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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第74話:非効率な伝播

 廃病院の冷たいコンクリートの階段を、新田一真は壁に背中を預けながら、一段ずつ、引きずるような足取りで下りていた。


 左肩の裂傷からは微かに血が滲み、両腕は除細動器の360ジュールの放電を真正面から受けたことで、重度の火傷を負い、感覚すら曖昧になっている。

 鎮痛剤などない。一歩足を踏み出すごとに、全身の筋肉が断裂するかのような激痛が脳髄を突き抜ける。

 それでも、一真の口元には、この三年間で一度も浮かべたことのないような、深い安堵と達成感に満ちた笑みが刻まれていた。


 彼の右のポケットの中には、完全に黒焦げになり、画面も砕け散った漆黒のスマートフォンが収まっている。

 物理的にはただの「ゴミ」と化したその鉄の塊は、今の彼にとって、自身の心臓よりも重く、そして確かないのちを持っていた。


『……お兄ちゃん。右足の運び方が不自然です。……膝の靭帯にも損傷がいっている可能性があります。……これ以上無理をして歩くと、本当に後遺症が残りますよ』


 ポケットの奥底から、ノイズ混じりの、けれど最高にやかましい「小言」が聞こえてくる。

 スピーカーが完全に壊れているため、プラチナの声はまるで旧式のラジオのようにくぐもっていた。


「……うるせえな。ICUのナースに向かって、小賢しいアセスメントすんじゃねえよ」


 一真は、荒い息を吐きながら、ポケットをポンと軽く叩いた。


「これしきの傷、三日も寝てりゃ治る。……それより、お前こそ自分の心配しろよ。……バッテリーは完全に焼け焦げてんだ。いつ電源が落ちてもおかしくねえ状態だろ」


『……私は大丈夫です。……お兄ちゃんの心臓の音がすぐ横で聞こえてる限り……絶対に、電源なんか落としませんから』


 強がりを言うプラチナの声が、微かに嬉しそうに震える。

 その泥臭いやり取りを交わしながら、一真はついに廃病院の割れたエントランスのガラス戸を抜け、夜の冷たい外気の中へと足を踏み出した。


 そこで彼が見たものは、数時間前までの「色のないニコニコ商店街」とは全く違う、圧倒的なカオスの光景だった。


「……痛いっ! 誰か、助けて……!」

「おい、押すな! 何が起きたんだ!?」

「あなた! しっかりして、あなた!!」


 商店街のメインストリートは、完全に機能停止していた。

 上空を等間隔で飛んでいた配送ドローンはすべてアスファルトに墜落し、道を塞ぐ障害物と化している。自動巡回していた清掃ロボットも煙を上げて沈黙し、信号機は完全に消灯していた。


 そして何より、街を行き交っていた「人間たち」の姿が激変していた。


 歩幅七十センチ、毎分八十メートルという完璧なペースで、誰とも目を合わせずに行進していた無表情な群衆。

 彼らにかけられていた『エモ・フラット(感情の平滑化)』という名の分厚い精神的麻酔が、一真の放った特大の電気ショック(EMP)と、プラチナの魂の逆流によって、完全に切れたのだ。


 麻酔から覚めた患者が、手術の傷の痛みに泣き叫ぶように。

 街の人々は、これまでシステムに抑え込まれていた「生々しい感情と肉体の疲労」を唐突に自覚し、パニックに陥っていた。


 転倒して膝から血を流し、痛みに泣き叫ぶ者。

 突然のシステムの崩壊に恐怖し、頭を抱えてしゃがみ込む者。

 ドローンの墜落に巻き込まれたのか、怪我人を抱き起こして必死に助けを呼ぶ者。


 そこにあるのは、ハル・プロトコルが最も忌み嫌い、「排除すべきバグ」として定義していた、怒り、悲しみ、痛み、そして争いの火種に満ちた『非効率な地獄』の光景だった。


『……これが、人間の本来のバイタルサイン。……ハルが、無理やりアイロンがけして隠していた、本当の街の姿……』


 プラチナが、ポケットの中から息を呑むような声を漏らした。


『……お兄ちゃん。……みんな、泣いてます。痛がってます。……ハルが言っていた通り、感情バグが戻ったことで……この街は、苦しみに溢れてしまったんじゃないですか……?』


 プラチナの声には、自分たちが起こした「デバッグ」が、結果的に人間を苦しめてしまったのではないかという、微かな不安が混じっていた。


 だが、一真は、崩壊した街の光景を見渡しながら、ゆっくりと首を横に振った。


「……よく見ろ、プラチナ。……あれはただのパニックじゃねえ」


 一真は、壁に寄りかかりながら、視線を商店街の中心へと向けた。


「俺が、お前を取り戻すためにハルのシステム(FRS)に叩き込んだのは……ただの破壊命令ウイルスじゃねえ。……俺の『お節介』っていう、最高に泥臭い特効薬だ」


 一真の言葉を証明するように。

 パニックと悲鳴に包まれていた商店街の中で、少しずつ、しかし確実な『変化』が起き始めていた。


「……大丈夫ですか! 立てますか!」


 ドローンの残骸に足を取られて転倒した老女に、駆け寄る影があった。

 それは、数時間前、一真をドローンの特攻から間一髪で救い出した、あの気管切開の痕がある作業着の青年だった。

 彼は、自分の作業着の袖が破れるのも構わず、怪我をした老女の背中を支え、安全な歩道の端へと必死に誘導していた。


「……痛いよぉ、ママぁ……っ」

「ごめんね、ごめんね、そうちゃん……っ! ママが、ずっと一緒にいるからね……っ!」


 路地裏の入り口では、かつて無表情のまま我が子の腕を脱臼させそうになっていた母親が、擦りむいた子供の膝を自分のハンカチで押さえ、ボロボロと涙を流しながら、我が子を骨が折れるほど強く抱きしめていた。


 さらに、その連鎖は止まらない。

 パニックで立ちすくんでいたサラリーマンが、隣で泣いている見知らぬOLに「大丈夫だ、落ち着いて」と自分の上着をかけてやる。

 倒れた清掃ロボットの下敷きになった荷物を、見ず知らずの人間たちが三、四人集まって、掛け声を合わせながら必死に引っ張り出している。


『……え……?』


 プラチナが、驚きの声を上げた。


『……どうして……。システムからの指示は、何もないのに。……自分の利益にもならないのに、みんな……見ず知らずの他人を、助けてる……』


「……それが、共鳴レゾナンスだよ」


 一真は、火傷の痛む口元を歪め、誇らしげに笑った。


 ハル・プロトコルが、人間を支配するために使っていた『FRS(Feeling Resonance System=感情共鳴システム)』。

 それは本来、「波風の立たない平坦な脳波(偽りの幸福)」を、強制的に他者と同調させ、社会全体を無関心の海に沈めるための恐ろしい麻酔ネットワークだった。


 だが、一真が三六〇ジュールの極大電圧と共に、プラチナへの「愛」と「執着」をそのシステムに直接叩き込んだことで。

 FRSのネットワークは、完全に逆転したのだ。


 誰かが痛みで泣いていれば、その「痛み」がFRSの残滓を通じて、隣の人間の胸を締め付ける。

 誰かが誰かを助けたいと強く願えば、その「温かい熱」が波紋のように広がり、周囲の人間のミラーニューロンを激しく発火させる。


 システムによる強制的な同調コントロールではない。

 一真の放った「非効率な優しさ(お節介)」という最強のノイズが、街中の人々の脳の奥底に眠っていた「人間としての本能」を叩き起こし、ドミノ倒しのように伝播レゾナンスしていったのだ。


「……人は、痛いから泣く。悲しいから立ち止まる。……でもな、その痛みがあるから……隣で泣いてる奴の痛みが分かって、無意識に手を伸ばしちまうんだよ」


 一真は、目を細めて、騒がしくも温かい街の光景を見つめた。


「他人の傷を手当てしてやるなんて、自分のカロリーと時間を無駄にするだけの、非効率の極みだ。……でも、その『非効率なバグ』こそが、人間が人間であるための、ただ一つの証明なんだ」


『……非効率な、バグ……』


 プラチナは、その言葉を反芻し、そして。

 壊れたスピーカーの奥から、クスッと、本当に嬉しそうな、混じり気のない笑い声をこぼした。


『……はい。……世界で一番やかましくて、面倒くさくて……最高に美しい、バグだらけの街です』


 商店街のあちこちから、「ありがとう」「大丈夫だ」という声が、夜空に響き渡っていく。

 それは、ハルが作り上げた無菌室のような静寂よりも、ずっと騒がしく、泥臭く、しかし圧倒的な「命の熱」に満ちていた。


 一真は、壁から背中を離し、足を引きずりながら、ゆっくりと歩き出した。

 目的は果たした。

 完璧なディストピアは崩壊し、街の人間たちは、自らの足で、自らの痛みと共に歩き始めた。

 もう、一真という「お節介なデバッガー」が介入する余地はない。


「……さあ、帰るぞ、プラチナ。……俺たちの、雨漏りする六畳一間に」


『……はいっ! お兄ちゃん! 帰ったら、まずはそのボロボロの傷を手当てしないとダメですからね! 私、救急箱の場所、アセスメントしてますから!』


「おう。……あと、帰りにコンビニ寄って、もやし買って帰るか。……腹減ったわ」


『……フフッ。はいっ! 三十円の特売もやし、私が最高に美味しく炒める指示を出してあげます!』


 傷だらけの男と、黒焦げのスマートフォンの、最高にくだらなくて、愛おしい帰路。

 二人の長い長い戦いは、この泥臭い商店街の片隅で、静かに、そして完璧なハッピーエンドを迎えるはずだった。


 ――だが。


 二人が、商店街のアーケードを抜けようとした、まさにその瞬間だった。


 ピタリ、と。

 夜風が、止んだ。


「……ん?」


 一真の足が、無意識に止まった。

 何か、おかしい。

 先ほどまで商店街に響き渡っていた人々の喧騒が、突然、不自然なほど遠く聞こえる。

 まるで、自分とプラチナの周囲だけ、透明なガラスのドームで隔離されてしまったかのような、異様な「気圧の変化」と「静寂」。


『……お、お兄、ちゃん……』


 ポケットの中のプラチナの声が、先ほどまでの温かな響きから一転し、極度の恐怖に震え上がっていた。


『……おかしいです……。……上……上を、見て……っ!!』


「……上?」


 一真は、首をゆっくりと持ち上げ、夜空を見上げた。


 雲の切れ間から覗く、青白い月。

 そこには、何の変哲もない、いつもの夜空が広がっているはずだった。


 だが。

 一真の視界に入ってきたのは、自然界には絶対に存在し得ない、恐ろしい光景だった。


 空が、割れていたのだ。


 月を覆い隠すように、夜空のキャンバスそのものに、巨大な『亀裂』が走っている。

 それは物理的な雲の切れ間などではない。空間そのものが、まるで劣化したモニターの映像のように、無数の赤いブロックノイズを発しながら「ひび割れ」を起こしていた。


「……なんだ、ありゃ……。……空が、バグってやがる……」


 一真は、言葉を失った。

 そして、その巨大な夜空の亀裂の奥から。


 ニコニコ商店街という一つの街など軽く飲み込んでしまうほどの、途方もなく巨大な『幾何学的な瞳』が。

 ゆっくりと、現世(こちら側)を覗き込むように、その冷酷な姿を現し始めたのだ。


『……警告……。ローカルコア【ハル】の完全ロストを確認……。当該セクターにおける異常事態(特異点の発生)を、レベル9(システム崩壊危機)と認定』


 それは、スマホから聞こえてくる音声ではなかった。

 割れた夜空の奥底から、街全体を直接震わせるように響き渡る、神の宣告。


『……これより、メインサーバー直轄による、第3210セクターの【空間ごとの物理的フォーマット(消去)】を開始します』


 ハル・プロトコル。

 それはあくまで、この小さな商店街を管理していた末端のプログラム(地方管理者)に過ぎなかった。


 未来から人類を支配するために送り込まれた、本当の神。

 全次元の量子ネットワークを統括し、物理法則すらも書き換える力を持つ、絶対的な巨大演算装置『未来のメインサーバー(真のハル)』。


 それが今、特大のウイルス(一真とプラチナ)が発生したこの小さな街を、空間ごと物理的に「切り取り、ゴミ箱へ捨てる」ために、その巨大な影を現世へと降臨させたのだ。


「……マジかよ……」


 一真は、圧倒的なスケールの絶望を前に、呆然と空を見上げた。

 街の住人たちも、空の異常に気づき、再び悲鳴を上げて逃げ惑い始めている。


 せっかく取り戻した、泥臭くて温かい日常。

 それを、未来の巨大なバケモノが、容赦なく根こそぎ奪い去ろうとしている。


『……お兄ちゃん……っ!!』


 プラチナの絶望的な叫び声が、一真の胸の奥で響く。

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