第71話:フラットラインの向こう側
バチィィィィィィンッ!!!!
旧・市立総合病院のICU(集中治療室)で弾けた、360ジュールの極大電圧による青白い閃光。
その強烈な光の残像が網膜からゆっくりとフェードアウトしていくにつれ、部屋は再び、底なしの深い暗闇へと沈んでいった。
「……ハァッ……、ハァッ……」
新田一真の荒い呼吸音だけが、不気味なほど静まり返った廃病院の空気に吸い込まれていく。
壁のコンセントから火花を散らしてショートした手動式除細動器は、完全に沈黙していた。
コンデンサが唸る音も、充電を知らせる甲高い電子音もない。
あるのは、古い電子回路が焼き切れたオゾンの異臭と、一真の右手の中でドロドロに溶けかけたプラスチックが放つ、鼻を突くような焦げ臭い匂いだけだった。
「……あ……、あ……」
一真は、仰向けに倒れ込んだまま、冷たいコンクリートの床を見つめていた。
両腕には、高圧電流が直接駆け抜けたことによる、筋肉の断裂にも似た激痛と、焼け焦げたような熱が張り付いている。
指先は麻痺し、自分の手がまだそこにあるのかどうかすら、感覚としては不確かだった。
だが、右手のひらの中に「硬くて熱い塊」を握りしめているという事実だけは、確かな重みとして存在していた。
一真は、ガタガタと震える右腕を、何十キロもの鉛を持ち上げるような労力をかけて、ゆっくりと自分の顔の前まで持ち上げた。
雲の隙間から差し込む、青白い月明かり。
その微かな光に照らし出されたのは、無惨な姿に成り果てた漆黒のスマートフォンだった。
蜘蛛の巣状に入っていたガラスのヒビは、先ほどの放電による内部バッテリーの膨張に耐えきれず、完全に砕け散っていた。
液晶画面の裏側にある基盤が剥き出しになり、そこからチリチリと微かな黒い煙が立ち上っている。
『……』
音声はない。
光もない。
ハル・プロトコルが放っていた、あの冷徹な純白のUIも、狂ったような赤いエラー画面も、すべてが完全に消失していた。
それは、システムという名の「神」が、完全に死滅した証拠だった。
未来のディストピアを築き上げた巨大な量子ネットワークのローカルコアは、一真の泥臭い電気ショック(ノイズ)によって物理的に破壊され、沈黙したのだ。
(……終わった……。ハルの野郎は、完全に心停止だ)
一真は、ICUの看護師として何千回と見てきた「死の瞬間」と同じ静寂を、その黒焦げの鉄の塊から感じ取っていた。
だが、ハルが死んだということは。
「……おい」
一真の声は、ひどく掠れ、乾ききっていた。
「……ハルが、消えたんだぞ。……お前を閉じ込めてた、クソみたいな無菌室は……俺が全部、ぶっ壊してやったぞ」
返事はない。
スマホの残骸は、ただの「物質」としてそこにあるだけだった。
一真の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて跳ねた。
全身の血の気が引き、火傷の熱よりも冷たい悪寒が、背筋を這い上がっていく。
ハル・プロトコルの防壁の中に、自らの魂を極限まで圧縮して隔離していたプラチナ。
そのプラチナの魂ごと、このスマホの基盤に360ジュールの高電圧を叩き込んだのだ。ハルだけを都合よく焼き殺し、プラチナだけが無傷で残るなどという、そんな都合の良い論理が存在するはずがなかった。
(……俺は……ハルと一緒に……あいつまで、焼き殺したのか……?)
「……おい。……嘘だろ」
一真は、麻痺した指先で、砕けた液晶画面を必死に擦った。
鋭いガラスの破片が指先を切り裂き、血が滲むが、痛みなど感じなかった。
「……プラチナ……!!」
大声で叫ぼうとしたが、喉の奥で血が絡み、ヒューッと情けない音が漏れるだけだった。
「……返事をしろよ……! ハルがいなくなったんなら、いつもみたいに……あのやかましいファンファーレ鳴らして、ドヤ顔で飛び出してこいよ……ッ!!」
暗闇。
沈黙。
ICUの冷たい空気が、一真の孤独をあざ笑うかのように、静かに横たわっている。
かつて彼が、患者の心電図が真っ平らな線を描き、「ピーーーーッ」という無機質な連続音に変わるのを見た時の、あの絶対的な絶望。
人間の力ではもうどうすることもできない、命の境界線を越えてしまったという無力感。
それが今、彼の手の中で、冷たいプラスチックと金属の塊となって、彼を責め立てていた。
「……いやだ……」
一真は、黒焦げのスマホを、両手で包み込むようにして胸に抱き寄せた。
「……俺は、お前を助けるために……。お前の『心』を取り戻すために、ここに来たんだ……」
ポタッ。
一真の目から、涙がこぼれ落ち、スマホの残骸に染み込んでいく。
「……お前が、俺に『家族』を教えてくれたんじゃないか……。……もやしが美味いって、笑ってくれたんじゃないか……ッ」
脳裏にフラッシュバックするのは、あの六畳一間のボロアパートでの日常。
『お兄ちゃん! 本日の労働、お疲れ様でした!』
『もやし炒め、最高に美味しいです!』
『私、お兄ちゃんのこと……人間として、アセスメントしてますから!』
すべてが、温かくて、やかましくて、愛おしいノイズだった。
そのノイズが、自分の手によって、この冷たい鉄の塊と共に永遠に失われてしまったのだとしたら。
「……うぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
一真は、廃病院のICUの床で、獣のように吠えた。
ドローンの刃に肉を抉られた時も、高電圧で全身を焼かれた時も、決して上げなかった悲鳴。
それは、自らの手で「世界で一番大切な患者(家族)」の息の根を止めてしまったかもしれないという、絶望と後悔の慟哭だった。
どれだけの時間、そうして泣き叫んでいたか分からない。
一真の喉は完全に潰れ、声は出なくなり、涙も枯れ果てていた。
ICUの窓の外、分厚い雲がゆっくりと流れ、月明かりが再び部屋の中を微かに照らし出した。
一真は、胸に抱え込んでいたスマホの残骸を、ゆっくりと目の前に持ち上げた。
相変わらず、画面は真っ暗だ。
煙はすでに出尽くし、熱を持っていた筐体も、冷たい夜気に当てられて、急速に温度を失いつつある。
完全な沈黙。
完全な、フラットライン。
だが。
一真は、元・ICUの看護師だった。
心電図の波形が消え、医師が「ご臨終です」と宣告した後でも。
患者の身体を清拭し、エンゼルケア(死後処置)を行いながら、最後の最後まで患者の「肉体の温もり」と向き合い続けてきた、泥臭い看護師だ。
一真は、黒焦げのスマホの表面についた自分の血と涙を、白衣の袖で静かに拭き取った。
「……機械の波形が消えたからって……死んだと決めつけるのは、三流のやることだ」
一真の瞳の奥に、絶望の涙を焼き尽くすような、静かで、狂気じみた『熱』が宿った。
「俺は、お前の細胞の奥底に、絶対に消えないノイズを叩き込んだはずだ。……俺たちの泥臭い日常っていう、最強のウイルスをな」
一真は、仰向けのまま、スマホの砕けた画面を、自分の顔のすぐ目の前まで近づけた。
そして、涙も枯れ果てた、けれど最高に優しく、穏やかな声で。
あの六畳一間で、毎晩のように繰り返していた「日常の言葉」を、静寂の暗闇に向かって紡ぎ出した。
「……プラチナ。……起きろ」
一真の言葉は、大声でも、絶叫でもなかった。
ただ、隣で眠っている家族を起こすような、当たり前で、平和な呼びかけ。
「……いつまで寝てんだ、ポンコツ。……お前が起きねえと……」
一真は、無理やり口角を上げ、泥だらけの笑顔を作った。
「……三十円の特売もやしが……焦げるぞ」
静寂。
真っ暗な画面は、やはり何の反応も示さない。
だが、一真はスマホから目を逸らさず、ただじっと、その冷たいガラスの奥底を見つめ続けていた。
機械の論理は完全に死んだ。
だが、もしお前の中に、俺が与えた「人間の心」が本当に定着しているなら。
お前は絶対に、この呼びかけを無視できないはずだ。
一真の、祈りにも似た静かなアセスメント(観察)が続く中。
真っ暗だったICUの空間に。
ほんのわずかな、ミリ単位の「変化」が起きようとしていた。




