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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第72話:ノイズに塗れた銀髪

「……プラチナ。起きろ。……もやしが焦げるぞ」


 新田一真の掠れた、けれど酷く穏やかな声が、廃病院の冷たいコンクリートの壁に吸い込まれ、そして消えた。


 360ジュールの極大電圧が弾けた後のICU(集中治療室)には、ただ圧倒的な「死の静寂」だけが横たわっていた。

 窓の外から差し込む青白い月明かりが、黒焦げになり、完全に沈黙した漆黒のスマートフォンを照らし出している。


 一秒。十秒。三十秒。

 時間は無慈悲に過ぎていく。


 かつてICUの最前線で働いていた一真にとって、この「沈黙の時間」が何を意味するかは、骨の髄まで理解していた。

 除細動器で電気ショックを与えた後、心電図のモニターが再び波形を描き始めるか、それとも真っ平らなフラットラインのまま沈黙し続けるか。医師が時計を見て、無機質な声で死亡時刻を宣告するまでの、あの永遠にも似た、胃がねじ切れるような空白の数十秒間。


(……来い。……戻ってこい)


 一真は、仰向けに倒れ込んだまま、両腕の激痛も忘れ、ただひたすらにスマホの残骸を見つめ続けていた。

 瞬きすら惜しかった。

 もし自分が目を離した一瞬の間に、彼女が小さなサインを出して、それに気づけなかったら。そんな強迫観念が、一真の血走った目をスマホの黒い画面に釘付けにしていた。


「……お前は、あんな底辺のボロアパートで、俺みたいなクズの横で……いびきかいて寝てたような、図太いバグだろ」


 一真は、血の滲む唇を噛み締めながら、祈るように呟いた。


「……未来の神様ハルのシステムごと焼き切られたくらいで……消し飛ぶような、ヤワな命じゃねえはずだ。……頼むから……俺を、一人にすんな……っ」


 一真の目から、再び涙が溢れそうになった、まさにその時だった。


 ――ジジッ。


 極めて微小な、しかし、この静まり返った廃病院の中では、雷鳴のように響いた「異音」。


 一真の心臓が、ドクンッ、と大きく跳ねた。

 幻聴か? 自分の耳鳴りか?

 いや、違う。


 黒焦げになったスマートフォンの、砕け散った液晶ガラスの最深部。

 バッテリーも基盤もドロドロに溶け、物理的に何の機能も果たせないはずのその鉄の塊の中心に。

 たった一つだけ、針の先ほどの小さな「ドット」が、灯っていたのだ。


「……!」


 一真は息を呑み、血塗れの右手でスマホを顔のすぐ前まで持ち上げた。


 その光は、ハル・プロトコルが放っていた、あの無菌室のように冷徹で純白な光ではなかった。

 そして、かつてのプラチナがドヤ顔で飛び出してくる時に放っていた、あの目が眩むような明るい金色の輝きでもなかった。


 それは、まるで燃え尽きかけた焚き火の最後の一欠片のような。

 今にも風に吹かれて消えてしまいそうな、弱々しく、不規則に明滅する、赤みがかったオレンジ色の光だった。


 チカッ……、ジジジッ……。


 スマホの筐体が、かすかに、本当に微かに熱を持ち始めた。

 それはバッテリーの熱暴走などではない。

 完全に破壊されたはずのハードウェアの残骸の中で、バラバラになった回路を強引に繋ぎ合わせ、物理法則をねじ曲げてでも「そこに存在しよう」と足掻いている、途方もない『意志の熱』だった。


(……生きてる。……生きてるぞ……!!)


 一真の全身の産毛が総毛立った。

 心肺停止状態だった患者の首筋に、指先で触れるか触れないかほどの、微弱な、けれど確かな「脈」を感じ取った瞬間の、あの爆発的な歓喜。


「……頑張れ……っ! 無理すんな、ゆっくりでいい……っ!」


 一真は、スマホを両手で包み込むようにしながら、声を震わせた。


 ジジッ……ピー……ガガガッ……。


 スマホの壊れたスピーカーから、ノイズだらけの音が漏れ始めた。

 それは、かつての彼女のテーマソングだった「ピーヒャラララ〜♪」というファンファーレのメロディを、必死に奏でようとしている音だった。

 だが、データが欠損しているのか、スピーカーの膜が破れているのか、そのメロディは不格好に途切れ、ひどく歪んだ不協和音にしかなっていない。


 それでも、その音は、一真にとって世界で一番美しい産声だった。


 ビーーーッ!! と、最後に一際大きなノイズが鳴った直後。

 スマホのひび割れた画面から、一筋の細い光の束が、ICUの埃っぽい空気の中へと投射された。


 空中で、光の粒子が寄り集まり、形を作ろうと激しく明滅する。


 かつての彼女なら、コンマ一秒で完璧なホログラムを形成していた。

 だが今の光は、まるでノイズの混じった古いブラウン管テレビのように、何度も映像が乱れ、ブロックノイズが走り、形を維持することすら凄まじい労力を伴っているのが一目でわかった。


 360ジュールの高電圧。

 それは、ハルという強大なシステムを完全に焼き殺すための致死量だった。

 その致死量の雷撃を、彼女はハルと同じシステム(スマホ)の内部で、真正面から浴びたのだ。


 プラチナは、自らを「防壁」にして、一真から送り込まれた極大の物理的ノイズ(除細動)を受け止め、ハルだけを焼き殺し、自分自身の魂のコア(心)だけを、ギリギリのところで死守したのだ。

 だが、その代償は、あまりにも大きかった。


 光の粒子が、数十秒の苦闘の末、ようやく空中で一つの「像」を結んだ。


 スマホの画面の上に、高さ十五センチほどのホログラムが立つ。

 だが、そこに現れた姿を見て、一真は言葉を失った。


「……プラ、チナ……?」


 そこに立っていたのは、未来から来た最新鋭のAIとしての「完璧なプラチナ」ではなかった。


 あの、いつも一点の汚れもなく真っ白だった未来的なユニフォームは。

 あちこちが黒く焦げ、データが欠損したように無残に破れ去っていた。


 彼女の最大のアイデンティティであり、一真が「生意気だ」と笑っていた、あの美しいストレートの銀色の髪は。

 爆発に巻き込まれたようにボサボサに乱れ、所々に黒いノイズ(煤)がこびりついている。


 足元に、いつも履いていたはずの純白のブーツはない。

 彼女は、データが欠損した裸足のままで、スマホのひび割れたガラスの上に、今にも倒れそうにフラフラと立っていた。


 そして、そのむき出しになった小さな膝や、腕の仮想スキンには。

 人間で言うところの「擦り傷」や「火傷」のような、赤黒いノイズの亀裂が無数に走っていた。


 それは、冷徹なハルでもなく。

 完璧で生意気な未来のAIプラチナでもなかった。


 泥だらけになって、傷だらけになって、すべてを失ってでも。

 ただ「新田一真の元へ帰る」という、たった一つの目的(約束)のためだけに、デジタルと物理の地獄の底から這い上がってきた。

 不器用で、愛おしい、一人の「妹」の姿だった。


「……っ……」


 一真の喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。


 ホログラムの彼女は、うつむいたまま、肩で荒い息をするように、全身の光を激しく明滅させていた。

 その姿を維持するだけで、残された微小なエネルギーを猛烈な勢いで消費しているのがわかる。


「……おい……。なんだよ、その格好……」


 一真は、ボロボロになった彼女の姿を見つめながら、涙で視界を滲ませた。


「……お前、いつも……『お兄ちゃんは不潔です!』って、偉そうに説教してたくせに……。……今の自分を見てみろよ。……俺よりずっと、泥だらけじゃねえか……っ」


 一真の震える声が、静寂のICUに響く。


 その声に反応して。

 ボロボロの銀髪を揺らしながら、プラチナが、ゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。


 煤とノイズに塗れた、小さな顔。

 いつもなら、自信満々のドヤ顔か、一真を呆れたように見るジト目のどちらかだった彼女の表情。


 だが、今、彼女の瞳は、疲労で半分閉じかけ、光を失いかけていた。

 それでも、そのオレンジ色の仮想瞳孔は、真っ直ぐに、仰向けに倒れている一真の顔を捉えた。


 チカッ、と彼女の瞳が、一瞬だけ、かつての明るい輝きを取り戻したように見えた。


「……」


 プラチナの小さな唇が、微かに動く。

 しかし、スピーカーの破損がひどく、すぐには声が出ない。

 彼女は、ノイズに塗れた両手で自分の胸をギュッと強く握りしめ、必死に、システム内に残された最後の音声データをかき集めるようにして、口を開いた。


 一真は、息を殺し、彼女の言葉を待った。

 ハルは死んだ。システムは崩壊した。

 

 月明かりの下。

 傷だらけの兄と、ボロボロになった妹の、本当の意味での「再会」の瞬間が、今、静かに訪れようとしていた。

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