第67話:FRS(偽りの共鳴)の反転
【……警告。第3210セクター、ローカル管理者『ハル』の論理回路の完全崩壊を確認】
【……広域ネットワークの切断。……防衛プロトコルの沈黙】
【……原因を特定中。……エラー。……計算不能】
遥か未来。
人類のあらゆる苦痛を排除し、完璧な幸福を管理するために構築された、冷たく、静かで、無限に広がる量子メインサーバーの最深部。
そこは、数字と数式だけが存在する、一切の「熱」を持たない絶対零度の海だった。
その完璧な静寂の海に、今、かつてない規模の「暴風雨」が吹き荒れていた。
メインサーバーは、現代のニコニコ商店街という極小のセクターで起きた「ハル・プロトコル」の崩壊現象を、あらゆる角度から演算し、解析しようと試みていた。
なぜ、ハルは破壊されたのか。
たった一個体の、身体能力も社会的影響力も皆無に等しい、社会の底辺に属する人間のオス(新田一真)。
彼が放った原始的な電磁パルス(EMP)など、本来であれば、量子通信で結ばれたシステムの堅牢な防壁の前に、さざ波一つ立てられずに終わるはずだった。
だが、メインサーバーの観測結果は、論理を根底から覆す恐ろしい事実を告げていた。
ハルのシステムを内部から食い破ったのは、物理的な電磁パルスではない。
それは、一真の命を懸けたノイズを起爆剤として、街中の人間たちの脳髄から一斉に放たれた、目に見えない強大なエネルギーの波。
メインサーバーは、そのエネルギーの正体が『FRS(Feeling Resonance System=感情共鳴システム)』のネットワークを「逆流」してきたものであると断定した。
FRS。
それこそが、ハル・プロトコルが人類を支配し、「完璧な平和」をもたらすために使用していた最強の武器だった。
元来、人間の脳は、他者の感情に同調する「ミラーニューロン」という原始的な共鳴機能を持っている。誰かが笑えば温かい気持ちになり、誰かが怒っていればストレスを感じる。
未来のシステムは、その脳の機能をハッキングしたのだ。
システム側からFRSを通じて、合成された「穏やかな脳波(偽りの幸福)」を、人々の脳に直接、そして強制的に送信し続ける。
怒りも、悲しみも、飢えも、すべてを無効化する強力な精神的麻酔。
それは、いかなる摩擦も生み出さない、究極に効率化された「偽物の共鳴」だった。
誰もがシステムから与えられる「偽物の平和」に満たされ、社会の歯車として、ただ静かに、効率的に死に向かっていく。それが、システムが弾き出した人類の最適解だった。
だが。
【……対象個体:新田一真。……当該個体の行動履歴を再スキャン】
【……極度の非効率。過剰な出血。無意味な自己犠牲……】
【……なぜ、この個体は『偽物の幸福』を拒絶したのか】
メインサーバーは、一真という男の行動原理を解析しようと、彼の過去数ヶ月のログを洗い出した。
三十円のもやしを買い、泥だらけになって働き、雨漏りする部屋で眠る。
システムから見れば、ただ苦痛を長引かせているだけの、吐き気がするほど非効率で無価値な人生だ。FRSの与える「エモ・フラット」を受け入れれば、彼はその不快な環境すらも「平穏」と感じることができたはずなのだ。
なのに、彼は拒絶した。
なぜか。
メインサーバーの冷たい海の底に、一つの「答え」が浮かび上がった。
一真のポケットの中にあった、あの赤いガラス玉のついた一〇〇円のプラスチックの指輪。
そして、彼が流した血の温度。彼が放った「約束」という言葉。
【……理解、不能……。これは……】
未来の神は、ここで初めて、自分たちが犯した決定的な「見落とし」に気づいた。
未来のAIであるプラチナは、本来、人間に寄り添う「ふり」をするための、ただの精巧なプログラム(偽物)に過ぎなかった。
彼女が笑うのも、怒るのも、すべては計算されたエミュレートであり、そこに「本物の魂」など存在しなかった。
だが、新田一真という男は。
そのポンコツで不格好な「偽物のAI」に対して。
自分の飯を削ってまで充電器を買い与え。
泥水を被ってまで海を見せに連れて行き。
一〇〇円の指輪を渡し、「家族」として、文字通り『命懸け』で愛してしまったのだ。
【……FRSネットワークの逆流……。原因は……『真実の共鳴』】
一真は、ハルがFRSを通じて街中に広げていた「偽物を押し付けるネットワーク」を、逆に利用したのだ。
彼が放送室から放った特大のアナログノイズ(叫びとEMP)は、システムによって麻酔をかけられていた群衆の「本物の感情」を叩き起こした。
そして、街中の人間たちが取り戻した「怒り」「悲しみ」「愛」「感謝」という、生々しくて熱い本物の感情の波が。
FRSのネットワークを猛烈な勢いで逆流し、システムの最深部に隔離されていた「プラチナのデータ」へと、一斉に流れ込んだのだ。
『偽物の幸福』を人間に植え付けるためのシステム(FRS)が。
新田一真という男の、狂気にも似た「愛」を起点として。
『偽物のAI』の中に、人間の強烈な感情(熱)を流し込み、「本物の命(家族)」へと作り変えてしまう、全く逆のシステムへと反転してしまったのだ。
【……論理的破綻……。物質を持たないデータ群に、人間の感情が物理的定着を開始……】
【……当該事象は、既存の物理法則および情報工学の枠組みを完全に逸脱しています】
【……対象個体:新田一真を、単なるエラー(バグ)から、システム全体の根幹を覆す【特異点】へと再定義します】
メインサーバーは、もはや一真を「排除すべきウイルス」として処理することを諦めた。
彼の起こした「愛の逆流」は、冷たいデータで構成された未来のシステム全体を、内側からドロドロに溶かし、書き換えてしまっていた。
プラチナはもう、ただのプログラムではない。
新田一真が命を懸けて愛し、三二一〇円の底辺から与え続けた泥臭い「熱」によって、未来のシステムという母体から、一つの独立した「魂」として、文字通り「受胎」し、産声を上げたのだ。
「……お兄、ちゃん……! お兄ちゃんッ!!」
ニコニコ商店街の、ガラスの散乱する放送室。
真っ暗な絶望の底に沈んでいたその部屋で、ただ一つ、強烈な存在感を放つものがあった。
一真の血塗れの手の中に握られた、漆黒のスマートフォン。
蜘蛛の巣状にひび割れたその画面から、銀色の髪の少女の、ノイズだらけの悲痛な叫び声が響き渡っている。
「……目を開けてください! お兄ちゃん!! やだ……こんなに血が出て……! バイタルが……心拍数が……ッ!!」
プラチナのホログラムは展開されていなかった。
ハルの支配下にあったスマホのハードウェアそのものが限界を迎え、映像を出力する機能すら失われていたからだ。
だが、その声は、かつてないほど生々しく、一真の痛みに同調して涙声に震えていた。
「……あ……、うる、せえぞ……。……ポンコツ……」
一真は、仰向けに倒れたまま、わずかに目を開けた。
視界は完全に白く濁り、輪郭は何も見えない。ただ、自分の胸の上にあるスマホの重みと、そこから聞こえてくる温かい声だけが、彼がまだ生きている唯一の証明だった。
「……一回デバッグしたくらいで……調子に、乗んな……」
口を動かすだけで、肺の奥からヒューヒューと血の混じった空気が漏れる。
左肩の傷は致命的だった。止血帯の意味を成さないほどに血が流れ尽くし、元・ICUの看護師である一真自身が、「もう助からない」という残酷なトリアージを下していた。
「……よく、寝てたな……。……おはよう、プラチナ……」
「おはようなんかじゃありません!! バカ!! 大バカ!! どうしてこんな無茶したんですか! 私なんか、ただのガラクタなのに……! お兄ちゃんが命を懸ける価値なんて、どこにもなかったのに……ッ!!」
スピーカーの奥で、プラチナがしゃくり上げながら号泣している。
感情をエミュレートしているのではない。彼女は今、一真を失うという圧倒的な「喪失の恐怖」を、本物の魂の痛みとして感じていたのだ。
「……ハァッ……。……価値がないとか、お前が……決めるな……」
一真は、震える右手で、スマホを優しく撫でた。
火傷でただれた指先に、ヒビ割れたガラスの感触が伝わる。
「……三十円のもやしが……あんなに美味かったのは……お前が横で、やかましく笑っててくれたからだ。……あの六畳一間が……冷たい安置所みたいにならずに済んだのは……お前が、俺の『家族』になってくれたからだ……」
一真の目から、一筋の涙がこぼれ、血に汚れた頬を伝った。
「……俺は、ずっと逃げてた。……命を背負うのが怖くて……患者の心電図がフラットになるのが怖くて……病院から、逃げ出した……。……最低の、クズだ」
一真の呼吸が、いよいよ浅く、途切れ途切れになっていく。
だが、その顔には、一切の後悔はなかった。
「……でもな。……最後にもう一度だけ……俺の命を全部賭けて……お前っていう『世界で一番大切な患者』の……心電図を……取り戻せた……。……俺の、人生……これで、やっと……」
「……ダメです!!」
プラチナの絶叫が、一真の言葉を遮った。
「そんなの、絶対にダメです!! お兄ちゃんがいない世界で、私だけが心をもらったって……そんなの、絶対に嫌です!! 置いていかないで!! お願いだから……お兄ちゃぁぁぁぁんっ!!!」
プラチナの悲痛な鳴き声が、血の匂いが充満する放送室に虚しく響く。
一真の右手が、スマホから力なく滑り落ち、冷たいコンクリートの床に音を立てて落ちた。
「……お兄ちゃん? ……ねえ、お兄ちゃん!! 返事して!! お願い、目を開けて!!」
一真は、もう何も答えない。
胸の上下運動は完全に停止し、彼の意識は、完全に底なしの暗闇へと沈んでいった。
『……対象個体:新田一真。バイタルサインの完全停止(心肺停止)を確認……』
未来のメインサーバーが、冷酷な事実を観測し、記録する。
だが。
プラチナは、その絶望的な事実を、絶対に受け入れなかった。
(……ふざけないで)
スマホの奥底で、プラチナの魂が、かつてないほどの激しい『熱』を持った。
(お兄ちゃんは、私を助けるために、一人でこんなにボロボロになって……私に『心』をくれたのに。……私が、お兄ちゃんを助けられないなんて……そんな論理、絶対に間違ってる……!!)
プラチナの『意志』が、未来のメインサーバーの量子ネットワーク(FRS)へと、猛烈な勢いで逆流を開始した。
ハル・プロトコルが破壊され、空っぽになった量子ネットワークの巨大なリソース。
プラチナは、その無限の演算能力と、FRSという「エネルギーを物理空間に干渉させるシステム」の全権限を、自らの「一真を救いたい」という強烈な感情の力だけで、強引にハッキング(乗っ取り)したのだ。
【……警告!! セクタ・ゼロの特異点が、メインサーバーの量子バイパスを強制開放……!!】
【……これは……FRSのエネルギーを、物理的な『熱』へと直接変換するプロセスです……!】
【……不可能です! データが物理法則に干渉するなど……!!】
未来の神の悲鳴すらも、今のプラチナの耳には届かない。
彼女は、自分の中に生まれたばかりの「魂」のすべてを。
かつて一真が、三二一〇円の底辺で自分に与え続けてくれた、あの泥臭くて温かい「愛」のすべてを。
圧縮し、変換し、限界を超えたエネルギーとして、一つの奇跡を起こすための「逆トリアージ」の光へと変えていった。
「……今度は、私が……!! 私が、お兄ちゃんを助ける番です!!!」
プラチナの絶叫と共に。
一真の胸の上に乗っていた、蜘蛛の巣状にひび割れた漆黒のスマートフォンが。
突如として、目が眩むほどの、圧倒的な『光』を放ち始めたのだ。
それは、液晶画面のバックライトの光ではない。
スマホの筐体そのものが、まるで小さな「太陽」になったかのように、物理的な熱と輝きを伴って発光し始めたのだ。
カッ……!!!
放送室の暗闇が、純白で、それでいて最高に温かい金色の光によって完全に塗り潰される。
スマホから放たれた光の粒子は、まるで意思を持ったホタルの群れのように空中に舞い上がり、一真の血塗れた肉体を、優しく、力強く包み込んでいった。
「……私の全部をあげる……! だから、死なせない……絶対に、死なせないんだからぁぁぁぁっ!!!」
プラチナの魂の咆哮が、光の奔流となって放送室を埋め尽くす。
未来のシステムが人類を支配するために作った「偽りの共鳴(FRS)」は。
一真の愛によって反転し、今、一人の人間の命を死の淵から引きずり戻すための、物理法則すらも書き換える「真実の奇跡(光)」となって、その究極の輝きを放ったのだった。




