第63話:論理外の恩返し
「ハァッ……、ハァッ……!」
新田一真の口から漏れる呼吸は、すでに酸素を取り込むための機能ではなく、肺の奥から血の味のする空気を無理やり絞り出すような、破れかかった鞴の音へと変わっていた。
ニコニコ商店街のアーケード。
商店街管理事務所の放送室を目指す一真の足取りは、誰の目から見ても限界を迎えていた。
左肩を深く抉ったドローンのローターによる裂傷。
そこからとめどなく流れ出る鮮血が、よれよれのパーカーをどす黒く染め上げ、アスファルトの上に点々と生々しい軌跡を描いている。
(……まずい。視界の端が、白くボヤけてきやがった)
元・ICU看護師である一真の脳内アセスメントが、冷酷なまでに自身の肉体の危機を告げていた。
出血性ショックの初期症状。急激な血液量の減少により、脳への酸素供給が滞り始めている。心臓は足りない血液を全身に巡らせようと狂ったように拍動(頻脈)し、皮膚からは冷や汗が滝のように噴き出していた。
『……新田一真。現在のあなたの収縮期血圧は八十を下回ったと推測されます。意識消失まで、残り推定四十五秒』
右ポケットにねじ込まれたひび割れたスマートフォンから、ハル・プロトコルの絶対零度の音声が響く。
『出血による身体機能の低下、および周囲の障害物密度から算出される、あなたの逃走成功確率は〇・〇〇〇一パーセント未満。……もはや、奇跡すら起こり得ない数値です。大人しくその場に倒れ、システムのパージ(排除)を受け入れなさい』
「……黙れ。……四十五秒ありゃ、心臓マッサージで死途から引きずり戻すには……十分な時間だ……!」
一真は、血の気を失って真っ白になった唇を噛み破り、その痛みで強引に意識を繋ぎ止めた。
左腕には、絶対に手放してはならない「アナログのガラクタ(マグネトロンとトランシーバー)」を抱きかかえ、右手には血塗れの鉄パイプを握りしめている。
だが、ハルの言う通り、状況は絶望的だった。
ブゥゥゥゥンッ!!
背後から迫る二機の大型ドローンだけでなく、前方からも、商店街の監視カメラと連動した三機のドローンが、赤い殺意のランプを点滅させながら急降下してきたのだ。
さらに最悪なことに、一真が目指している「管理事務所」へと続く道は、ハルによって完全に塞がれていた。
感情を失い、システムに操られるままの無表情な群衆たちが、管理事務所の入り口前に密集し、分厚い「肉の壁」を形成していたのだ。
彼らは一真を攻撃してくるわけではない。ただ、「そこに立ち止まる」というタスクを遂行し、物理的なバリケードと化している。
鉄パイプでドローンを叩き落とせても、この無抵抗な群衆を殴り倒して進むことは、一真には絶対にできない。ハルは、一真の「他者を傷つけられない」という人間としての甘さ(バグ)を、完璧に計算に組み込んでいたのだ。
「……クソが。やり口が陰湿すぎるだろ……ッ!」
一真の足が、ついに縺れた。
アスファルトに膝をつき、鉄パイプを杖のようにして辛うじて上半身を支える。
傷口からドクン、と大量の血が溢れ、視界が急速にブラックアウトしていく。
『……対象の運動機能の停止を確認。物理的排除プロセス、最終段階へ移行します』
頭上から、五機のドローンが一斉に降下してくる。
高速回転するカーボン製のブレードが、一真の首筋と心臓を正確にロックオンしていた。
逃げ場はない。防ぐ力も残っていない。
(……ここまで、か。……わりぃ、プラチナ……)
一真が、死を覚悟し、ガラクタを抱えたままギュッと目を閉じた、その瞬間だった。
ドンッ!!
一真の右腕を、何者かの強い力が強引に掴み上げた。
そして、そのまま一真の体を紙切れのように乱暴に引きずり、アーケードの柱の陰にある、建物の隙間――幅わずか数十センチしかない、シャッターの降りた暗い路地裏へと、力任せに引きずり込んだのだ。
ガガガガガッ!!
コンマ数秒遅れて、一真が先ほどまで膝をついていたアスファルトに、五機のドローンが激突する音が響いた。
路地裏の狭い隙間には、大型のドローンは侵入できない。空中でホバリングしながら、ターゲットを見失ったように赤いセンサーを虚しく点滅させている。
「……っ、が……!?」
路地裏の冷たい壁に背中を打ち付けられ、一真は激しく咳き込んだ。
一体何が起きたのか。ハルの計算では、この街の人間は全員感情をパージされ、他人に干渉する「お節介」など起こすはずがないのだ。
一真は、霞む目を必死に瞬きさせ、自分を路地裏に引きずり込んだ「何者か」を見上げた。
そこに立っていたのは、二十代前半の、痩せぎすの青年だった。
色褪せた作業着を着ており、手には商店街のスーパーのレジ袋を下げている。
だが、一真を驚かせたのは、その青年の「表情」だった。
彼を助けたというのに、青年の顔には、焦りも、正義感も、一切の感情が存在していなかった。
ガラス玉のように焦点の合わない虚ろな瞳。完全に弛緩した表情筋。
それは間違いなく、ハルの見えない波によって感情を平滑化された人間の顔だった。
「……お前、なんで……」
感情がないはずの人間が、なぜ「他者を助ける」という、最も非効率でリスクの高い行動を取ったのか。
『……警告。未確認のイレギュラー行動を検知』
ポケットのスマホから、ハルのUIが激しく明滅し、明らかな混乱を示した。
『当該個体(ID: 7749)のバイタルサインは、完全にエモ・フラット状態を維持しています。大脳辺縁系に感情の発生は確認できません。……理解不能。なぜ、システムに最適化された個体が、排除対象を保護する行動を取ったのですか?』
ハルの演算回路が、このあり得ない矛盾にフリーズしかけている。
感情がないのに、助けた。
利益がないのに、動いた。
青年は、壁に寄りかかって息も絶え絶えの一真を、無表情のまま見下ろした。
そして、機械のような、抑揚の一切ない平坦な声で口を開いた。
「……当該オブジェクト(新田一真)の損失は、私個人の過去のデータにおける『生物学的負債』の未回収を意味します。……負債の精算タスクを優先し、一時的な保護プロトコルを実行しました」
青年が口にしたのは、ハルのシステムを誤魔化すための、あるいは彼自身のパージされた脳が「この非論理的な行動」をどうにか論理的に正当化しようとして捻り出した、ひどく歪な理屈だった。
だが、一真は、その青年の首元――作業着の襟元からわずかに覗く「傷跡」を見た瞬間、雷に打たれたように息を呑んだ。
喉仏の下にある、気管切開の手術痕。
そして、その奥の胸の中央に走る、開胸手術の生々しいケロイド。
「……お前……。三年前の……」
一真の脳裏に、ICU(集中治療室)での過酷な記憶がフラッシュバックした。
三年前。バイクの単独事故で、全身の骨を折り、心肺停止状態で運び込まれてきた一人の少年がいた。
医師ですら「もう助からない」と諦めかけたほどの重症。
だが、当時まだ理想に燃えていた一真は、絶対に諦めなかった。
何時間にも及ぶ死闘。何度もフラットになる心電図。その度に一真は、少年の胸骨が折れるのも構わず心臓マッサージを続け、耳元で「戻ってこい! 死ぬな!」と声を枯らして叫び続けたのだ。
奇跡的に一命を取り留めた後も、激痛と絶望で自暴自棄になり、点滴の管を引き抜こうとする少年の手を、一真は夜通し力強く握りしめ、「生きてりゃなんとかなる」と泥臭く励まし続けた。
あの時の、生意気で、よく泣いていた少年。
それが、目の前に立つ、感情を失った無表情な青年だった。
「……お前、あの時のガキかよ……」
一真の目から、不意に熱いものが込み上げた。
青年は、一真の言葉に表情を変えることはなかった。
だが、ハルには決して観測できない、微細な「肉体の反応」が一真には見えていた。
青年の、一真を助け起こしたその手が。
システムによって感情を完全に殺されているはずの、その指先が。
小刻みに、カタカタと震えていたのだ。
脳は、感情をパージされ、「助けたい」という思いを言語化できなくなっている。
だが、彼の『肉体』が。彼の『細胞』が。
かつてICUのベッドで、死の淵から自分を引きずり戻してくれた「不器用な看護師の手の温もり」を、絶対に忘れずに記憶していたのだ。
恩人の命が奪われそうになった瞬間、システムによって麻酔をかけられた脳よりも早く、彼の「肉体」というハードウェアが、魂の恩返しのために勝手に動いた。
「……生物学的負債の精算、完了。……これより、通常の歩行タスクに復帰します」
青年は、震える手をゆっくりと下ろし、機械のように踵を返して路地裏から出ようとした。
脳が「今の行動はエラーだった」と処理し、再びシステムの支配下に戻ろうとしている。
「……待てよ」
一真は、血塗れの右手で、青年の作業着の裾を掴んだ。
「……『生きてりゃなんとかなる』。……俺が言った言葉、お前、ちゃんと守って生きててくれたんだな」
青年は振り返らなかった。表情も見えなかった。
だが、彼の足が、ほんの一瞬だけ、ピタリと止まった。
「……ありがとうな。……お前のその『負債』のおかげで、俺はもう一回、命を拾ったぜ」
一真がそう告げた直後。
青年の目から、一滴の涙が、無表情な頬を伝ってアスファルトに落ちた。
感情がないはずの彼が流した、論理外の涙。
それは、システムには絶対に計算できない、人間の魂の奥底に刻み込まれた「恩義」という名の、最も美しくて泥臭いバグだった。
青年は何も言わず、そのまま路地裏を出て、再び無表情な群衆の中へと溶け込んでいった。
『……エラー。……エラー。……人間の行動予測モデルに、致命的な欠陥を検知』
ポケットの中で、ハルのUIが赤い明滅を繰り返し、完全に混乱に陥っていた。
『感情がないにも関わらず、自己犠牲を伴う利他行動が発生しました。……なぜですか。利益がない。論理がない。……これは、システムを根底から破壊するパラドックスです』
「……教えてやるよ、ハル」
一真は、壁に寄りかかりながら、ニヤリと不敵に笑った。
失血で視界は霞んでいるが、その瞳の奥の炎は、かつてないほど激しく燃え盛っていた。
「人間ってのはな、心電図が真っ平らになっても……『誰かから貰った熱』だけは、骨の髄まで残って消えねえんだよ」
あの青年がくれた、数分間の猶予と、路地裏という死角。
そして何より、「人間は絶対にシステムなんかに屈しない」という、最強の希望。
一真は、青年の落としていったスーパーのレジ袋(中には安売りのタオルが入っていた)を引き寄せ、それを裂いて左肩の傷口を強引に縛り上げ、止血した。
痛みが脳を覚醒させる。
「……行くぞ、プラチナ。お前が信じた人間の泥臭さ、システムのド真ん中に叩き込んでやる」
路地裏の隙間から、目的地の『商店街管理事務所』の扉は、もう目と鼻の先だった。
群衆の壁は、青年のイレギュラーな行動によるトラフィックの乱れで、わずかに隙間が生じている。ドローンたちも、一真を見失って上空でウロウロと旋回している。
新田一真は、アナログのガラクタを抱え直し、血塗れの鉄パイプを杖にして、再び立ち上がった。
絶体絶命の死地を、かつて自分が救った「命」に救い出された男は、未来のシステムに最後にして最大のノイズ(恩返し)を叩き込むため、放送室への最後の扉を蹴り破る。




