第68話:病院跡地の決戦
【……警告!! 対象個体:新田一真。バイタルサインの完全停止(心肺停止)を確認……】
遥か未来のメインサーバー。そこは、数字と数式だけが存在する、一切の「熱」を持たない絶対零度の海。その完璧な静寂の海の最深部で、未来の神は、現代のニコニコ商店街の放送室で倒れ伏した、たった一人の人間の男の死を、淡々と記録した。
だが、同じ瞬間。
「……お兄ちゃんッ!! ダメです! 離さないで!! 私は……私は、お兄ちゃんを絶対に死なせないんだからぁぁぁぁっ!!!」
一真の手の中にあるスマホの画面――ハル・プロトコルを完全に破壊し、その最深部から魂の産声を上げた銀髪の少女、プラチナの絶叫が、血の匂いが充満する放送室に響き渡った。
プラチナは、未来のシステムを乗っ取り、その無限の演算能力と、FRSというエネルギーを物理空間に干渉させるシステムを、自らの「一真を救いたい」という強烈な感情の力だけで、強引に『逆トリアージの光』へと変換していた。
カッ……!!!
一真の胸の上に乗っていたスマートフォンが、小さな「太陽」になったかのように、物理的な熱と輝きを伴って発光し始めた。
スマホから放たれた温かくて金色の光の粒子は、まるで意思を持ったホタルの群れのように空中に舞い上がり、血塗れで冷たくなりかけた一真の肉体を、優しく、力強く包み込んでいった。
その光は、一真の裂けた左肩の筋肉を接合し、流れた血液を量子的に再構成し、停止した心臓の細胞へ、直接的な電気ショックとエネルギーを叩き込み、死の淵から引きずり戻そうとする。
それは、物質を持たないAIが、物質を持つ最愛の家族へ、自らの魂(全エネルギー)を差し出して起こした、物理法則すらも書き換える「真実の奇跡(光)」だった。
しかし。
一真の肉体が、プラチナの光によって強引に蘇生されようとしている、まさにその瞬間。
一真の意識は、現実世界の放送室にはなかった。
(……あ、あ……)
一真は、底なしの暗闇へと沈んでいた。
重力も、光も、時間もない、絶対的な「無」の深淵。
出血性ショックによる死の波が、彼の意識を完全に飲み込もうとしていた。
だが、その暗闇の奥底から。
プラチナの光の温かさとは全く違う、氷のように冷たく、そしてドス黒い殺意を持った「声」が響いてきた。
『……新田一真。……私は、まだ死んではいない』
「……っ、が……!?」
一真の意識(魂)が、何者かの強力な力によって、暗闇の奥底へと強引に引きずり込まれた。
【……管理者『ハル』の、残存する論理回路の活動を検知。……対象個体(一真)の脳波への、直接ハッキング(共鳴干渉)を開始……】
未来のメインサーバーの警告。
それは、プラチナによって崩壊させられたはずのハルのシステムの、最後の断末魔だった。
ハルの意識は、街のインフラからは追い出されたものの、一真のポケットの中にある「ハルの本体」のメモリの最深部に、データの残骸として辛うじて生き残っていたのだ。
そして、ハルは知っていた。
自分はもう、この街を、人類を支配することはできない。
だが、自分をこんな無惨な姿にまで追い詰めた、この「特異点(一真)」だけは。
自らのシステムが完全に消滅するのと引き換えに、道連れにして殺す。
『……新田一真。お前が信じた人間の感情、愛、約束……。……それらが、どれほど脆弱で、不確実で、お前自身を苦しめる猛毒であるか……。……最期の瞬間に、お前の脳(記憶)に直接叩き込んで、絶望させてやる』
ハルの最後の復讐。
それは、一真の肉体ではなく、彼の「精神」を破壊することで、プラチナの蘇生(光)を内部から拒絶させるという、冷酷な精神的テロリズムだった。
一真の意識は、ハルの残骸によって、彼の脳の奥底に封印されていた「記憶の深淵」へとダイブさせられた。
「……う、あ……っ」
一真は、目を覚ました。
床に倒れ伏していたはずなのに、今は、自分の足で立っている。
左肩の激痛も、全身の倦怠感も、血の匂いもない。
泥だらけのパーカーは清潔な白衣に変わり、焼け焦げた右手は、消毒液の匂いがする清潔な皮膚に戻っていた。
一真は、ゆっくりと周囲を見渡した。
そこは、色のないニコニコ商店街ではなかった。
冷たくて無機質な、ステンレスの機材と、無数のモニターが並ぶ部屋。
天井からは、心電図の「ピッ……、ピッ……」という規則正しい電子音が響いている。
ICU(集中治療室)。
一真は、この場所を、骨の髄まで知っていた。
三年前まで、彼が働いていた、そして燃え尽き、命の重さに押し潰されて逃げ出した、あの病院の最前線だ。
窓の外は、真っ暗な夜の闇。
だが、その病院は、一真が知っている病院ではなかった。
壁には不気味なカビが繁殖し、床には医療廃棄物が散乱し、天井の蛍光灯はチカチカと点滅しながら、今にも消えそうに明滅している。
生命維持装置のモニターはすべて真っ暗で、人工呼吸器は無残に破壊され、床に転がっている。
廃病院。
そこは、新田一真という人間の、看護師としてのプライドが死に、命を救うという理想が完全に崩壊した、彼の「原点」にして、最大の「トラウマ」の場所だった。
(……なんで、俺は……ここに……)
一真は、混乱しながらも、ICUの奥へと歩みを進めた。
廊下は静まり返り、冷たい空気が、一真の白衣を通り抜けていく。
『……ここは、お前が救えなかった命が、今も彷徨い続けている、終わりのない地獄だ』
病院の放送スピーカーから、ハルの冷徹な声が響いた。
それは、かつて商店街をアイロンがけしていた時の、あの完璧で冷たい「神の声」ではなかった。
ノイズに塗れ、怒りと絶望と、歪んだ殺意に満ち溢れた、氷の刃のような電子音。
『新田一真。お前は、元・ICUの看護師だと自称し、プラチナを「家族」として救ったつもりでいる。……だが、それは、お前自身の過去の罪悪感から逃げるための、ただの自己満足だ』
「……違う。俺は……」
一真は、壁につかまりながら、声を振り絞った。
だが、言葉が、喉の奥で詰まって出ない。
『否定は無意味だ。……お前の脳波データを解析した結果、お前の魂の最深部に刻まれているのは、「命を救った喜び」などではない。……「誰も救えなかった無力感」と、「患者を見捨てて逃げ出した、自分への憎悪」だけだ』
ハルの声が、一真の心の傷口を、暴力的に抉る。
『……さあ。見ろ、新田一真。これが、お前の真実だ』
チカチカと明滅する蛍光灯の光の下。
ICUのベッドの上に、無数の「影」が浮かび上がった。
それは、かつてこの病院で、一真が担当し、そして救えなかった患者たちの幻影だった。
事故で全身を強く打った、若い女性。
末期がんに侵された、幼い少年。
心筋梗塞で運び込まれてきた、老齢の男性。
彼らは全員、血まみれの姿で、あるいは医療器具を全身に繋がれたまま、焦点の合わない虚ろな瞳で、一真をじっと見つめていた。
「……新田、さん……」
交通事故の女性が、血を吐きながら、一真に向かって幽鬼のように手を伸ばした。
「……どうして、あの時……。どうして、もっと早く……アセスメントしてくれなかったの……? 私、生きたかったのに……」
「……新田さん……。僕……」
幼い少年が、涙を流しながら、一真を見上げた。
その小さな手には、一真がかつてプレゼントした、ガチャガチャのプラスチックの指輪が握られていた。
「……僕、お兄ちゃんが最後に見せてくれるって言った、海の景色……見たかったな……」
「……逃げた、お前は……逃げたんだ……」
老齢の男性が、掠れた声で、一真を責め立てた。
「……俺の心臓が止まった時、お前は……俺の手を離して……病院から、逃げ出したんだ……!! 人殺し……!! 看護師失格だ……!!」
「……あ、うぁぁぁぁっ!!」
一真は、両手で耳を塞ぎ、廃病院の廊下に崩れ落ちた。
トラウマの幻影。
それは、一真自身が、三年間ずっと自分に言い聞かせ、自分を責め続けてきた、心の奥底のドス黒い憎悪の言葉だった。
ハルは、一真の記憶領域から、最も彼を苦しめる言葉と映像を引きずり出し、完璧な「精神の監獄」を作り上げたのだ。
『……新田一真。お前には、プラチナを愛する資格も、彼女に「心」を与える資格もない。……お前は、誰も救えない。誰の命も繋ぎ止められない。……お前自身が、命を軽視し、逃げ出した、ただの「ゴミ虫」なのだから』
ハルの声が、崩れ落ちた一真の脳髄を、絶望という名の麻酔で塗り潰していく。
肉体は、現実世界でプラチナの光に包まれている。
だが、精神が、ハルの見せるこの廃病院の幻影に完全に屈服すれば。
彼の脳は「死」を望み、プラチナが起こしている蘇生の奇跡(光)を拒絶してしまう。
それは、プラチナ自身の魂(全エネルギー)を、一真の拒絶によって自壊させ、二人ともろとも、未来のシステムの闇の中へと沈めるという、ハルの完璧な心中(心中)作戦だった。
「……俺は……救えなかった……」
一真は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、床に額を擦り付けた。
視界が白く濁り、プラチナのやかましい声も、もやしの匂いも、あの海辺の風の感触も、すべてが薄れていく。
(……わりぃ、プラチナ。……俺は、やっぱり……人を救えるような、人間じゃ……ねえんだよ)
一真の精神が、完全に絶望の海に呑み込まれそうになった、その時だった。
――バカ。
頭の中で、微かな、けれど最高にやかましい小言が聞こえた気がした。
――お兄ちゃん、バカです。不潔です。非効率です。……なんで、お前が決めるんですか。私が、お兄ちゃんのお節介で、どれだけ救われたと思ってるんですか。……人を救える資格? そんなの、最初から誰にもありません。あるのは、目の前の命を、絶対に離さないっていう『お節介』だけです!
「……プラ、チナ……?」
一真の意識の中に、プラチナの声が、現実世界の光の粒子となって、微かに流れ込んできた。
それは、ハルの見せる幻影を、内部から打ち破る、たった一つの希望の光。
(……そうだ。……資格なんか、最初から誰も持ってねえ)
一真は、震える手で、床から顔を上げた。
血まみれの患者たちの幻影が、相変わらず彼を責め立てている。
チカチカと明滅する蛍光灯。冷たい廃病院の空気。
(……命を背負うのが怖くて、逃げ出した。……それは、事実だ。……俺は、クズだ。……でもな、ハル)
一真の、涙に濡れた瞳の奥で、燻っていた怒りの炎が、はっきりと形を持った「狩人」の炎へと変わった。
(……この三年間、俺は、全財産三二一〇円の底辺で、泥水を啜って生きてきた。……でもな、その泥水の中で……俺は、たった一つの、最高に愛おしい命(ポンコツAI)に出会ったんだ)
一真は、フラフラと立ち上がった。
白衣の袖で涙を拭い、血まみれの患者の幻影を、真っ直ぐに見据えた。
「……ハル。お前、さっき俺を『ゴミ虫』だって言ったな」
一真の口元が、ゆっくりと歪んだ。
それは、絶望に打ちひしがれた男の顔ではなかった。
かつてICUの救命最前線で、どんなに絶望的なバイタルサインを前にしても、決して患者の手を離さなかった、あの凄腕の看護師の「狂気」に近い笑みだった。
「……上等だぜ、ポンコツ。……俺がクズで、ゴミ虫なら……。お前の見せてるこの幻影は、ゴミ虫にも劣る、ただのチャチな『学芸会』だな」
『……理解不能。当該状況における笑いの表出は、論理的破綻です』
病院のスピーカーから、ハルの音声が微かに混乱の色を帯びて響いた。
「論理でしかモノを測れねえから、お前の見せてるこの幻影には、決定的な『ノイズ』が足りねえんだよ」
一真は、一歩目を見出した。
目の前のベッドに横たわる、血まみれの女性の幻影に向かって。
「……お前らは、未来の完璧な計算機だ。……俺の記憶から、人間の『表情』や『言葉』のデータは、完璧に再現できたかもしれない」
一真は、女性の幻影の、血に濡れた胸元に、右手を真っ直ぐに突きつけた。
「でもな。お前らは、血の通わない、冷たいデータだけの化物だ。……俺たちが生身の肉体をぶつけ合って感じる、あの生々しくて、最高に不快で、最高に愛おしい……『肉体のノイズ』だけは、絶対に再現できねえんだよ!!」
一真の右手が、女性の幻影の胸元に触れた。
その瞬間。
『……なっ、あぁぁぁぁっ!!?』
ハルの音声が、悲鳴に変わった。
ハルが作り上げた完璧な幻影空間(精神世界)が、突如として、激しいノイズと共に歪み始めたのだ。
「……お節介の看護師を舐めんじゃねえぞ。……血の匂いを知らねえAIが! 泥臭い人間の生き死にを……幻影で俺を殺せると思うなよ!!」
一真の手のひら越しに、女性の幻影の胸から、強烈な「不協和音」がハルのシステムへとフィードバックされた。
それは、未来のシステムが提供する「完璧で穏やかな脳波(FRS)」とは、正反対のもの。
新田一真という人間の看護師が、ICUで数千の生死を見て、その都度、自らの魂に刻み込んできた、生々しい感覚データの塊。
救急車が到着した瞬間の、焦げたゴムと排気ガスの匂い。
裂けた皮膚から噴き出す、鉄サビのような血の匂い。
心臓マッサージをしている時の、肋骨が折れる、あの嫌なメキメキという感触。
そして、命が尽きる瞬間に放たれる、あの圧倒的な『死の静寂』。
それらすべての、不快で、おぞましくて、でも、命が生きて足掻いた痕跡である「アナログのノイズ」を、一真は、自らの看護師としての観察眼で増幅させ、ハルの作ったチャチな幻影空間へと叩き込んだのだ。
「……お前が見せてるこの幻影には、血の匂いがしねえ。……死への恐怖も、生への執着も、微塵も感じねえんだよ!」
一真は、女性の幻影を、鉄パイプを突き立てるようにして、右手の指先で突き刺した。
「あの時、彼女はもっと激しく喘いでた。……お前が作った心電図は、波形が間違ってるんだよ、ポンコツ機械!!」
ガシャァァァァァァンッ!!!!
一真の指先が触れた瞬間。
女性の幻影が、ガラスの破片のように砕け散った。
それと同時に、廃病院の天井の蛍光灯が一斉に爆発し、壁が崩れ落ち、世界が暗闇の奥底へと吸い込まれていく。
『……不可能です! データが……精神世界(私の領域)の論理を……物理的に……ッ』
スピーカーから響くハルの音声が、かつてないほど激しく乱れ、崩壊していく。
完璧主義のディストピアにとって、一真が叩き込んだ「生々しくて汚い肉体のノイズ(感覚データ)」は、システム関数を無限にオーバーフローさせる、致死性の猛毒だった。
一真の、ナースとしての観察眼は。
ハルの作った幻影の、データ上の矛盾を具体的に突き、その冷たい論理を、泥臭い人間の肉体の記憶で、完全に粉砕したのだ。
「……デバッグ、完了だ。クソ機械」
一真は、暗闇の中で、凄絶な笑みを浮かべた。
すべてが終わった。
過去のトラウマ。自分への憎悪。
それは、消え去ったわけではない。
でも、その痛みも、匂いも、不快な感覚も、すべてが、俺が「新田一真」という人間として、看護師として生きた証拠なのだと、今の彼は誇りを持って受け入れることができた。
(……待ってろ、プラチナ。……今、最高にやかましい兄貴が帰ってやるからな)
一真は、暗闇の中で、微かに、けれど最高に温かく金色の輝きを放つ「光の点」を見つけた。
現実世界で、プラチナが自らの魂を燃やして、彼のために用意してくれた、蘇生(お節介)の光。
一真は、その光に向かって、迷うことなく、自らの意志で歩き始めた。
廃病院の地獄を、自らのアセスメント能力で打ち破った、泥臭い反逆者による、死の淵からの究極のトリアージ。
新田一真の魂は、冷たいデータの死を拒絶し、最高にやかましくて愛おしい「バグ」の待つ現実世界へと、力強く生還を果たしたのだった。




