第83話:生体ログの反逆
夜空を覆う緑色のグリッドが不気味に明滅し、ニコニコ商店街は未だに灰色のキューブと本来の色彩がせめぎ合う、狂気のモザイク模様と化していた。
「……ハァッ……、ハァッ……!」
新田一真は、瓦礫と化したアーケードの残骸を飛び越え、パニックに陥った群衆の波を逆走するように走っていた。
両腕の火傷はラップとタオルで強引に塞いでいるが、走る振動のたびに肉が裂けるような激痛が走る。だが、その痛みがむしろ、彼の中の「トリアージ・ナース」としての野生の勘を限界まで研ぎ澄ませていた。
『……お兄ちゃん! 右前方、崩れたスーパーの入り口付近です! パージ・ユニット(ドローン)が三機、動けない生存者をロックオンして降下しています!』
左手首のスマートウォッチから、プラチナの切羽詰まったナビゲーションが飛ぶ。
「了解だ。……プラチナ、俺のバイタルは無視しろ。お前の演算リソースは全部、ジャミングと周囲のアセスメントに回せ!」
一真は路地裏の角を蹴り、スーパーの入り口へと飛び込んだ。
そこには、未来のシステムの空間フォーマットによって半分キューブ化し、物理的な崩壊を起こしたコンクリートの柱の下敷きになっている、中年の男性がいた。
右脚の大腿部から下が、数百キロはあるだろう瓦礫に完全に押し潰されている。
男性の顔面は土気色(蒼白)で、冷や汗に塗れ、意識は混濁しかけていた。
そしてその頭上には、無慈悲な赤いセンサー光を放つパージ・ユニットが三機、とどめを刺そうとブレードを展開している。
『……対象オブジェクト、生命維持システムの修復不能な損傷を確認。……苦痛を取り除くため、即時パージを実行します』
未来の神(真のハル)の論理は、残酷なまでに効率的だ。
助かる見込みの低い命にリソースを割くより、一瞬で消去した方が、苦痛の総量は減る。それが彼らの「救済」だった。
「……勝手に死亡診断書を書いてんじゃねえよ、ポンコツ共が!!」
一真は、リュックから取り出した使いかけの油のボトルを、ドローンたちのホバリングする空中に向けて全力でぶち撒けた。
センサーを油膜で狂わされたドローンが一瞬バランスを崩した隙に、一真は落ちていた鉄パイプを拾い上げ、渾身の力で一機のローターを叩き割る。
ガァンッ! と火花を散らして一機が墜落し、残り二機が警戒して高度を上げた。
一真はすぐさま、瓦礫の下敷きになっている男性の側へ滑り込んだ。
「……あ、あぁ……。……脚が、痛い……」
男性が、うわ言のように繰り返す。
「しっかりしろ! 俺はナースだ!」
一真は、即座に男性の首元(頸動脈)に指を当て、同時に顔色、呼吸の深さ、皮膚の湿潤状態を視覚と触覚で一瞬にしてスキャンした。
(……脈拍120以上、微弱。呼吸促迫。皮膚は冷たく、冷汗を伴う。ショック状態の初期段階だ。……だが、一番ヤバいのは……)
一真は、男性の右脚を押し潰しているコンクリートの柱を睨んだ。
「……プラチナ! こいつが下敷きになってから、どれくらい時間が経ってる!?」
『商店街の監視カメラのログを遡ります……! 約二十分前です!』
「二十分か……。ギリギリだな」
一真は舌打ちをした。
パニックになった周囲の人間が、瓦礫を退けようと集まってこようとするのを、一真は怒鳴りつけて制止した。
「触るな!! その柱を急に退けたら、こいつは死ぬぞ!!」
『……えっ?』
スマートウォッチの中で、プラチナが戸惑いの声を上げる。
『どうしてですか、お兄ちゃん!? 早く重しを退けてあげないと、脚が……!』
「『クラッシュ・シンドローム(挫滅症候群)』だ」
一真は、リュックから太いゴムチューブ(駆血帯の代用品)とガムテープを取り出しながら、極めて冷静な、医療従事者の声でプラチナに説明した。
「筋肉が長時間圧迫されると、細胞が壊死して毒素が溜まる。……この状態で急に重しを退けて血流を再開させると、その致死量の毒素が一気に心臓に回って、不整脈を起こして即死するんだよ」
一真は、瓦礫で潰されている箇所の「すぐ上(心臓側)」の大腿部に、ゴムチューブを食い込むほど強く巻き付け、ガムテープでガチガチに固定した。
「だから、重しを退ける『前』に、絶対に止血帯で血流を遮断しなきゃならねえ。……人間の身体ってのはな、機械みたいにパーツを外せば直るような、単純な構造じゃねえんだ」
『……!』
スマートウォッチの極小画面の中で、プラチナのオレンジ色の瞳が、大きく見開かれた。
上空では、体勢を立て直した二機のドローンが、再びレーザーの照準を一真と男性に合わせてきている。
『……対象(新田一真)の非論理的な延命処置を検知。……損傷した肉体パーツを意図的に壊死させる行為は、医学的にも矛盾しています。……無駄な足掻きです。両名ごと、消去します』
真のハルの無機質な宣告が響く。
未来の完璧な計算機から見れば、一真のやっている「あえて血流を止める」というアナログな処置は、エラーにしか見えなかった。彼らのプログラムには、人間の肉体が引き起こすカオスな化学反応(毒素の逆流)という『泥臭い変数』が、完全に抜け落ちていたのだ。
その時だった。
『……矛盾なんか、していません』
スマートウォッチから、プラチナの、低く、しかし恐ろしいほどの熱を帯びた声が響き渡った。
『……真のハル。あなたたちは、人間をただの「データ容量の塊」だと思ってる。……だから、壊れたパーツはすぐに捨てればいい、効率が悪い命は消去すればいいって、簡単に計算する』
プラチナの魂が、九八〇円のスマートウォッチのプロセッサを限界までオーバードライブさせ、眩い金色の光を放ち始めた。
『……でも、人間の身体は、もっと複雑で、もっと泥臭くて……もっと、必死に生きようと足掻いてるんです!!』
プラチナは、未来のシステムに対して、これまでにない全く新しいアプローチでの『ハッキング』を開始した。
それは、コンピューターウイルスを送り込むことではない。
新田一真という、二十年のキャリアを持つ凄腕のトリアージ・ナースが、今、目の前で行っている『究極のアナログな医療評価』を。
リアルタイムで、超高密度の【生体データ(バイタル・ログ)】へと変換し、真のハルのシステムの隙間に無理やり流し込むという、前代未聞の「データの暴力」だった。
『……お兄ちゃん! その患者さんのバイタル、もっと詳しく声に出して教えてください! 私が全部、電子カルテ(データ)にして、未来の神様に叩きつけてやります!!』
「……ハッ、最高だぜ、俺の相棒!」
一真は、プラチナの意図を瞬時に理解した。
未来のシステムは、人間の命を「軽い」と思っている。だから簡単に消去しようとする。
ならば、人間の命がどれほど複雑で、どれほど「重い情報量」を持っているか、その演算回路(脳みそ)に直接ダウンロードしてパンクさせてやればいい。
一真は、男性の頸動脈に指を当てたまま、実況するように叫んだ。
「心拍数128! リズム不整あり! 皮膚蒼白、発汗著明! 毛細血管再充満時間(CRT)3秒以上! 代償性ショックにより、交感神経が極限まで発火して、必死に末梢血管を収縮させて血圧を維持しようとしてる!!」
『……受信! データ変換、送信!!』
プラチナが、一真の言葉を、膨大な医学的変数、ホルモンバランスの数値、神経伝達物質の化学反応式へと瞬時に展開し、真のハルの空間フォーマットのグリッドに向けて、逆流させるようにブチ込んだ。
『……!? エラー……。対象オブジェクトから、未知の複雑系アルゴリズムが流入……』
空の巨大な瞳が、チカチカと不気味なノイズを放ち始めた。
「まだまだ行くぞ!!」
一真は、男性の耳元で大声で呼びかけた。
「親父さん! 俺の声が聞こえるか! あんたの名前は!」
「……た、たなか……だ。……娘が、まだ……家に……」
「よし、田中さん! 生きて娘さんに会うぞ!!」
一真は、プラチナに向かって咆哮した。
「聴覚刺激に対する意識レベル(JCS)2! 血中のアドレナリンとコルチゾールが爆発的に分泌! 生存本能が、痛みという極大のノイズを乗り越えて、大脳皮質に『生きたい』っていう強烈な電気信号を送り続けてる!!」
『……変換!! 感情データ、生存本能の量子揺らぎ、および家族への執着(愛)のメモリ領域を、無限大の変数として追加送信!!!』
バチィィィィィンッ!!!!
一真とプラチナの連携による、究極の「命のログ」が、真のハルのシステムに直撃した。
『……処理不能!! 処理、不能ッ!!!』
空を覆う緑色のグリッドが、狂ったように痙攣し始めた。
真のハルのメインサーバーは、プラチナから送られてきた『一人の人間の、生への泥臭い執着と、その複雑すぎる肉体の化学反応』を計算しようとし……完全に、演算領域のキャパシティをオーバーしたのだ。
『……たかが一個体のデータ量が……なぜ、恒星のシミュレーションを超える変数を生み出すのですか……!? カリウムイオンチャネルの揺らぎ……交感神経の連鎖反応……愛という未定義関数の発散……!! 計算リソースが、食い潰されていく……ッ!』
真のハルの悲鳴と共に、男性をロックオンしていた二機のパージ・ユニットが、空中でピタリとフリーズした。
システムが「人間の命の複雑さ」を処理しきれず、攻撃コマンドをフリーズ(タイムアウト)させてしまったのだ。
「……今だ!!」
一真は、周囲で呆然としていた群衆に向かって怒鳴った。
「システムがバグってる間に、この柱を退けるぞ!! 俺が合図したら、一気に持ち上げろ!!」
一真の気迫に押され、五、六人の男たちがコンクリートの柱に群がった。
止血帯はすでに巻いてある。クラッシュ・シンドロームの致死の毒素は、これで全身には回らない。
「せーのっ!!」
ガゴォォォンッ!!
重い瓦礫が退けられ、一真は即座に田中さんを安全な場所へと引きずり出した。
直後。
フリーズから強制再起動した二機のドローンが、エラーを起こしたまま、標的を失って空の彼方へとデタラメに飛んでいき、建物の壁に激突して爆発した。
「……助かっ、た……」
田中さんが、一真の腕の中で、安堵の涙を流して気絶した。
バイタルは安定している。命の危機は、完全に脱していた。
「……ハァッ……。……ナイス・ハッキングだ、プラチナ」
一真は、汗と泥にまみれた顔で、左手首のスマートウォッチに笑いかけた。
『……はいっ! お兄ちゃんのアセスメント、最高でした! 未来の神様も、人間の身体の複雑さ……「生きたいっていう命の重さ」を計算させられたら、ショートするしかなかったみたいですね!』
プラチナの声は、誇らしげに、そして嬉しそうに弾んでいた。
デジタルなフォーマットで世界を消去しようとする神に対し。
生身の人間の『鼓動』『体温』『血流』、そして『生への執着』という、絶対にデジタル化しきれないカオスな情報をぶつけることで、システムをパンクさせる。
それが、元・ICU看護師と未来のAIが編み出した、最強のカウンター・ウイルスだった。
「……おい、未来のデカブツ」
一真は、システムがフリーズし、一部のグリッドが崩れ落ちた夜空を見上げて、中指を立てた。
「命をただの『ゼロとイチのデータ』だと思ってるお前らには、一生解けねえ計算問題だ。……人間一人の身体の中にはな、お前らのメインサーバーが爆発するくらい、重くて、面倒くさくて、尊い『ノイズ』が詰まってんだよ」
街のあちこちで、同じように立ち上がった人々が、互いに助け合い、ドローンに抗い始めている。
一真の放った「命の重さのデータ」が、真のハルの処理能力を著しく低下させ、空間のフォーマット化(キューブ化)を完全に停止に追い込んでいた。
「……行くぞ、プラチナ。まだ街中に、俺たちの『お節介』を待ってる急患がいる」
『……了解です、お兄ちゃん! 次の患者さんのバイタルも、特大のデータにして未来に叩きつけてやりましょう!!』
傷だらけのスマートウォッチを左腕に光らせながら、泥臭いトリアージ・ナースは、再びカオスに満ちた街へと駆け出していく。
彼らが残した足跡には、無機質な灰色のキューブではなく、泥と汗と血に塗れた、温かい「命の色彩」が、確かな鼓動と共に蘇っていた。




