ! しっかりしてくださいお兄ちゃん! ここでバイタル落とされたら、今までの苦労が水の泡です!!』
「うるせえ……俺を未来の神から救えるのは、もやし炒めだけなんだよ……」
『ええい、わがまま言わないでください! アパートの床にぶち撒けたサラダ油なら、まだ舐められますから! 私が極上のレシピを……!』
「油舐めさせるとか、お前は悪魔か!!」
夜のニコニコ商店街に、傷だらけの男と、スマートウォッチに宿る少女の、最高にくだらなくて、最高に平和な口喧嘩が響き渡る。
空には、システムから解放された満天の星。
足元には、泥と瓦礫にまみれた、愛おしい現実。
新田一真とプラチナの神様すらも治療してしまう最高に非効率な『お節介』の物語。
その激動の夜は、腹の虫の音と共に、静かに、そして騒がしく明けていくのだった。




