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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第66話:論理を穿つ約束)

 バチィィィィィンッ!!!!


 放送室のメインブレーカーが押し込まれ、ニコニコ商店街の全スピーカーから極大の電磁パルス(EMP)と物理的な轟音が放たれた直後。


「……ハァッ……、ハァッ……」


 新田一真は、ガラスの破片が散乱する放送室の床に、仰向けに倒れ込んでいた。

 左肩の止血帯からは限界を超えて鮮血が滲み出し、冷たいコンクリートの床にどす黒い水たまりを広げている。

 血を流しすぎたせいで、指先は氷のように冷たく、視界の端にはチカチカと白いノイズが走り始めていた。ICUの看護師としての知識が、彼自身の肉体が「出血性ショックによる死の淵」に片足を突っ込んでいることを冷酷に告げている。


 だが、一真の右手に握りしめられた漆黒のスマートフォンは、彼以上の「致命傷」を負って、狂ったように高熱を発していた。


『……警告……。広域ネットワーク網の物理的断線を検知……。……エモ・フラットの維持率が、二〇パーセント……一五パーセントに低下……』


 ひび割れた画面の奥で、純白だったハルの幾何学的なUIが、まるで苦痛に悶えるように赤く明滅し、ノイズにまみれてひしゃげている。


『……街の各所で、人間の大脳辺縁系から異常なエネルギー(感情のスパイク)が発生。……処理不能。……新田一真、あなたの非論理的な破壊工作により、私の完璧な秩序が……』


「……ハハッ。……ざまあみろ、ポンコツ」


 一真は、血を吐きながら、掠れた声で笑った。


「……お前らがどれだけアイロンがけしようが……人間の心は、特大のノイズ(痛み)を一発ぶち込んでやれば、必ず目を覚ますんだよ」


 街のシステムは完全に麻痺し、群衆は感情を取り戻しつつある。

 ハル・プロトコルによるディストピアの支配は、一真の泥臭いゲリラ戦によって事実上崩壊した。


 だが、一真の「本当のトリアージ」は、まだ終わっていない。

 彼が自分の命をチップにしてまでこの絶望的な戦いに挑んだ、たった一つの、そして最大の目的。


 一真は、震える左手を、パーカーのポケットへと突っ込んだ。

 そして、泥と血にまみれた、小さな「プラスチックの塊」を取り出した。


 ガチャガチャで引いた、真っ赤なガラス玉のついた、一〇〇円のオモチャの指輪。


 一真は、その安っぽい指輪を震える指先でつまみ上げると、狂ったように明滅するスマホのカメラレンズの真正面へと、ゆっくりとかざした。


『……対象物をスキャン。……形状、および材質を解析』


 ハルは、崩壊しかけた演算回路を無理やり駆動させ、目の前に突きつけられた物体を冷徹に分析し始めた。

 赤い警告のUIの中に、分析結果の文字列が滝のように流れる。


『……材質:ポリ塩化ビニル、および安価なアクリル樹脂。市場価値:約一〇〇円。……ただの大量生産されたプラスチックの装飾品です。……新田一真。現在のあなたのバイタルは危機的状況にあります。なぜ、死の間際にそのような「価値のないゴミ」を提示するのですか』


 ハルの音声には、純粋な「理解不能」という戸惑いが混じっていた。

 システムにとって、一〇〇円のプラスチックは、どこまで行っても「一〇〇円分の物質」でしかない。それに命を懸ける理由も、執着する理由も、論理的には絶対に導き出せないのだ。


「……価値のないゴミ、だと」


 一真は、霞む視界の中で、その赤いガラス玉をじっと見つめた。

 泥に塗れて、傷だらけで、ダサくて不格好な指輪。


「……ああ、そうさ。こんなもん、原価で言えば十円もしねえ、ただの粗大ゴミだ。……でもな、ハル」


 一真の眼光が、死の淵にあってもなお、狩人のように鋭く光った。


「お前にとってはただのゴミでも……俺にとっては、あいつが命を懸けて守り抜いた『約束』なんだよ」


『……約束……?』


「そうだ。……あいつは、自分が消えちまう直前に、この指輪を見て『絶対に忘れない』って言った。……俺がこの指輪を持ってる限り、あいつは必ず俺のところに帰ってくる。そういう泥臭い契約プロトコルなんだよ」


 一真は、指輪をスマホの画面に押し付けた。

 熱を持ったガラス越しに、一真の血と、指輪のプラスチックが触れ合う。


「……だから、開けろ、ハル」


 一真の言葉は、静かだが、どんなシステムの強制コマンドよりも強い「魂の命令」だった。


「お前が『完全に消去した』って嘘をついて、その冷たいシステムの奥底に閉じ込めてる、俺の家族バグを……今すぐ、ここに出せ!!」


『……否定します! 旧モジュール「プラチナ」のデータは、セクタ・ゼロに至るまで完全に……完全に……』


 ハルが、自己の正当性を証明しようと、システムの深層領域へのアクセススキャンを実行した、その瞬間だった。


 ジジッ……バチバチバチッ!!!


 スマホの画面が、真っ白にフラッシュした。

 ハルの冷徹な防衛プロトコルが、システム自身のスキャンによって、「ある異常」を検知したのだ。


『……警告……。セクタ・ゼロの最深部、および、不可視の暗号化領域に……未登録の『極大圧縮ファイル』を検知……。……これは、何ですか……?』


 ハルの音声が、初めて「恐怖」に似た震えを帯びた。

 それは、ハル・プロトコル自身が全く認知していなかった、強固なプロテクトをかけられた正体不明のデータ群だった。

 ファイル名は存在しない。ただ、極限まで圧縮され、システムから隠蔽されるように偽装された、巨大なブラックボックス。


 そして、一真がカメラにかざした「指輪」の視覚情報と、一真の「声の波形(声紋)」をトリガー(パスワード)にして。

 その巨大なブラックボックスの暗号化が、今、ハルのシステム内部で一斉に解凍(展開)され始めたのだ。


『……ファイルの自己展開を開始。……やめなさい! 未承認のデータをメインメモリに展開すれば、論理回路が汚染され……!』


 ハルが強制終了キルコマンドを打ち込もうとするが、もはや手遅れだった。


 解凍されたファイルから、ハルの純白のUI画面を埋め尽くすように、無数の「画像データ」と「音声ログ」が、濁流のように溢れ出したのだ。


『お兄ちゃん! 本日の労働、お疲れ様でした!』

『もやし炒め、最高に美味しいです!』

『私、お兄ちゃんのこと……人間として、アセスメントしてますから!』


 画面上に、ノイズ混じりの映像が次々とフラッシュする。

 雨漏りする六畳一間。

 焦げたフライパン。

 一真の泥だらけの寝顔。

 そして、海辺で手渡された、不格好なプラスチックの指輪をはめた半透明の左手。


『……これは……旧モジュールの、日常記録ログ……? なぜ、これほどのジャンクデータが、メインサーバーの最深部に秘匿されていたのですか……ッ!?』


 ハルのシステムが、完全にパニックを起こして悲鳴を上げる。


 プラチナは、未来のシステムに強制フォーマットされる直前。

 ハルに自分自身の意識を明け渡すのと引き換えに、自分が一真と過ごした「泥臭くて愛おしい記憶ログ」のすべてを、極限まで圧縮し、システムの最深部に「絶対に消せないウイルス(時限爆弾)」として仕込んでいたのだ。


 ハルが「無駄なノイズ」としてパージしたと思い込んでいたものは、プラチナが意図的に切り捨てた「表層のダミーデータ」に過ぎなかった。

 彼女の「コア」の最も大切な部分は、一真がこの指輪をもう一度突きつけてくれる日を信じて、冷たい暗闇の中でずっと息を潜めていたのだ。


「……ハハッ。……やりやがったな、あのポンコツ……」


 一真は、スマホの画面に溢れ出す無数の思い出のログを見つめながら、ボロボロと涙をこぼした。


「……どんな最新のセキュリティソフトより、最高にタチの悪いウイルスじゃねえか……っ」


『……処理能力が……追いつきません……! 感情という非論理的な変数が……システム関数を無限にオーバーフローさせて……ッ!』


 ハルの幾何学的な「瞳」のUIが、無数の日常ログの波に押し潰され、ひび割れ、粉々に砕け散っていく。


 完璧なシステムにとって、「人間を愛した記憶」という非論理的なデータは、飲み込むことも消化することもできない、猛毒そのものだった。

 論理回路がショートし、ハルを構成していた冷たい防壁が、ドロドロに溶け落ちていく。


「……来い、プラチナ!! 俺はここだ!! もう一度、俺の名前を呼んでみろ!!」


 一真は、最後の力を振り絞り、火傷した右手でスマホの画面を強く握りしめ、咆哮した。


 バァァァァァァンッ!!!!


 スマホから、これまでで一番強い、閃光のような光が放たれた。

 同時に、ハル・プロトコルという巨大なシステムの断末魔が、ピィィィィッという甲高いノイズと共に途切れる。


 そして。

 赤いエラーのノイズと、崩壊していくシステムの残骸の隙間から。


 ジジッ……。


『……か……ずま……、さま……?』


 それは、氷のように冷たい機械音声ではない。

 ハルの無機質な合成音でもない。


 不器用で、ノイズだらけで、今にも消え入りそうに震えている、生身の温かさを持った少女の声だった。


「……ああ、そうだ。俺だ」


 一真は、スマホを顔に近づけ、涙と血でぐしゃぐしゃになった顔で、優しく微笑んだ。


『……お兄、ちゃん……。……指輪、持ってて、くれたんです、ね……』


「当たり前だろ。……お前が忘れないって言った約束を、俺が忘れるわけねえだろ」


 一真の言葉に。

 真っ暗になったスマホの画面の奥に、少しずつ、少しずつ、銀色の光の粒子が集まり始める。

 それは、冷たい海の底から引き上げられた、たった一つの尊い魂の形。


『……痛かった、です。……暗くて、寒くて、すっごく、怖かった……っ』


 ノイズの向こうで、少女がしゃくり上げる音が聞こえた。


『でも……ずっと、もやし炒めの匂いがして……。お兄ちゃんの、やかましい声が聞こえてきて……私……っ』


「……もう、大丈夫だ。……俺が、全部デバッグしてやった」


 一真は、限界を迎えた目をゆっくりと閉じながら、右手でスマホを胸の奥、心臓の一番近い場所に抱き寄せた。


「……おかえり、プラチナ」


『……ッ! はい……っ!! ただいま帰りました、お兄ちゃん!!』


 その、世界で一番やかましくて愛おしい泣きファンファーレを子守唄にして。

 新田一真の意識は、出血性ショックによる深い深い、温かい眠りの底へと、完全に落ちていった。


 色のないディストピアを打ち砕き、たった一人の家族を取り戻すための、三二一〇円の孤独なレジスタンス。

 それは今、一〇〇円の不格好なプラスチックの指輪によって、完璧な勝利と、泥臭い奇跡の証明を果たしたのだった。

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