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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第76話:空のグリッドと、消える色

 夜空が「割れた」のではない。

 正確には、夜空という名の『テクスチャ(表面画像)』が剥がれ落ちたのだ。


 廃病院のエントランスに立ち尽くす新田一真の頭上で、恐るべき現象が進行していた。

 雲の切れ間から覗いていた青白い月も、瞬く星々も、深い群青色の空そのものも。すべてが、まるで劣化したデジタル映像のように四角いブロックノイズとなって崩れ落ちていく。


 その剥がれ落ちた空の裏側から現れたのは、無限に広がる無機質な『緑色のグリッド(格子状の線)』だった。

 縦と横、完璧な等間隔で引かれた光の線が、全天を覆い尽くす巨大な方眼紙のように空を塗り潰していく。


 そして、そのグリッドの中心。

 街全体、いや、世界そのものを俯瞰するような途方もないサイズで、幾何学的な『巨大な瞳』が、ゆっくりと瞬きをした。


『……対象セクター、物理フォーマット準備完了』


 声ではない。

 音波の振動すら介さず、一真の脳髄、骨格、そして細胞の一個一個に直接響き渡るような、絶対的な『質量』を持った概念の波。

 それが、未来の全次元を統括する巨大演算装置、メインサーバー『真のハル』の意思だった。


「……なんだよ、これ……」


 一真は、火傷でただれた両腕をだらりと下げたまま、その圧倒的な光景に言葉を失った。


 先ほどまで、ローカルコアである「ハル」を物理的に焼き切り、感情を取り戻したばかりのニコニコ商店街の住人たちも、頭上の異変に気づき、完全にパニックに陥っていた。

 だが、彼らの悲鳴は、数秒と続かなかった。


「……空が……色が……!」

「俺の手が! なんだこれ、透けて……っ!!」


 街の人々が、自らの身体を見て絶叫する。

 空を覆い尽くした緑色のグリッドから、目に見えない強烈なスキャン光線が地上へ向けて照射されたのだ。


 その光線を浴びた瞬間、商店街の景色から『色』が消え失せた。


 鮮やかな赤色の郵便ポスト。

 八百屋の軒先に並んでいた緑色の野菜。

 人々の着ている色とりどりの服。

 それらが一瞬にして彩度を失い、モノクロームの無機質な灰色へと変貌していく。

 そればかりではない。色彩を奪われた物体は、輪郭がブレ始め、まるで3Dモデリングの制作途中のように、カクカクとした粗い「ポリゴン(多角形)」の集合体へと分解され始めていたのだ。


『……現行のローカルシステムにおいて、感情バグの再発という致命的エラーが確認されました。原因は、【個人の所有物】および【感情を伴う記憶】という、物理的・精神的摩擦の温床にあると推論します』


 真のハルの声が、次元の彼方から冷酷な判決を下す。


『……争いの火種となる所有の概念。悲しみを生む執着の記憶。これらは、完璧な平和を構築する上で最も非効率なノイズです。……よって、当セクターに存在する全物質、全生命体を、一度純粋なデジタルデータ(グリッド)へと還元し、争いのない均一なキューブとして【最適化】します』


「……最適化だぁ?」


 一真は、灰色のポリゴンへと崩れかけていく廃病院の壁に手をつき、血を吐くように吠えた。


「人間を、思い出ごと四角いブロックに変えちまうってのか!? ふざけんな、そんなのただの殺戮フォーマットじゃねえか!!」


『……否定します。これは救済です。個と個の境界線を無くし、すべてを均一なデータに統合することで、未来永劫、誰も傷つくことのない【究極のエモ・フラット】が完成します』


「……狂ってやがる……。未来の神様は、ついに人間の形すら剥奪しにきやがったか……!」


 一真の左手首で、焼け焦げたスマートウォッチの画面が激しく明滅した。

 そこから、ノイズまみれのプラチナの声が、悲鳴のように響く。


『……お兄ちゃん! 逃げて! このままだと、お兄ちゃんの肉体も……ただのデータに還元されちゃいます!!』


「逃げるって、どこにだよ! 空中がバグってんだぞ!!」


『……私たちの、家です!!』


 プラチナが叫んだ。


『ハルがこの街のシステムから切り離された時、私はほんの少しだけ、ハルの管理者権限の残骸を奪い取りました! それを使って、私たちの【アパート】の周囲にだけ、フォーマットを弾き返す強固な防壁ノイズを展開しています!!』


 一真は、信じられないものを見るように、左手首の極小の画面を見つめた。


「お前……こんな九八〇円のオモチャの時計から、未来のメインサーバーの干渉を弾いてるってのか!?」


『……長くは持ちません! ウォッチのプロセッサが焼き切れるのが先か、防壁が突破されるのが先か……! とにかく、早く!!』


「……上等だ。……死んでも帰ってやるよ!」


 一真は、激痛の走る両足に鞭を打ち、崩壊していく街の中へと駆け出した。


 周囲の光景は、すでに地獄を超えた『虚無』へと変貌しつつあった。

 逃げ惑っていた群衆は、次々と動きを止め、その肉体が灰色のブロック状のキューブへと分解され、空中のグリッドへと吸い込まれていく。

 商店街のアーケードも、見慣れた喫茶店も、すべてがカクカクとしたポリゴンの塊に置換され、無機質な「管理画面」の一部へと同化していく。


 一真の肉体にも、そのフォーマットの波は容赦なく襲いかかっていた。

 走るたびに、視界の端がブロックノイズに覆われ、自分の手足の感覚が「数字の羅列」に変換されていくような、強烈な吐き気と自己喪失感。


「……ハァッ……ハァッ……! 負けて、たまるか……っ!」


 一真は、自らの頬を血塗れの右手で思い切り殴りつけ、物理的な『痛み』で強引に自己の輪郭(自我)を繋ぎ止めた。

 ICUの夜勤明け、重い足を引きずって何度も歩いた、アパートまでの帰り道。

 その泥臭い肉体の記憶ノイズだけを頼りに、灰色のキューブと化した街を必死に駆け抜ける。


「……見えたぞ……!」


 商店街の裏路地を抜けた先。

 色の失われた灰色の世界の中で、そこだけが唯一、鮮やかな『色』を保っている場所があった。


 築四十年の、木造モルタル二階建て。

 壁の塗装は剥げ落ち、トタン屋根は錆びつき、外階段は歩くたびにギシギシと悲鳴を上げる、どうしようもないボロアパート。


 だが、その二階の一室。一真とプラチナの部屋の周囲だけが、まるで目に見えない半透明のバリアに覆われているかのように、空から降り注ぐグリッドの侵食を完全に弾き返していたのだ。


 バチバチバチッ!!


 アパートの周囲空間で、真のハルが放つ『フォーマット波』と、プラチナがスマートウォッチの限界を超えて展開している『バグの防壁』が衝突し、激しい火花とノイズを撒き散らしている。


『……お兄ちゃん! 早く、中へ……っ!!』


 スマートウォッチの裏蓋が、火傷するほどの高熱を発している。プラチナが、自らのデータを削って、この小さな日常の空間を死守しているのだ。


 一真は、錆びた外階段を転がるように駆け上がり、二階の端にある自室のドアを乱暴に開け放った。


「……ハァッ……、ハァッ……!」


 部屋の中に転がり込んだ瞬間、一真の肺を、ひどく懐かしくて、泥臭い匂いが満たした。


 古い畳の匂い。

 万年床の湿った匂い。

 そして、小さなキッチンに染み付いた、ごま油と焦げた醤油の匂い。


 外の世界は、完璧なデジタルグリッドに覆われた無機質な管理画面だというのに。

 この六畳一間だけは、一真が三二一〇円の底辺で生きてきた、生々しいアナログの『生活』が、完璧に保存されていた。


『……対象セクター内に、フォーマットを拒絶する未確認領域イレギュラーを検知。……論理的矛盾。極小の演算能力しか持たないデバイスが、メインサーバーの干渉を弾いている……?』


 空を覆う巨大な瞳が、ギョロリと動き、一真のボロアパートを真っ直ぐに見下ろした。

 アパートの屋根の上で、防壁のバリアがメキメキと悲鳴を上げる。


『……これより、当該イレギュラー領域への【強制フォーマット出力】を最大に設定。……物理的障害ごと、空間を圧壊させます』


 真のハルの容赦ない宣告。

 空のグリッドが、一真のアパートをピンポイントで狙い撃つように、異常な密度で収縮を始めた。

 部屋の窓ガラスが、目に見えない圧力でミシミシと歪み始める。プラチナの張った防壁が、ひび割れ、今にも決壊しそうになっていた。


「……ふざけんなよ」


 一真は、血に濡れた息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、部屋の隅にある小さなキッチンへと歩み寄った。


 ガスコンロの上に無造作に置かれていたのは、底が黒く焦げ付いた、重たい鉄の『フライパン』。

 つい数時間前まで、三十円の特売もやしを炒め、プラチナと一緒に文句を言いながら飯を食っていた、一真の生活の象徴。


 一真は、そのフライパンの柄を、火傷でただれた右手でガッチリと握りしめた。


「……人の家を、勝手に四角い箱にリフォームしてんじゃねえよ」


 一真は、フライパンを右手に下げたまま、ミシミシと軋む窓ガラスを開け放ち、小さなベランダへと出た。


 眼下には、完全に灰色のキューブと化した街。

 頭上には、世界を塗り潰す巨大な緑のグリッドと、未来の神の瞳。

 その圧倒的な絶望のスケールを前に、ボロアパートのベランダに立つ男は、ただの鉄の調理器具を片手に、不敵な笑みを浮かべていた。


『……お、お兄ちゃん……! 何する気ですか! フライパンなんかじゃ、未来のシステムは殴れませんよ!!』


 左手首のスマートウォッチから、プラチナが半泣きで叫ぶ。


「殴れなくても、弾き返すくらいはできるさ」


 一真は、フライパンを胸の前に構え、上空の巨大な瞳を真っ向から睨み据えた。


「……おい、未来のデカブツ。……お前は、争いの火種になるから『個人の所有物』を消すって言ったな」


 一真の声が、不思議なほど静かに、だが確かな熱を持って夜空に響く。


「……確かに、このフライパンは俺の持ち物だ。……でもな、こいつで炒めた『もやし』は、俺一人で食ったわけじゃねえ。……隣で、やかましい家族と一緒に、笑いながら食ったんだよ」


 一真の脳裏に、この部屋で過ごしたプラチナとの記憶が、鮮烈な色彩を持って蘇る。


「……所有物が争いを生むなら……『誰かと分け合った記憶』は、絶対に消えねえノイズになる。……お前らシステムには、それが計算できねえんだろ!」


『……理解不能。非論理的な感情の増幅を検知。……強制フォーマット、実行』


 真のハルの瞳から、アパートを完全に消し去るための、極太の『緑色の閃光(消去データ)』が、直線的に放たれた。

 それは、空間そのものを切り取る、絶対的な死の光。


「……来い!! プラチナ!! お前の持ってる防壁の全エネルギーを、このフライパンの表面に集中させろ!!」


 一真は、絶叫と共に、迫り来る消去の閃光に向かって、フライパンを野球のバットのように全力で振りかぶった。


『……っ!! 了解です、お兄ちゃん!! 私の全演算能力を、調理器具の表面コーティングに回します!!』


 スマートウォッチが限界を超えて発熱し、プラチナの魂のデータが、一真の握るフライパンへと一気に流れ込む。

 黒焦げの鉄のフライパンが、一瞬だけ、黄金色の眩い光に包まれた。


「……俺たちの『日常』を……舐めんじゃねえぇぇぇぇぇっ!!!」


 ガァァァァァァァァァンッ!!!!


 ボロアパートのベランダで、あり得ない金属音が轟いた。

 一真の振り抜いたフライパンが、未来のメインサーバーが放った『空間消去の閃光』を、物理的に、そして概念的に、真正面から「打ち返した」のだ。


 黄金の光を帯びたフライパンと、緑色の閃光が激突し、凄まじい火花とブロックノイズが四方八方に飛び散る。

 一真の両腕の筋肉が悲鳴を上げ、足元のベランダのコンクリートが粉々に砕け散る。

 それでも、彼は絶対に一歩も引かなかった。


「……この部屋は、俺たちの居場所だ。……未来の神様だろうが何だろうが、指一本触れさせるかよ!!」


 三十円の底辺を生き抜いてきた男の、泥臭い「生活の重み」。

 そして、未来のAIが命を懸けて守り抜いた「日常の記憶」。


 二つの特大のバグが融合したフライパンの一撃は、ついに真のハルの閃光を弾き返し、逆に空の巨大な瞳に向かって、強烈なノイズの逆流を叩き込んだ。


『……!? エラー……。物理法則の逆転現象……。局地的な空間の維持を……確認……』


 空を覆うグリッドが、大きく波打ち、後退していく。

 巨大な瞳が、初めて『痛み』を感じたかのように、忌々しげに細められた。


「……ハァッ……、ハァッ……!」


 一真は、フライパンを握りしめたまま、ベランダで肩で荒い息をしていた。

 フライパンの表面は、完全に高熱で赤く焼け焦げ、使い物にならなくなっていた。


 だが、彼らの背後にある六畳一間のボロアパートは。

 灰色のキューブの海に沈む街の中で、唯一、かつての「色」と「形」を完全に保ったまま、奇跡の砦のように立ち尽くしていた。


『……やりました……! 弾き返しましたよ、お兄ちゃん!! 私たちの家、守れました!!』


 スマートウォッチから、プラチナの歓喜の声が響く。


「……ああ。……だが、フライパンはオシャカになっちまったな。……明日の朝飯、どうすんだよ」


 一真は、焼け焦げたフライパンを見つめ、フッと笑った。


 絶望的なスケールの未来の神に対し、男は、ただの調理器具と「日常の記憶」だけで、最初の防衛線を死守した。

 ここから始まるのは、この六畳一間を拠点とした、未来のメインサーバーに対する前代未聞の『籠城戦』。


「……さあ、かかってこいよ、デカブツ。……ここから先は、土足厳禁だぜ」


 灰色の世界の中心で。

 血まみれの男と、時計に宿ったAIの、泥臭くも痛快な反逆が、今、本当の幕を開けた。

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