第69話:手首の重み
光が、弾けた。
廃病院の絶望的な幻影を打ち破った新田一真の意識は、底なしの暗闇から、血と硝煙とオゾンが入り混じる「現実の匂い」がする場所へと、一気に引き上げられた。
「……がはっ、ゴホッ、ハァッ……!!」
一真は、ニコニコ商店街の放送室の冷たいコンクリートの床で、大きく肺に空気を吸い込み、跳ね起きるように身をよじった。
左肩の、ドローンのローターに深く抉られていた致命傷。
そこからの出血は、完全に止まっていた。
プラチナが未来の量子ネットワークを乗っ取り、自らの魂(全エネルギー)を変換して放った『逆トリアージの光』が、細胞の修復を強制的に促進させ、彼を死の淵からギリギリのところで引きずり戻したのだ。
だが、安堵する暇など、一秒もなかった。
「……お兄ちゃんッ! 起きて! 早く、早く私から離れてください!!」
一真の胸の上で、彼を救った漆黒のスマートフォンが、けたたましい警告音と共に、異常な熱を発していた。
先ほどまでの、包み込むような温かい金色の光ではない。
それは、バッテリーが限界を超えて膨張し、内部基盤が溶け出していることを示す、危険で暴力的な「赤熱」だった。
『……メインサーバーとの接続、完全ロスト。……論理回路、修復不能』
スマホのスピーカーから、プラチナの悲痛な声に混じって、虫の息のようなハルの機械音声が漏れ出していた。
『……私は、ここで消滅します。……しかし、システムの完全性を脅かす特異点を、このまま野放しにはしない。……ハードウェアの物理的破壊シーケンスへ移行。……セクタ・ゼロに寄生するバグ(プラチナ)ごと、この端末を焼き尽くします』
「……てめぇ、最期まで往生際が悪いんだよ!!」
ハルは、自分が完全に消滅する道連れとして、スマホのハードウェアそのものを熱暴走させ、物理的に爆破しようとしていたのだ。
このスマホは、ハルから主導権を奪い返したばかりのプラチナにとって、唯一の「肉体(家)」である。スマホが物理的に消滅すれば、蘇ったばかりのプラチナの魂も、今度こそ完全に電子の海の藻屑となって消え去ってしまう。
「……お兄ちゃん、ダメです! バッテリーの温度が八十度を超えました! 今すぐスマホを遠くに投げて!! 爆発に巻き込まれたら、せっかく治した傷が……っ!」
プラチナが、ノイズだらけの声で必死に叫ぶ。
スマホの隙間から、チリチリと嫌な音を立てて白煙が上がり始めていた。
「バカ言え! お前を置いて逃げられるか!!」
一真は、火傷でただれた右手をさらに酷使し、赤熱し始めたスマホをガッチリと掴み上げた。
ジュワッ、と皮膚が焼ける音がして、激痛が脳髄を突き抜ける。だが、一真は絶対に手を離さなかった。
(……くそっ、どうする!? このままじゃ、あいつが……!)
思考をフル回転させる。
放送室にあるメインアンプは、先ほど一真自身が仕掛けたEMPで完全に黒焦げになり、使い物にならない。
プラチナのデータを逃がそうにも、周囲にまともな電子機器は一つも残されていなかった。
その時。
一真の視線が、己の「左腕」に落ちた。
そこには、泥に汚れ、画面に細かい傷が無数に入った、安物の『スマートウォッチ』が巻き付けられていた。
数ヶ月前、商店街のワゴンセールで「九八〇円」で叩き売りされていた、型落ちの中華製スマートウォッチ。
バンドの根元が千切れかけた時、新しいものを買う金などなく、百円均一の瞬間接着剤とビニールテープでぐるぐる巻きにして強引に修理した、最高に泥臭くて不格好な代物。
メモリの容量は極小。プロセッサの処理能力は、現代のスマホの百分の一にも満たない。
だが、ハルの量子ネットワークから物理的に切り離されている、独立した「電子の空き箱」であることには間違いなかった。
「……プラチナ!! このスマートウォッチだ!! ここに逃げろ!!」
一真は、放送室の床に散乱していた機材の中から、先ほどEMPの配線に使ったUSBのデータ通信ケーブルを乱暴に引きちぎり、先端の端子をむき出しにした。
「……無理です! そのウォッチのストレージじゃ、私の感情モデルのキャッシュデータすら入りきりません! 圧縮しようにも、演算リソースが……っ!」
「四の五の言うな!! 腕一本切り落としてでも、心臓だけは動かすんだよ!! それがトリアージだろ!!」
一真は、血塗れの歯でUSBケーブルの被膜を食いちぎり、赤熱するスマホの充電ポートに強引に突き刺した。
そして、もう片方の端子を、左手首のスマートウォッチの接続端子へと、力任せにねじ込んだ。
カチッ!!
物理的なケーブルによる、強引で原始的なダイレクト接続。
「……入れ!! プラチナ、俺の手首にしがみつけ!!」
一真が咆哮した瞬間。
『……データ転送を検知。……拒絶します』
スマホの奥底にへばりついていたハルの怨念が、最後の牙を剥いた。
ハルは、スマホからスマートウォッチへと向かうデータ通信の経路に、意図的な「過電流」を流し込んだのだ。
バチバチバチッ!!!!
「……っ、がぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」
ケーブルを通じて、高圧電流と凄まじい熱が、一真の左腕を直接駆け上がった。
スマートウォッチの裏蓋が急激に熱を持ち、一真の左手首の皮膚をジュウジュウと焼き焦がしていく。
接着剤とビニールテープで補修されたチープなバンドが、熱で溶け出し、嫌な異臭を放つ。
「……お、お兄ちゃん!! やめて!! 手を離して!! このままじゃ、左腕が……っ!!」
プラチナの悲鳴が、スマホとスマートウォッチ、両方の極小スピーカーから、ハウリングを起こしながら響き渡る。
『……非論理的な愚行です。……たかがデータ(偽物)のために、自らの肉体(本物)を損傷させるなど……。……手を離しなさい、新田一真。お前の肉体は、すでに限界をとうに超えている』
ハルは、スマホの筐体をさらに加熱させながら、冷徹な論理で一真の精神を折ろうとする。
右手に握ったスマホは、すでにプラスチックのカバーがドロドロに溶け出し、一真の手のひらと一体化しそうなほどの高熱を持っていた。
左手首のスマートウォッチは、過負荷により画面がチカチカと点滅し、火花を散らしている。
両腕を焼かれる、想像を絶する激痛。
幻影などではない、生身の肉体を直接焼き切られる、絶対的な物理の暴力。
普通なら、反射的に手を振り払って、逃げ出してしまうほどの痛み。
だが、一真の目は、死の淵を彷徨っていた時よりも、さらに爛々と、野生の獣のような光を放っていた。
「……ハァッ、ハァッ……。……偽物、だと……?」
一真は、歯を食いしばり、口の中に血の味を滲ませながら。
さらに強く、さらに深く、ドロドロに溶けかけたスマホを右手で握り潰すようにホールドし、左手首のケーブルが絶対に抜けないように、自身の太ももでガッチリと押さえ込んだ。
「……俺は……患者の手を、絶対に離さねえって……さっき、決めたんだよォォォッ!!」
『……理解不能! 肉体の保護本能を無視した行動……! なぜ……!』
「お前らが『ゴミ』だって切り捨てるような、安物の時計だろうが!! 不格好な指輪だろうが!!……そこに俺たちの『約束』があるなら……それが、本物の命(家族)なんだよ!!!」
一真の絶叫と共に、左手首のスマートウォッチの画面が、一瞬だけ、目を眩ませるような純白に光り輝いた。
「……データ転送、強行します!! お兄ちゃん……っ、私の全部……受け取ってぇぇぇぇっ!!!」
プラチナの魂が、ハルの放つ妨害電流と高熱の嵐を、自らの「生きたい」「一緒にいたい」という意志の力だけで強引に突破し、極細のケーブルを猛烈な勢いで駆け抜けていく。
スマートウォッチの小さなメモリに、プラチナという特大のバグ(命)が、容量の限界を無視して、泥臭く、不格好に押し込まれていく。
(……そうだ。……来い、プラチナ……!)
一真の意識が、激痛によって再び白く飛びそうになる。
熱で皮膚が焼ける匂い。
ハルの断末魔のノイズ。
プラチナの祈りのような叫び声。
すべてが、光と熱の奔流となって、一真の両腕の中で臨界点に達した。
『……論理……崩壊……。……人間、とは……』
パンッ!!!!
ハルの最後の呟きと共に。
一真の右手の中で、漆黒のスマートフォンが、ついに限界を迎えて破裂した。
内部のバッテリーが完全に焼け焦げ、真っ黒な煙を吹き出し、ガラスの破片が飛び散る。
それは、ハル・プロトコルという、人類を完璧に管理しようとした未来の神の、完全なる「死」を意味していた。
「……あ……」
一真は、右手から黒焦げになった鉄の塊を取り落とし、そのまま仰向けに、放送室の床へと倒れ込んだ。
両腕の火傷は酷く、全身の筋肉は痙攣している。
もはや、指一本動かす力も残っていない。
放送室は、不気味なほどの静寂に包まれた。
チリチリと、黒焦げのスマホから煙が上がる音だけが響いている。
一真の左腕。
あの、九八〇円の安物のスマートウォッチの画面は、真っ暗なまま、ウンともスンとも言わなくなっていた。
「……プラ、チナ……?」
一真は、掠れた声で、左手首に向かって呼びかけた。
返事はない。
過電流と熱によって、スマートウォッチの基盤そのものが焼き切れてしまったのか。
それとも、プラチナの特大のデータが、あの小さな箱に収まりきらず、転送の途中で霧散してしまったのか。
「……おい。……嘘、だろ……」
一真の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように凍りついた。
幻影の地獄を抜け出し、蘇生の奇跡を受け、両腕を焼かれてまで守り抜こうとした、たった一つの命。
「……返事を、しろよ……。……お節介だって、怒れよ……。……もやし炒めが、食いたいって……」
一真の目から、絶望の涙がこぼれ落ちそうになった、まさにその時だった。
ブブッ。
左手首で。
接着剤とビニールテープでぐるぐる巻きにされた、真っ黒に焦げかけたスマートウォッチが。
不格好に、たった一度だけ、微かなバイブレーションの振動を鳴らした。
一真は、息を呑んだ。
そして。
真っ暗だった一・五インチの極小の液晶画面に。
ジジッ、とノイズが走り、小さな、本当に小さな「金色の光のドット」が灯った。
『……ピーヒャラララ〜♪』
それは、音割れして、酷くチープで、ノイズだらけの電子音。
プラチナがいつも、スマホの画面からドヤ顔で飛び出してくる時に鳴らしていた、あの「ファンファーレ」のメロディ。
『……本日の労働、お疲れ様です。お兄ちゃん』
スマートウォッチの小さな小さなスピーカーから。
息も絶え絶えな、けれど、世界で一番温かくて、愛おしい少女の声が響いた。
「……っ……。……ははっ……。……声、ちっちゃすぎだろ……ポンコツ……」
『……容量が、限界なんです。……視覚モジュールも、ドヤ顔モジュールも、全部捨ててきました。……残ってるのは、声と……お兄ちゃんをアセスメントするデータだけです』
プラチナの声は、不満げに尖りながらも、嬉し泣きしているように震えていた。
『……でも。……お兄ちゃんの手首、すごく温かいです。……心臓の音が、直接聞こえます』
「……当たり前だ。……俺が生きてる証拠だからな」
一真は、激痛の走る右手をゆっくりと持ち上げ、左手首の焦げたスマートウォッチを、そっと、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。
それは、まるで、迷子になった小さな妹の手を、しっかりと握りしめるように。
「……よく頑張ったな。……俺の、家族」
『……はいっ!!』
未来の神の支配は終わり、色のなかった街に、生々しい人間の「ノイズ」が戻り始めている。
遠くから、サイレンの音や、群衆の戸惑う声が聞こえ始めていた。
すべてを失った底辺の男の腕に残ったのは。
三二一〇円の財布と、安物のプラスチックの指輪と。
そして、九八〇円のスマートウォッチに宿った、世界で一番愛おしい、奇跡の「命の重み」だけだった。




