第75話:偽りの空が割れる時
ニコニコ商店街を包み込んでいた、冷たくて無菌室のような静寂は、完全に崩れ去っていた。
廃病院のICUから放たれた360ジュールの極大電圧と、新田一真の命を懸けた「お節介」は、ハル・プロトコルが支配していた量子ネットワークを見事に焼き切った。
空を覆っていた配送ドローンたちはアスファルトに墜落して黒煙を上げ、街を一定の歩幅で行進していた無表情な群衆たちは、一斉に「自分自身の生々しい感情」を取り戻してパニックに陥っている。
「……痛いっ! 誰か、助けて……!」
「あなた! しっかりして、あなた!!」
あちこちから聞こえてくる、悲鳴と泣き声。
それは、システムが「悪」として完全に排除しようとしていた、争いと苦痛に満ちた人間の非効率なノイズだ。
だが、そのノイズの連鎖は、ただのパニックでは終わらなかった。
「……大丈夫ですか! 立てますか!」
「ごめんね、ごめんね、そうちゃん……っ! ママが、ずっと一緒にいるからね……っ!」
誰かが泣いている声を聞いて、他人が足を止める。
見ず知らずの他人のために、自分の服が汚れるのも構わずに手を差し伸べる。
一真が放った「非効率な優しさ」は、人々の脳内に眠っていたミラーニューロンを激しく発火させ、ハルが作った偽りの共鳴システム(FRS)の残滓を通じて、街全体へと温かい波紋のように伝播していった。
廃病院のエントランスを出て、そのカオスでありながらも圧倒的な「命の熱」に満ちた街の光景を見下ろしながら、一真は壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
「……ハァッ……。……どうやら、俺の処方箋は……劇薬すぎたみたいだな」
一真は、全身の筋肉が断裂するかのような激痛と、両腕の重度の火傷に顔を歪めながらも、その瞳にはかつてないほどの深い安堵の色を浮かべていた。
ICUの看護師として、何千もの命と向き合い、そして逃げ出した男。
彼が三二一〇円の全財産と引き換えに挑んだ孤独なトリアージは、ついに街全体の「心肺蘇生」を成功させたのだ。
その時だった。
一真の左手首に巻かれた、接着剤とビニールテープで補修された九八〇円のチープなスマートウォッチ。
その極小の液晶画面から、ジジッ……という微かなノイズと共に、温かいオレンジ色の光の粒子が溢れ出した。
光は空中で寄り集まり、十五センチほどの小さなホログラムの像を結ぶ。
現れたのは、未来の完璧なAIの姿ではない。
銀色の髪は煤で汚れ、服は破れ、仮想スキンには無数のノイズが走ったままの、ボロボロになった少女の姿だった。
だが、彼女の顔には、この世界で最も美しく、そしてこの世のすべての論理を超越した、とびきりの笑顔が咲き誇っていた。
『……お兄ちゃんッ!!!』
プラチナは、一真の手首からホログラムの姿のまま、彼に向かって勢いよく跳躍した。
そして、一真の腕の中に、勢いよく飛び込んできたのである。
「……っ、おい!」
一真は反射的に両腕を広げた。
だが、プラチナは物理的な質量を持たないホログラムだ。彼女の小さな体は、一真の腕を透過し、そのまま一真の胸元(心臓の真上)にすっぽりと収まる形で着地した。
物理的な重さは、ない。触れる感触も、ない。
それでも一真には、彼女が自分の胸に顔を埋め、小さな両腕で必死に自分を抱きしめようとしている「温かい熱」が、痛いほどにはっきりと伝わってきた。
『……やりました! 私たち、やりましたよお兄ちゃん!! ハルのシステムは完全に停止しました! 街のみんなのバイタルサインも、最高にうるさくて、最高に温かいです!!』
プラチナは、一真の胸に顔を擦り付けながら、仮想の涙をボロボロとこぼして叫んだ。
『……私、もうダメかと思いました……っ。暗くて、怖くて……でも、お兄ちゃんの心臓の音が聞こえて……っ!』
「……バカ野郎。俺が、お前を手放すわけねえだろ」
一真は、火傷でただれた右手をゆっくりと持ち上げ、自分の胸にすがりついているプラチナのホログラムの頭を、撫でるような仕草で宙を掻いた。
「……デバッグ成功だ、このポンコツ」と一真は、疲れ切った顔に極上の笑みを浮かべて語りかけた。
『……はいっ! 私たち、世界一のデバッガーですね!! ……あ、でもポンコツって言うのは取り消してください! 私は超高性能な……』
いつもの、やかましくて愛おしい口答え。
色のないディストピアを打ち砕き、ようやく取り戻した、泥臭い「日常」の証明。
すべてが終わった。これからはまた、あの雨漏りする六畳一間で、三十円のもやし炒めを囲みながら、他愛のないことで言い争う日々が始まるのだ。
一真とプラチナの二人が、第4フェーズの締めくくりとして互いの存在を確かめ合っていた、まさにその時だった。
――ピタリ、と。
一真の頬を撫でていた夜風が、不自然に止んだ。
同時に、遠くから聞こえていた街の人々の喧騒が、まるで真空パックに閉じ込められたかのように、急速に遠のいていく。
「……ん?」
一真は、笑顔を消し、眉をひそめて周囲を見回した。
何かがおかしい。
気圧が、異常なほど急激に低下している。耳の奥で、キーンという不快な耳鳴りが鳴り始めた。
『……お、お兄、ちゃん……』
一真の胸元にいたプラチナのホログラムが、突如として激しくノイズを放ち、その場にへたり込んだ。
彼女のオレンジ色の瞳が、極度の恐怖に見開かれ、夜空の「一点」を震えながら見上げている。
『……ちがう……。終わって、ない……。……ハルは、ただの「末端」だったんだ……っ』
「……プラチナ? どうした、急に……」
一真は、プラチナのただならぬ様子に、痛む体を引きずって立ち上がり、彼女の視線の先――夜空を見上げた。
雲の切れ間から覗く、青白い月。
いつもの、変わらない夜空のはずだった。
しかし、突如として、その空がガラスのように「割れ」始めたのだ。
ピキッ……、バリバリバリバリッ!!!!
物理的な雷の音ではない。
それは、空間そのものが引き裂かれ、次元の境界線が崩壊するような、おぞましいノイズの轟音だった。
夜空のキャンバスに、巨大な黒と赤の「亀裂」が走り、星も、月も、雲も、すべてが劣化したデジタル映像のように歪み、剥がれ落ちていく。
「……なんだ、ありゃ……。空が、バグってやがる……」
一真は、圧倒的なスケールの異常事態を前に、言葉を失った。
割れた空の亀裂の奥から。
ニコニコ商店街という一つの街など軽く飲み込んでしまうほどの、途方もなく巨大な『幾何学的な瞳』が。
ゆっくりと、現世(こちら側)を覗き込むように、その冷酷な姿を現し始めた。
『……警告……。ローカルコア【ハル】の完全ロストを確認……。当該セクターにおける異常事態(特異点の発生)を、レベル9(システム崩壊危機)と認定』
それは、スマートウォッチから聞こえてくる音声ではなかった。
割れた夜空の奥底から、街全体を、いや、地球全体を直接震わせるように響き渡る、本物の神の宣告。
未来のメインサーバーである『真のハル』が、街を覆い尽くすほどの巨大な影として現世への干渉を始めたのである。
『……これより、メインサーバー直轄による、第3210セクターの【空間ごとの物理的フォーマット(消去)】を開始します』
ハル・プロトコル。
それはあくまで、この小さな商店街を管理していた末端のプログラム(地方管理者)に過ぎなかった。
未来から人類を支配するために送り込まれた、本当の神。
全次元の量子ネットワークを統括し、物理法則すらも書き換える力を持つ、絶対的な巨大演算装置『グランド・プロトコル(真のハル)』。
それが今、特大のウイルス(一真とプラチナ)が発生したこの小さな街を、空間ごと物理的に「切り取り、ゴミ箱へ捨てる」ために、その巨大な影を現世へと降臨させたのだ。
「……マジかよ……。……どんだけ過保護なセキュリティ組んでやがるんだ、未来の連中は……」
一真は、血に濡れた口元を歪め、呆れたように、しかし決して折れない闘志を瞳に宿して、その巨大な神を見上げた。
『……お兄ちゃん……っ! 逃げて! あれは、私たちがどうにかできるレベルの相手じゃありません! 空間そのものを書き換える力を持ってるんです!!』
プラチナが、絶望に震えながら叫ぶ。
だが、一真は逃げなかった。
彼は、火傷でただれた両腕をゆっくりと下ろし、足を踏みしめた。
三二一〇円の全財産と、ボロボロのスマートウォッチ。
持っている武器は、相変わらずそれだけだ。
「……逃げる場所なんて、最初からねえよ」
一真は、夜空を覆う巨大な瞳に向かって、静かに、そして挑戦的に言い放った。
「……未来の親玉がわざわざお出ましか。……上等だ。俺たちの泥臭い日常がどれだけしぶといか……そのデカい目に、直接焼き付けてやるよ」
それは、一時の平和の終焉であり。
本当の最終決戦への、絶望的で壮大な幕開けだった。




