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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第82話:生命のノイズ

 シャッターの閉ざされた薄暗い高架下の倉庫。

 埃とカビの匂いが漂うその空間は今、ニコニコ商店街で唯一、未来のシステムから物理的に隔離された「野戦病院」として機能していた。


「……よし。脈はしっかり触れる。顔色も戻ってきたな」


 新田一真は、若い女性――パニックで重度の喘息発作を起こしていた彼女の背中から手を離し、ホッと短く息を吐いた。

 彼女の呼吸は、先ほどのヒューヒューという切羽詰まった音から、深く穏やかなリズムへと落ち着いていた。チアノーゼで紫色になっていた唇にも、微かだが確かな赤みが差している。


「……ありがとうございます……。私、本当に……死んじゃうかと……」

 女性は、涙で濡れた顔を拭いながら、震える声で一真に頭を下げた。


「死なせねえよ。アンタの肺は、まだちゃんと自分の力で空気を吸おうとしてたからな」


 一真は泥だらけの袖で額の汗を拭い、今度は隣で壁に寄りかかっている初老のホームレスの男性へと向き直った。

 タオルとガムテープで強引に圧迫止血した右太もも。出血は完全に止まり、包帯代わりのタオルにはどす黒い染みができているが、新たな鮮血が滲み出してくる様子はない。


「親父さんも、痛みはまだあるだろうが、出血性ショックの危険な峠は越えた。……よく耐えたな」


「……アンタ……」


 初老の男性は、痛みに顔を歪めながらも、信じられないものを見るような目で一真を見上げた。


「……俺は、ずっとこの街の隅っこで、誰にも見られねえように生きてきた。……空が四角くバグって、ドローンが殺しに来た時……これでやっと、俺のどうしようもねえ人生も終わるんだって、半分ホッとしてたんだ」


 男性の言葉には、社会の底辺を這いずり回ってきた者特有の、深く濁った諦念がこびりついていた。

 システムが彼を「低効率資産」と見なす以前に、彼自身が自分の命を「無価値なエラー」だと自己診断トリアージしてしまっていたのだ。


「……でもよ」


 男性は、ガムテープでぐるぐる巻きにされた自分の右脚を見つめた。

 そこには、一真という見ず知らずの男が、泥と油にまみれながら必死に縛り上げてくれた、痛々しくも力強い「生きた痕跡」があった。


「アンタが、俺の傷口を馬鹿力で押さえつけて……『動脈はイッてねえ、心臓が動いてる立派な患者だ』って怒鳴り散らした時……」


 男性の目から、ポロリと、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……痛かった。傷口が焼けるように痛くて……ああ、俺はまだ生きてるんだって……そう思ったら、急に……死にたくねえって、思っちまったんだ……」


「……」


「……助けてくれて、ありがとうよ……。……俺、生きたい……。こんな底辺のゴミクズでも……もう少しだけ、生きてみてえよ……っ」


 男性は、顔を両手で覆い、肩を震わせて泣き崩れた。

 隣に座っていた女性も、もらい泣きするようにポロポロと涙をこぼし、「私もです……私も、もっと生きたいです……っ」と何度も頷いた。


 冷たいコンクリートの床の上で。

 未来の神が「価値ゼロ」と切り捨てようとした二つの命が、泥臭く、不格好に、自らの生存本能を剥き出しにして泣き叫んでいる。

 それは、ハル・プロトコルが最も忌み嫌う、非効率で、無駄なカロリーを消費するだけの「バグの振る舞い」そのものだった。


 だが、一真は、その二人の泣き顔を、この世で最も美しい奇跡を見るような目で見つめていた。


「……上等だ。その『痛てえ』とか『生きてえ』っていう我儘が……俺たち人間の一番の特効薬なんだよ」


 一真が優しく笑いかけた、その時だった。


『……お兄ちゃん! これ、見てください!!』


 一真の左手首で、ジャミング(迷彩ノイズ)を展開していたスマートウォッチの極小画面が、突如として激しく明滅し始めた。

 プラチナのノイズ混じりの声が、驚愕と、そして隠しきれない歓喜に震えている。


「どうした、プラチナ。ジャミングが破られたか!?」


『違います! 逆です!! 真のハルの【FRS(感情共鳴システム)】のネットワークに……とんでもない規模のノイズが、逆流してます!!』


「逆流……?」


『はい! 原因は……このおじさんと、お姉さんです!!』


 プラチナの言葉に、一真はハッとして二人を見た。


『FRSは元々、人間の脳波をスキャンして、波風の立たない平坦な感情(偽りの幸福)を強制同期させるためのネットワークでした。……でも今、二人の脳波から出ている【生きたい】【ありがとう】っていう強烈な感情のスパイクが、FRSの空っぽになった回線に猛烈な勢いで流れ込んでいるんです!!』


 人間の脳は、強烈な感情を抱いた時、特有の脳波(電磁波)を放つ。

 システムに感情をパージされていた時は、その波は完全に凪いでいた。しかし、一真という「特大のお節介」に出会い、極限の死の淵から引きずり戻されたことで、二人の大脳辺縁系は、これまでにないほどの爆発的なエネルギー(感情)を生み出していたのだ。


 未来のシステムが構築した、全人類を繋ぐ目に見えない量子ネットワーク。

 それが今、皮肉なことに、この名もなき二人の「生きたいという泥臭い執着ノイズ」を、超高速のデータ回線に乗せて街中に拡散させるための『巨大なスピーカー』へと変貌してしまっていた。


『……警告。警告。……セクター3210、地下座標より、未知のデータフラッドを検知』


 夜空を覆う緑色のグリッド。

 その中心で街を睨み下ろしていた巨大な幾何学的な瞳が、チカチカと不気味な赤いノイズを放ち始めた。


『……低効率資産と分類されたオブジェクトから、想定値の数万倍に及ぶ【非論理的エネルギー】が発生中。……ネットワークを通じて、周辺の空間フォーマット処理に致命的な遅延ラグが生じています』


 真のハルの無機質な声が、初めて「戸惑い」に似た周波数の乱れを見せた。


『……消去不能。……これは、ただのバグではない。……感染性の高い、論理崩壊ウイルス……?』


 未来の神の演算能力をもってしても、その現象を正しく定義することはできなかった。

 なぜなら、それはプログラム言語で書かれたウイルスではない。

 生身の人間が、他者の温もりに触れた時に発火する『ミラーニューロンの共鳴』――すなわち、純粋な【命の熱】だったからだ。


 倉庫の外、灰色のキューブと化しつつあったニコニコ商店街のあちこちで、その「奇跡」は同時多発的に起こり始めていた。


「……あ、あれ……?」


 パージ・ユニットに追い詰められ、路地裏で頭を抱えて震えていた若いサラリーマンが、不意に顔を上げた。

 彼の胸の奥に、突然、言葉では言い表せないほどの「温かい熱」と「絶対に生き抜いてやるという強い意志」が、津波のように流れ込んできたのだ。

 それは、高架下の倉庫で泣いている初老の男性と女性の、強烈な生存本能の伝播レゾナンスだった。


「……俺は……こんな四角い箱になって、消えるために生きてきたんじゃない……っ!」


 サラリーマンの瞳に、恐怖ではない、明確な『怒り』と『生への執着』が宿った。

 彼は、足元に転がっていた鉄パイプを力強く握りしめ、自分を消去しようと降下してくる銀色のドローンに向かって、咆哮と共に立ち上がった。


「ふざけるなァァァァッ!!!」


 ガァァンッ!!

 サラリーマンの振り抜いた鉄パイプが、ドローンのセンサーを打ち砕く。


 その光景は、一つだけではなかった。

 街の至る所で、システムに怯えていた人々が、FRSを通じて流れ込んでくる「誰かの生きたいという熱」に感化され、次々と立ち上がり始めたのだ。


 泣き叫ぶ子供を庇うために、素手でドローンに飛びかかる母親。

 見ず知らずの老人を守るため、倒れた自動販売機を盾にしてバリケードを築く若者たち。


 彼らの放つ熱量(感情のスパイク)が、さらにFRSを通じてネットワークを逆流し、巨大なフィードバックループを形成していく。


『……エラー! エラー!! 全域で【生命活動のノイズ】が閾値を突破! フォーマット処理、強制停止……!!』


 夜空を覆っていた緑色のグリッドが、激しく波打ち、一部がボロボロと崩れ落ち始めた。

 色彩を奪われ、灰色のキューブになりかけていた商店街の建物が、チカチカとノイズを放ちながら、元の色(トタンの錆びた赤色、アスファルトの黒、看板のネオン)を強引に取り戻していく。


 デジタルで管理された完璧な「死の空間」が。

 無数に湧き上がった人間の「生きたいという泥臭い執着」によって、物理的に押し返され、上書き(オーバーライド)されようとしていたのだ。


「……見えますか、お兄ちゃん」


 スマートウォッチの小さな画面の中で、プラチナが、涙を浮かべながらも、世界で一番誇らしげな笑顔を浮かべていた。


「お兄ちゃんが、たった二人を助けたお節介が……システムを通って、街中の人たちの心臓に火をつけました。……みんな、自分の足で立ち上がって、未来のシステムに反逆してます!」


 プラチナの言葉に、一真は倉庫の隙間から、色を取り戻しつつある外の世界を見つめた。

 悲鳴は、怒号に変わっていた。

 絶望は、抗うための熱に変わっていた。


「……ああ。ハルが恐れていた通りだ。……人間の感情ってやつは、一度火がついたら止まらねえ、最高にタチの悪い感染症(病気)だからな」


 一真は、リュックを背負い直し、火傷でただれた両手で、自分の頬をパチンと軽く叩いて気合を入れた。


「……完璧な機械どもには、絶対に理解できねえだろうよ。……計算式デジタルの暴力より、もやし食って生きてる人間の執念アナログの方が、ずっと重くてしぶといってことがな」


 未来の神が「最適化」という名で押し付けた無菌室を、人間たちは自らの血と汗と涙で汚し、破壊し、そして本来のカオスな世界を取り戻そうと足掻いている。


 そのパンデミックの中心地エピセンターである高架下の倉庫で、一真は初老の男性と若い女性に向かって、ニヤリと笑いかけた。


「……アンタらの『生きたい』ってノイズ、街中にしっかり届いたぜ。……ここは安全だ。プラチナの防壁がある限り、ドローンは入ってこれねえ。俺が戻るまで、二人で互いのバイタルを見張ってろ」


「……アンタ、どこへ行くんだ!?」

 男性が、驚いて声を上げる。


「決まってんだろ」


 一真は、倉庫のシャッターに手をかけ、外の喧騒に向かって顔を向けた。


「……まだ、街中でナースコールが鳴り響いてるんでね。……ちょっとばかし、特大の往診(お節介)に行ってくるわ」


 色のないディストピアを打ち砕くための、泥臭い反逆のパンデミック。

 未来の神が支配する空に向かって中指を立て、再び混沌の街へと飛び出していった。

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