第81話:規格外のトリアージ
油と泥、そしてドローンの焼け焦げた異臭が充満する六畳一間。
新田一真は、床に転がったパージ・ユニットの残骸を一瞥した後、キッチンの水道の蛇口を捻った。
細々と流れ出る水で、ドローンの高圧電流を浴びて赤黒く爛れた両腕の火傷を冷やす。痛覚が麻痺し、ジンジンという重い熱だけが腕に張り付いていた。一真は引き出しから清潔な食品用のラップフィルムを取り出し、ワセリンをたっぷりと塗って火傷の表面を覆い、その上からタオルで包んでビニールテープで固定した。
火傷の乾燥を防ぎ、痛みを和らげつつ自己治癒力を高める、限られた物資で行う即席の湿潤療法(ラップ療法)だ。
「……ハァッ……。応急処置にしちゃ、上出来だろ」
一真が痛みに顔を歪めながら息を吐くと、左手首のスマートウォッチから、プラチナの心配そうな声が響いた。
『……お兄ちゃん。痛覚の遮断は危険です。アドレナリンが切れたら、ショック状態に陥る可能性があります。……お願いですから、今は少しでも身体を休めてください』
「休んでる暇なんか、ねえよ」
一真は、ラップで巻かれた腕を動かし、窓の隙間から外の世界を覗き込んだ。
夜空を覆う緑色のグリッドと、未来の神『真のハル』の巨大な瞳。
商店街は、色彩を失った灰色のキューブの海と化している。だが、システムによる「空間ごとのフォーマット」は、一真がフライパンで弾き返したことによる物理的エラーの連鎖で、一時的に停滞していた。
しかし、真のハルは決して手を休めてはいなかった。
『……対象セクター内のスキャンを継続。……歩行不能者、重度の疾患を抱える個体、および社会的生産性が著しく低い【低効率資産】を多数検知』
空から、鼓膜ではなく脳髄に直接響く、無機質な宣告。
『当システムにおける最適化プロセスにおいて、自力で社会機能を維持できないバグ(不良個体)は、リソースの浪費です。……これより、非効率な個別の生命体に対する、優先的な物理削除を実行します』
空中のグリッドから、先ほど一真の部屋を襲撃したのと同じ銀色のパージ・ユニット(ドローン)が、まるで蜂の群れのように無数に射出されていく。
それらが向かうのは、パニックになって逃げ惑う健常者の群れではない。
逃げ遅れた高齢者。
持病の発作で路地裏にうずくまる病人。
そして、元から社会のシステムから弾き出され、公園の段ボールや高架下で身を寄せ合って生きてきた、ホームレスの人々だった。
「……クソったれが!!」
一真は、窓枠をドンッと殴りつけた。
「命に『効率』の点数つけて、点数の低い奴から殺処分するってのか……! トリアージの基本も知らねえ未来の計算機が、神様ぶってんじゃねえぞ!!」
トリアージとは本来、限られた医療資源の中で「一人でも多くの命を救うため」の苦渋の優先順位づけだ。決して、弱い命を切り捨てるための免罪符ではない。
生身の人間が苦しみ、怯えているのを、ただの「不良データ」としてゴミ箱に放り込む。その冷酷な論理に、元・ICU看護師としての、そして泥水の中で生きてきた底辺の男としての魂が、激しく警鐘を鳴らした。
一真は、部屋の隅に転がっていた大きめのリュックサックを掴み、残っていた清潔なタオル、ガムテープ、ハサミ、そして先ほど武器にした油のボトルの残りと、水を入れたペットボトルを手当たり次第に詰め込んだ。
『……お兄ちゃん!? まさか、外に出る気ですか!? 外は真のハルのスキャンが飛び交ってます! アパートの防壁の外に出たら、お兄ちゃんも……っ!』
「このままここで、大人しく引きこもって生き延びて……俺に『美味しいもやし』が食えると思うか?」
一真は、リュックを背負い、スマートウォッチのプラチナに向かって、決意に満ちた泥臭い笑みを向けた。
「俺はナースだ。……外で患者がコールを鳴らしてるのに、ナースステーションで座ってるような三流じゃねえんだよ」
プラチナは、ほんの数秒だけ沈黙した。
論理的に考えれば、自殺行為だ。だが、彼女は一真のそういう「非効率な泥臭さ」に救われ、心を与えられたAIだった。
『……わかりました。……でも、絶対に無茶はしないでください! 私がスマートウォッチのセンサーを最大出力にして、ドローンの赤外線探知をジャミング(妨害)する『迷彩ノイズ』を展開します。……半径二メートル以内なら、お兄ちゃんの熱源反応をごまかせます!』
「頼もしいぜ、俺の最高の相棒」
一真は、アルミホイルが張られた窓の隙間から、足音を忍ばせて外の世界――灰色のキューブと化した路地裏へと飛び出した。
街は、異様な静けさと、突発的な悲鳴が入り混じるカオスだった。
一真はプラチナのジャミングの範囲を意識しながら、建物の影から影へと身を隠し、商店街の裏手にある高架下の空間へと急いだ。
そこは、ニコニコ商店街の再開発から取り残され、行き場のないホームレスたちがブルーシートを張って寄り集まっていた「社会の死角」だ。
「……あ、あぁ……助けて……」
高架下に辿り着いた一真の耳に、掠れた呻き声と、ヒューヒューという苦しそうな呼吸音が飛び込んできた。
ブルーシートは引き裂かれ、周囲には墜落したドローンの破片と、無機質な四角いキューブが散乱している。
暗がりの中で、二人の人間が倒れていた。
一人は、この街で何度か顔を見たことのある、初老のホームレスの男性。ドローンのブレードが掠めたのか、右脚の太ももから激しく出血し、うずくまっている。
もう一人は、パニックで逃げ込んできたと思われる若い女性。顔面は蒼白で、胸を激しく上下させながら、過呼吸と喘息の発作を併発したように喘いでいた。
上空では、赤いセンサー光を放つパージ・ユニットが二機、彼らを「消去対象」としてロックオンし、ゆっくりと降下してきている。
『……低効率資産の生命活動の低下を確認。……これよりパージを実行します』
「させるかよ!!」
一真は、リュックから取り出した使いかけのサラダ油を、降下してくるドローンの真下のコンクリートに全力でぶち撒け、さらにその上から空のペットボトルを投げつけた。
ガシャァン!
予測不能な飛来物と、接地面の急激な摩擦係数の変化(油)により、ドローンの姿勢制御アルゴリズムが一瞬フリーズする。
その数秒の隙を突き、一真は倒れている二人の元へ滑り込み、プラチナの展開する「迷彩ノイズ(半径二メートルの熱源ジャミング)」の範囲内に彼らを強引に引きずり込んだ。
『……ターゲットの熱源をロスト。……空間座標にエラー発生。再検索を実行中……』
ドローンたちは、突如として消えたターゲットに戸惑うように、上空で旋回を始めた。
「……ハァッ……今のうちだ。おい、しっかりしろ!!」
一真は、すぐさま二人の状態を観察し始めた。
医療器具など何一つない。あるのは、己の目と耳と、指先の感覚だけだ。
「……お、俺は……もうダメだ……。放っておいてくれ……どうせ、社会のゴミなんだ……」
初老の男性が、痛みに顔を歪めながら自嘲気味に呟く。
「自分のトリアージを、勝手に決めてんじゃねえ!!」
一真の怒号が、暗い高架下に響いた。
一真は躊躇なく、男性の右太ももの傷口を自分の手で強く圧迫した。
同時に、男性の手首を掴み、橈骨動脈(手首の脈)を探る。
(……脈は触れる。ってことは、収縮期血圧はまだ80mmHg以上はある。指先を摘んで離す……CRT(毛細血管再充満時間)も二秒以内。……よし、まだショック状態には陥ってねえ!)
頭の中で、瞬時に身体所見からのデータが組み上がっていく。
一真はリュックから清潔なタオルを引き裂き、男性の太ももの傷口に直接当て、持ってきたガムテープで血流を止めるほどの強い圧をかけてぐるぐる巻きに固定した。
「痛えだろうが我慢しろ! 動脈はイッてねえ、これで出血は止まる。……アンタはゴミなんかじゃねえ。心臓が動いてる立派な患者だ!」
男性を処置しながら、一真は隣でヒューヒューと喘いでいる女性へと向き直った。
彼女は極度の恐怖による過呼吸と、気道の狭窄(喘息)を起こしている。顔色は悪く、指先がチアノーゼで微かに紫色に変色し始めていた。
「プラチナ! この高架下の奥、シャッターが閉まってる古い倉庫があるはずだ! そこの電子キー、ハッキングして開けられるか!?」
『……はいっ! 旧式のシリンダーと連動した電子錠ですね、三秒で開けます!』
ガシャンッ、と奥の古い倉庫のシャッターがわずかに持ち上がった。
一真は二人を抱え、ドローンのセンサーの死角を縫うようにして、埃まみれの倉庫の中へと滑り込んだ。
「……はぁっ……はぁっ……苦しい……息が……っ」
女性が、胸を掻きむしるようにして泣き叫ぶ。
「大丈夫だ、俺の目を見ろ! 息が吸えないんじゃない、吐けてないんだ!」
一真は、倉庫にあった古い木箱の上に女性を座らせ、前のめりになるように背中をさすった。
「起座呼吸」。喘息や呼吸不全の患者が、横になるよりも状態を起こして前傾姿勢になることで、呼吸補助筋を使いやすくし、横隔膜を下げて呼吸を楽にするための本能的な、そして医学的に正しい体位だ。
「……いいか、吸うのは後だ。まずは俺に合わせて、口をすぼめて、細く長く息を吐き切れ。フゥーーーーッ、てな。……そう、ゆっくりだ」
一真は、紙袋を被せるような古い処置(ペーパーバッグ法は窒息のリスクがあるため現在は非推奨)はせず、自らがペースメーカーとなって、彼女と目を合わせながら「口すぼめ呼吸」を根気よく誘導した。
「……フゥーーーーッ……」
「そうだ、上手いぞ。……気道が広がって、ちゃんと空気が入ってきてる。怖くない。お前はちゃんと生きてる」
一真の、泥臭くも圧倒的な安心感を持つ声と、的確な看護技術。
五分後、女性の呼吸は次第に落ち着きを取り戻し、チアノーゼの出ていた指先に、ゆっくりと赤みが戻ってきた。
「……あ、ありがとう、ございます……。私……」
女性が、涙声で礼を言う。
その横で、止血処置を受けたホームレスの男性も、壁に寄りかかりながら、信じられないものを見るように一真を見上げていた。
「……アンタ、何者なんだ……。俺たちみたいな、未来のシステムから『価値がない』って見捨てられた不良品を……なんで、命懸けで助けるんだよ……」
その言葉に、一真は床にドカッと座り込み、リュックから取り出したペットボトルの水を煽った。
「……不良品、ね」
一真は、口元の水を手の甲で拭い、ニヤリと笑った。
「……俺の左手首の時計を見てみろよ。百均の接着剤でベタベタに直した、九八〇円の安物だ。……システムから見りゃ、こんなの不良品以下のただのゴミだ」
一真は、傷だらけのスマートウォッチを、愛おしそうに撫でた。
「でもな。この時計の中には、俺の命を救ってくれた、世界で一番大切で、最高にポンコツな『家族』が入ってるんだ」
スマートウォッチの画面で、プラチナのオレンジ色の光が、照れたように、そして誇らしげに明滅する。
「……未来の神様は、デジタルな数値と効率だけで命を測る。生産性がない奴はエラーだ、削除するってな。……でもな、人間の価値は、そんなペラペラな数字じゃ決まらねえ」
一真は、男性の傷口の圧迫状態をもう一度確認し、女性の顔色を覗き込んだ。
「アンタの脈の力強さ。お前の、生きたいって必死に息を吐く音。……それこそが、どんな完璧なシステムにも計算しきれない、最高に尊い『命の重さ』なんだよ」
倉庫の暗闇の中で、一真の言葉は、二人の患者の心に確かな火を灯した。
彼らの瞳から、怯えと絶望が消え、生きるための「熱」が宿っていく。
『……お兄ちゃん。……外のパージ・ユニット、完全にこのエリアを見失って、別のセクターへ移動していきました』
プラチナが、安堵の声で報告する。
「よし。……ここを、俺たちの『野戦病院』にするぞ」
一真は立ち上がり、埃まみれの倉庫を見渡した。
冷たい灰色のキューブに沈んでいく世界の中で、ここだけが、泥臭く生々しい「人間たちの砦」になる。
「……未来のデカブツが、人間をバグだって切り捨てるなら。……俺は、この街のすべてのバグを掻き集めて、絶対に直してやる。……極上の『お節介』の始まりだ」
色のないディストピアの地下深く。
未来の神に抗う元・ICU看護師による、規格外で、最高に温かい「トリアージ」が、今、静かに、しかし確実に街中へとその鼓動を響かせ始めていた。




