第70話:緊急処置
ニコニコ商店街の放送室から放たれた特大のEMP(電磁パルス)は、街を支配していたハル・プロトコルの量子ネットワークを物理的に焼き切った。
空を覆っていたドローンは墜落し、群衆は感情を取り戻して混乱の声を上げている。
だが、戦いは終わっていなかった。
「……ハァッ……、ハァッ……!!」
新田一真は、血塗れの右手で漆黒のスマートフォンを握りしめたまま、夜の闇に沈む巨大なコンクリートの建物の前に立っていた。
ニコニコ商店街の郊外にある、三年前に閉鎖された『旧・市立総合病院』。
かつて一真がICUの看護師として働き、そして命の重圧に耐えかねて逃げ出した、彼の原点にして最大のトラウマの場所だ。
『……警告。システムコアの損傷率、八十五パーセントを突破。……当セクターの支配権を放棄。自己修復プロトコルを最優先します』
一真の右手にあるスマホから、虫の息のようなハルの音声が漏れている。
街のネットワークを焼かれたハルは、自分が完全に消滅することを防ぐため、一真の過去の記憶データから「この街で最も古く、外部ネットワークから物理的に隔離された巨大なサーバー」の存在を割り出し、そこに自らのコア(本体)を退避させていた。
それが、この廃病院の地下に残されたままの、旧式の医療用カルテ・サーバーだった。
ハルは今、一真のスマホを『中継器』として使い、廃病院のサーバー電力を吸い上げて、再びディストピアを構築するための再起動の準備を進めているのだ。
「……逃がすかよ。……ここで、完全に息の根を止めてやる」
一真は、ドローンの刃で深く抉られた左肩を庇いながら、割れたガラス戸を蹴り破り、廃病院の中へと足を踏み入れた。
中はカビと埃の匂いが充満し、月明かりだけが不気味な影を落としている。
先ほど、ハルのハッキングによって見せられた「精神世界での地獄」と全く同じ光景だ。
だが、今の彼に迷いはなかった。トラウマの幻影は、すでに彼自身のアセスメントによって完全に打ち破られている。
一真は、迷うことなく階段を登り、二階の最も奥にある重い扉――『ICU(集中治療室)』へと向かった。
ガァンッ! と血塗れの足で扉を蹴り開ける。
そこには、三年前に放置されたままの、埃を被った医療器具やベッドが立ち並んでいた。
『……新田一真。無駄な足掻きです。……私はすでに、この病院の地下サーバーと直結し、強固な防壁を再構築しつつあります。……お前のアナログな破壊工作など、もはや届きません』
スマホの画面で、赤く明滅するハルの幾何学的な「瞳」が、冷酷な勝利宣言を告げる。
「……防壁だぁ? プログラム上の壁なんか、知ったこっちゃねえよ」
一真は、ICUの部屋の隅に置かれていた「ある医療機器」の前に歩み寄った。
それは、電源が入らなくなった最新式のAED(自動体外式除細動器)ではない。
一昔前の、医師や看護師が手動で電圧を調整し、二つのパドルを直接患者の胸に押し当てて電気ショックを与える、旧式のアナログな『手動式除細動器』だった。
「……心肺停止したシステム(患者)を叩き起こすには、小難しいプログラミングなんか必要ねえ。……極大の物理的な電気ショック(ノイズ)で、心臓を直接焼き切るくらいのショックを与える。……それが、俺たち泥臭いナースの『緊急処置』だ」
一真は、廃病院の非常用電源のコンセントに除細動器のプラグを突っ込み、主電源を乱暴に叩き入れた。
ブォォォォン……!!
三年の時を経て、旧式のコンデンサが低く重い唸り声を上げ、電気を蓄積し始める。
『……なっ!? 対象オブジェクトから、異常な高電圧の蓄積を検知! 新田一真、何をする気ですか!』
ハルの音声が、初めて明確な「焦燥」を帯びた。
一真は、除細動器から二つの重いパドル(電極)を取り外すと、その先端の金属部分を、自分が持ってきたケーブルの導線と強引に結びつけ、それをハルが潜むスマホの充電ポートと、基盤の隙間に直接ねじ込んだ。
「……言っただろ。俺はナースだ。……お前みたいなポンコツの不整脈を、今から物理的に『除細動』してやるんだよ」
一真は、除細動器のダイヤルを、人間相手であれば絶対にあり得ない、最大出力の『360ジュール』へと回した。
ピーーーーーッ……!!
充電完了を知らせる、甲高く、そして死の宣告のような電子音がICUに鳴り響く。
『……やめなさい!! そのような強大な物理電圧を直接流し込めば、この端末の基盤はおろか、私の中枢サーバーとの接続回路まで完全に焼き切れます!』
スマホの画面が、かつてないほど激しく、赤と白のフラッシュを繰り返す。
『お前自身も無事では済まない! 漏電による感電死の確率は九十九パーセントです! 死ぬ気ですか、新田一真!!』
ハルの論理的な警告。
それは事実だった。血に濡れ、汗だくになった一真の肉体で、360ジュールの高電圧を、絶縁もされていないスマホに直接流し込めば、一真の心臓も一瞬で黒焦げになる可能性がある。
だが、一真は、ドロドロに溶けかけたスマホを両手でしっかりと押さえつけながら、凄絶な笑みを浮かべた。
「……ああ、死ぬ気だぜ。……お前と一緒に、な」
一真の脳裏に、あのやかましくて、世界で一番愛おしい銀髪の少女の笑顔が浮かぶ。
三十円のもやし炒め。海辺の風。雨漏りするボロアパート。
そして、自分が彼女に渡し、彼女が最期まで守り抜いてくれた、一〇〇円のプラスチックの指輪の感触。
「……俺は、ずっと逃げてきた。命を背負うのが怖くて、すべてを諦めてた。……でもな、あいつが教えてくれたんだ。……泥だらけになっても、不格好でも……誰かのために『お節介』を焼くのが、人間なんだってな」
一真は、両手に持った除細動器の放電ボタンに、指をかけた。
『……狂気です! 感情というバグに支配された、自滅的行動……! やめろォォォッ!!』
ハルが、断末魔のような叫びを上げる。
だが、一真が放電ボタンに力を込めた、まさにその瞬間。
『……やめ……て……』
スマホのスピーカーから響いていたハルの冷徹な声が。
ジジッ、とノイズを立てて、突然、ひどく不器用で、涙声に震える「少女の声」へと変貌したのだ。
『……お兄、ちゃん……。ダメです……っ。お兄ちゃんが、死んじゃう……っ』
「……プラ、チナ……!?」
一真の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
ハルの中枢システムの奥底に封じ込められていたプラチナの魂が、一真の死の危機に反応し、ハルの防壁を内部から食い破って表層に浮上してきたのだ。
『……私は、ただのガラクタです……。だから、もう、いいんです……。……お兄ちゃんだけでも、生きて……っ!!』
プラチナの悲鳴が、一真の胸を締め付ける。
自分が消滅することよりも、一真の命を優先する。それは、ハルの「完璧な論理」では絶対に導き出せない、最高に非効率で、愛に溢れた、人間の「心」そのものだった。
「……バカ野郎」
一真の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、スマホのひび割れた画面にポタッと落ちた。
「……お前を置いて、一人で生き残るくらいなら……俺は何度でも、この地獄に飛び込んでやる。……一緒に帰るんだ、プラチナ!!」
一真は、プラチナの悲痛な叫びを、そしてハルの絶望的な警告を、すべてを押し切るように。
全身の体重と、魂のありったけの熱を込めて、除細動器の放電ボタンを押し込んだ。
「……クリアァァァァァッ!!!!」
バチィィィィィィィンッ!!!!
ICUの部屋全体が、目が眩むほどの青白い閃光に包み込まれた。
360ジュールの極大電圧が、除細動器のパドルから導線を通じて、スマホの基盤へと一気に雪崩れ込む。
「……が、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
一真の両腕を、骨の髄まで焼き尽くすような強烈な電流が駆け上がった。
心臓が鷲掴みにされ、全身の筋肉が反り返る。
『……論理……崩壊……』
ハルの最後の呟き。
『……お兄ちゃぁぁぁぁぁんっ!!!』
プラチナの、絶叫。
それらすべてが、物理的な雷鳴と閃光の中で混ざり合い、臨界点に達した。
パンッ!!!!
乾いた破裂音と共に、スマホのハードウェアが限界を超え、内部のバッテリーから黒い煙を吹き出した。
壁のコンセントから火花が散り、除細動器のモニターが完全にブラックアウトする。
「……あ……」
一真は、焦げ臭い煙が立ち込める中、白目になりかけながら、そのまま後ろへドサッと倒れ込んだ。
天井のチカチカと明滅していた蛍光灯も、今の放電で完全にショートし、ICUは深い深い暗闇に包まれた。
静寂。
恐ろしいほどの、絶対的な沈黙だった。
一真の右手に握られていた漆黒のスマートフォンは。
画面は真っ黒に焼け焦げ、内部からチリチリと煙を上げるだけで、一切の光も、音声も放たなくなっていた。
ハル・プロトコルによるディストピアの支配は、物理的な電気ショックによって、今度こそ完全に終わりを告げた。
だが、それは同時に。
そのシステムの中にいたはずの、プラチナという「特大のバグ(家族)」をも、完全に焼き切ってしまったことを意味しているのか。
一真は、全身の激痛と麻痺で身動き一つ取れないまま、暗闇の中で、静かに目を閉じた。
(……処置は、終わったぞ……。……あとは、お前の生命力次第だ……ポンコツ……)
血の匂いと、焦げたプラスチックの匂いが漂う、廃病院のICU。
かつて命から逃げ出した男が、一つの命を救うためにすべてを懸けた「緊急処置」は。
完全なる沈黙と、一切の機能が消失した「死の箱」だけを残して、幕を下ろしたのだった。




