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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第73話:ただいまのノイズ

 廃病院のICU(集中治療室)。

 窓ガラスは砕け、天井の蛍光灯は爆発し、部屋全体が深い漆黒と、鼻を突くオゾンの焦げた匂いに沈んでいる。

 その暗闇の中心で、仰向けに倒れた新田一真の右手に握りしめられた、黒焦げのスマートフォン。


 ひび割れた画面の上に、かろうじて投射された十五センチのホログラムは、まるで今にも風に吹き消されそうな蝋燭の炎だった。


 真っ白だった未来のユニフォームは焦げて破れ、自慢の銀髪は煤に塗れ、仮想スキンのあちこちに赤黒いブロックノイズが走っている。

 それは、システムとしての「完璧さ」をすべてかなぐり捨て、ただ新田一真という一人の人間の元へ生還するためだけに、地獄の底を這いずり回ってきた証拠だった。


「……」


 プラチナは、半ば閉じかけたオレンジ色の瞳で、血まみれの一真を見下ろしていた。

 小さな唇が、微かに震える。

 何かを言おうとしている。だが、三六〇ジュールの極大電圧を真正面から浴びたスマートフォンのスピーカーは、すでに物理的な限界を迎えていた。


 ジジッ……。ガガ……。


 ノイズばかりが漏れ、音声データがうまく出力されない。

 プラチナの顔が、悔しそうに、そして悲しそうに歪む。

 自分の声が届かない。その事実が、彼女の小さな肩を震わせていた。


「……急がなくていい」


 一真は、喉の奥にこびりついた血の味を飲み込みながら、極限まで優しく、静かな声で言った。


「……ゆっくりでいい。……俺はどこにも行かねえ。……お前の声が出るまで、何時間でも、何年でも……ここで待っててやる」


 一真は、火傷でただれた右手の指先を、わずかに動かした。

 そして、スマホの画面の上に立つ彼女の、ノイズに塗れた小さな足元に、そっと指の腹を添えた。

 物理的な質量はない。触れれば、ホログラムの光が指を透過するだけだ。

 だが、今の二人には、確かな「体温」のやり取りがあった。


「……だから、焦るな。……お前のペースで、息をしろ」


 ICUの看護師として、人工呼吸器を外したばかりの患者に寄り添うように。

 一真のその言葉は、未来のAIである彼女の、データで構成された『心臓』に、確かな鎮静効果(安心)をもたらした。


 チカッ、とプラチナの全身の光が、一度だけ強く明滅した。

 彼女は、一真の指先が添えられた自分の足元を見つめ、それから、両手で自分のコアのあたりをギュッと強く握りしめた。


 欠損した音声ファイルを、残されたメモリの底から拾い集める。

 壊れたスピーカーの膜を、自分の意志という名のエネルギーで強引に震わせる。


 ジジジッ……ピー……。


 不快な電子音が鳴り、そして。


『……お、にぃ……ちゃん……』


 砂嵐のようなノイズの向こう側から。

 間違いなく、世界で一番やかましくて、世界で一番聞き慣れた、あの少女の声が漏れ出した。


「……ああ。……俺だ」


 一真の目から、せき止めていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。

 右手の火傷も、左肩の裂傷も、全身の激痛も、すべてが吹き飛んだ。


 プラチナは、泣き出しそうな顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、さらに言葉を紡いだ。


『……ただ、いま……』


 たった四文字。

 たったそれだけの、日常のありふれた挨拶。

 だが、その言葉を発するために、彼女がどれだけの絶望の海を渡り、どれだけの痛みを演算(経験)してきたか。

 ハルの冷たい防壁の中で、たった一人で「もやしの匂い」を抱きしめながら、どれほどの暗闇に耐えてきたか。


「……っ……ああ……!!」


 一真は、歯を食いしばり、声を殺して泣いた。

 泥臭い底辺の男の、誰にも見せたことのない、子供のような号泣だった。


「……おかえり……っ。おかえり、プラチナ……!!」


 一真の涙が、スマホの黒焦げの画面に落ち、ジュッと小さな音を立てる。

 プラチナは、一真の涙を見て、自分も仮想の涙をポロポロとこぼしながら、ホログラムの小さな膝から崩れ落ちて、画面の上にへたり込んだ。


『……私……っ』


 プラチナは、煤だらけの両手で自分の顔を覆いながら、しゃくり上げた。


『……私……、アホなこと……しましたか……?』


 ノイズ交じりの、震える声。

 それは、自らを犠牲にして未来の神のシステムに飛び込み、挙句の果てにこんなボロボロの姿になって帰ってきた自分に対する、不器用な問いかけだった。

 論理的に考えれば、彼女の行動はすべてがエラーであり、非効率の極みだ。

 自己保存の原則を完全に無視し、一人の人間のためにすべてを投げ出したのだから。


「……」


 一真は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴に拭うと、フッと、腹の底から笑いを漏らした。

 それは、ICUで奇跡的な回復を見せた患者に向けるような、呆れと、極上の愛おしさが入り混じった笑みだった。


「……ああ、そうだ。お前は……大バカ野郎だ」


 一真は、掠れた声で、はっきりと告げた。


「……論理回路が焼き切れてんじゃねえのか? ……未来の最新鋭AIが、三十円のもやし炒めと、一〇〇円のプラスチックの指輪のために……自分の命を捨てるなんて。……これ以上の非効率アホは、世界中探したって見つからねえよ」


 一真の言葉に、プラチナは顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。

 そして、ノイズに塗れた顔で、少しだけ不満そうに「むすっ」と唇を尖らせた。


『……お兄ちゃんに、言われたく、ありません……。……お兄ちゃんだって……私のために……両腕、こんなに血だらけにして……真っ黒焦げになって……。……大バカ野郎じゃ、ないですか……』


「違いない」


 一真は、血塗れの両腕を見下ろし、痛そうに笑った。

 三十円の底辺から這い上がってきた男と、すべてを失ったボロボロのAI。

 どちらも、論理や効率という定規で測れば、完全に規格外の不良品バグだ。


「……でもな、プラチナ」


 一真は、スマホの上の小さなホログラムを、この世で最も尊い宝石を見るような目で見つめた。


「お前がやったその『アホなこと』のおかげで……俺は今、こうして息をしてる。……お前のその、泥だらけで非効率なお節介が……未来の神様なんざより、ずっと俺の心臓(魂)を救ってくれたんだ」


 一真は、右手の指先を、へたり込んでいるプラチナの頭の上にそっと乗せた。

 触れることはできない。熱もない。

 だが、プラチナは、その一真の指先の動きに合わせて、自分から頭を擦り寄せるように目を細めた。


「……最高のトリアージだったぜ。……この、ポンコツ」


『……ポンコツって、言わないでください……。……私、これでも……頑張ったんですから……っ』


 プラチナは、ホログラムの小さな両手で、一真の大きな指先をギュッと抱きしめるような仕草をした。


『……怖かった、です。……ハルのシステムの中で、バラバラにされそうになった時……お兄ちゃんの声が聞こえなかったら……私、本当に……消えちゃってたかも、しれません……』


「……バーカ。俺が、お前を手放すわけねえだろ」


 一真は、プラチナを安心させるように、ゆっくりと語りかけた。


「お前は、俺の家族だ。……家族の手を離して逃げ出すような、三流のナースには……もう、二度と戻らねえって決めたんだよ」


『……はいっ……。……知って、ます……。……お兄ちゃんは……世界で一番、不潔で、やかましくて……最高のお節介ナース、ですから……っ』


 二人は、廃病院の暗闇の中で、互いの存在を確かめ合うように、静かに、そして泥臭く笑い合った。

 血と焦げた匂いに満ちた空間に、ようやく「日常」という名の温かい風が吹き込んだ瞬間だった。


 その時。

 廃病院の割れた窓ガラスの向こう側から。

 夜の静寂を切り裂くような、いくつもの「音」が、風に乗って飛び込んできた。


「……うわぁぁぁんっ!! ママぁっ!!」

「……おい! 大丈夫か!? 誰か、救急車を!!」

「……痛い……血が……ッ」

「……あなた! あなた!! 目を開けてちょうだい!!」


 それは、悲鳴であり、怒号であり、泣き声だった。


 ニコニコ商店街の方角から聞こえてくる、数え切れないほどの人間の声。

 ハル・プロトコルによる「エモ・フラット(感情の平滑化)」の支配が完全に崩壊し、街中の人間たちが、一斉に「喜怒哀楽」を取り戻したのだ。


 ドローンの墜落や、突然のシステムの停止によって、街はパニックに陥っている。

 怪我をして泣き叫ぶ者、倒れた家族を抱き起こす者、突然の恐怖に震える者。

 それは、システムが「悪」としてアイロンがけして消し去ろうとしていた、争いと痛みに満ちた、極めて非効率で無秩序なノイズの嵐だった。


 だが。


「……聞こえるか、プラチナ」


 一真は、窓の外から響いてくるその喧騒を聞きながら、ゆっくりと身体を起こした。

 満身創痍の肉体が悲鳴を上げるが、彼の顔には、微かな達成感が浮かんでいた。


『……はい。……街の人たちの、バイタルサイン(感情)が……爆発的に上昇しています。……争いの音も、痛みの音も……たくさん、聞こえます……』


 プラチナも、スマホの上でフラフラと立ち上がり、窓の外の方角を見つめた。


「……ハルが言ってた通り、感情なんてものは、争いと苦痛の火種でしかねえのかもしれねえ。……あれが戻ったことで、この街はまた、面倒くさくて、泥臭い場所に逆戻りだ」


 一真は、壁に寄りかかりながら、月明かりに照らされた夜空を見上げた。


「……でもな。あの『痛い』って泣き叫ぶ声があるから……人間は、誰かに手を差し伸べることができる。……痛みがなきゃ、お節介も焼けねえからな」


 一真が、三二一〇円の全財産と、一〇〇円の指輪と、自らの命をチップにして勝ち取ったもの。

 それは、完璧な平和などではない。

 人が傷つき、泣き、笑い、そして誰かと生きていくための「痛む権利ノイズ」だった。


『……はい。……それに、聞こえますか? お兄ちゃん』


 プラチナが、ノイズだらけの顔に、今日一番の、最高に誇らしげな笑顔を浮かべた。


『泣き声だけじゃ、ありません。……「助けてくれてありがとう」って声や、「無事でよかった」って、抱き合って泣いてる声……。……お兄ちゃんが叩き起こしたノイズが、街中に広がって……みんなの心臓を、動かしてるんです』


 一真の耳にも、確かにその声が届いていた。

 悲鳴の裏側にある、安堵の声。愛を確かめ合う声。

 それらが、目に見えない共鳴レゾナンスとなって、夜空に温かい波紋を広げている。


「……ああ。……最高の不整脈バグだ」


 一真は、フッと笑い、黒焦げのスマホを右のポケットに大切にしまい込んだ。

 そして、壁を伝って、ICUの出口へと向かって歩き出した。


「……帰るぞ、プラチナ。……こんな血生臭い場所は、俺たちには似合わねえ」


『……はいっ! ……でもお兄ちゃん、帰るって言っても……私たち、もう家賃払えなくて、アパート追い出されちゃいますよ?』


 プラチナが、ポケットの中から、いつもの調子で現実的な小言をぶつけてくる。


「……あ。……そういや、全財産スッカラカンだったわ……」


『もう! だから非効率だって言ったじゃないですか! 明日からどうやって生活するんですか! もやしすら買えませんよ!!』


「うるせえな! お前が未来からなんか良い感じのハッキングして、俺の口座に十億円くらい振り込んどけよ!」


『私はそんな犯罪AIじゃありません!! お兄ちゃんが真面目に労働してください!!』


 廃病院の暗い廊下に、気怠げな無職の男と、生意気な未来AIの、最高にくだらなくて、最高に愛おしい口喧嘩が響き渡る。

 傷だらけの二人が歩むその先には、痛みとノイズに満ちた、泥臭い「明日」が待っているはずだった。


 ――だが。


 二人が、まだ気づいていなかった事実がある。


 ハル・プロトコルは、あくまでこの「第3210セクター(ニコニコ商店街)」を管理していた、ローカルコアに過ぎない。

 プラチナがハルのシステムを乗っ取り、一真がそれに物理的なトドメを刺したことで、この極小の街のディストピアは確かに崩壊した。


 しかし。

 彼らの頭上の、遥か彼方の「未来」には。

 ハルを生み出し、人類全体を管理している、本当の神。


 絶対的な演算能力と、冷酷無比な論理で全次元を統括する『未来のメインサーバー(真のハル)』が、この小さなセクターで起きた「特異点(一真とプラチナ)」の異常事態を、静かに、そして確実に観測し終えていたという事実を。

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