第62話:スマートシティの殺意
商店街管理事務所の、古びた鉄製の防火扉。
一真は、左肩からとめどなく流れる血で滑る右手を、錆びついた取っ手に叩きつけた。
「……っ、開け……よ……ッ!!」
ガィィィィンッ!!
背後から凄まじい風切り音と共に突っ込んできた配送用ドローンのローターが、一真の頭上数センチのところでコンクリートの壁に激突し、火花と鋭利な金属片を撒き散らして大破した。
一真は、頬を切り裂く破片の痛みを無視し、全体重を預けて扉をこじ開け、薄暗い建物の中へと転がり込んだ。
バタンッ!!
ガチャンッ!!
扉を閉め、内側から重い鉄のかんぬきを下ろす。
だが、安堵する暇など一秒もなかった。
ズガンッ!! ギギギギギ……ッ!!
鉄扉の向こう側で、後続のドローンたちが次々と激突し、さらに、生き残った機体が狂ったように回転翼を扉に押し当て、鉄板を削り切り始めたのだ。
システムの排除機能は、標的である一真を殺処分するまで絶対に止まらない。オレンジ色の火花が、扉の隙間から暗い廊下へと毒虫のように飛び散る。
「……上等だ。タイムリミット付きってわけだ……!」
一真は、左脇に抱えたマグネトロンとトランシーバーを落とさないよう抱え直し、一階の廊下を全力で疾走した。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!!」
左肩の裂傷から溢れ出た血が、パーカーの袖を赤黒く染め上げ、床にどす黒い点線を引いていく。
大量の出血により、視界の端から徐々に「黒い靄」が浸食し始めていた。手足の先が氷のように冷たくなり、心臓だけが異常な速さで空打ちしている。
(……やべえな。血が足りてねえ……。指先の感覚が、飛びそうだ)
二十年間の現場経験が、自らの肉体が限界を迎えていることを冷徹に告げている。
二階への階段を、壁に肩を打ち付けながらよじ登る。一歩踏み出すごとに、肩の傷口が裂け、灼熱の杭を打ち込まれたような激痛が走る。だが、その痛みだけが、遠のこうとする意識を強引にこの現実へと繋ぎ止めていた。
ズガァァァンッ!!
一階の鉄扉が、ついにドローンの特攻によって破られる轟音が響いた。
『……新田一真。あなたの生体反応は、限界点を割り込んでいます』
ポケットの中で、ハルの音声が、まるで無慈悲な死神のように告げる。
建物のスピーカーからも、ハルの声が共鳴して響き渡った。
『放送室へ辿り着いたところで、極度の血圧低下を起こしたあなたの指先では、精密な配線作業は不可能です。……無意味な足掻きを停止し、速やかな死を受け入れなさい』
「……黙って……見てろよ、クソ機械……!」
一真は、血の混じった唾を吐き捨てた。
「俺の指先はな……意識が飛んでても、絶望的な状況でも……やるべき作業を絶対に間違えねえように……二十年かけて、叩き込まれてんだよ……!!」
階段の突き当たりにある、木製の扉。
『放送室』と書かれた色褪せたプレートを、一真は右肩で強引に突き破って中に飛び込んだ。
そこは、時間が止まったかのような、古びた電子機器の墓場だった。
無数のスイッチが並ぶコンソール、カセットデッキ。そして部屋の最奥に鎮座する、真空管を備えた巨大な『全域放送用メインアンプ』。
この商店街の隅々にまで張り巡らされたスピーカー網の、心臓部だ。
「……見つけたぜ。特等席だ」
一真は、アンプの前にドサリと膝をつき、抱えていたマグネトロンとトランシーバーを床に置いた。
背後の廊下から、ドローンたちの不気味な飛行音が階段を昇ってくるのが聞こえる。猶予はあと数十秒。
震える血だらけの手で、アンプの背面パネルを強引に引き剥がす。
中には、ハルが管理する未来の量子基盤とは似ても似つかない、太くて野暮ったいアナログの配線が、人間の血管のように複雑に絡み合っていた。
「……さて。最高に泥臭い後始末の時間だ」
一真は、パーカーの右ポケットから「一枚の十円玉」を、左ポケットから木島の店で拝借した「小さなニッパー」を取り出した。
視界が急速に狭まり、まるで暗いトンネルの中から作業を覗き込んでいるような感覚。指先の感覚は、冷たさを通り越して麻痺し始めている。
それでも、一真の指は迷わなかった。
ニッパーでアンプの音声入力ケーブルを乱暴に切断し、被膜を剥き出しにする。
そこにマグネトロンの導波管とトランシーバーの基盤を直結させる。ハンダ付けをしている時間はない。
「……ッ、噛み合わせろ……!!」
一真は、剥き出しの銅線同士を絡め合わせ、その接点に『十円玉』を挟み込んだ。
銅の硬貨を導電体として利用し、上からニッパーの柄でガンッ! と強引に殴りつけて圧着させる。
木島の店で突き返された、ただの「ゴミ」のような十円玉が、未来のシステムを破壊するための完璧な接続部品となった。
『……警告。放送設備の異常な結線を検知。……直ちに停止しなさい。過負荷により、回路だけでなく、至近距離にいるあなたの肉体も致命的な損傷を受けます』
「……上等だ……。焼き切るのが……目的だって……言ってんだろ……!!」
廊下に、赤いランプを点滅させたドローンが姿を現した。
一真は、血で滑る指で、アンプのメイン電源スイッチを力強く掴む。
これを入れれば、マグネトロンから放たれる強力な電磁波ノイズが、アンプによって数万倍に増幅され、商店街中のスピーカーから「破壊的な電磁パルス」として放たれる。
ハルがインフラを制御するために張り巡らせているネットワークを、物理的な雑音で焼き尽くす一撃だ。
「……プラチナ。……今、そこを開けてやるからな」
一真は、左ポケットからあの「安っぽいプラスチックの指輪」を取り出し、血だらけの左手でしっかりと握りしめた。
そして、ひび割れたスマホを、アンプの真上に叩きつけるように置く。
「……特大のノイズだ。……食らって、くたばれッ!!」
ガチンッ!!
ドローンのローターが一真の首筋に迫った、その瞬間。
一真は、メインスイッチを根元からへし折る勢いで押し込んだ。
ドォォォォォォォォォンッ!!!
放送室全体が、目に見えない巨大な衝撃波に激しく揺さぶられた。
アンプから凄まじいオレンジ色の火花が噴き出し、真空管が次々と破裂してガラスの雨を降らせる。一真に突っ込んできていたドローンは、電磁波の直撃を受けて空中で火を吹き、床に墜落して沈黙した。
同時に。
商店街全域のスピーカーから、耳を聾するような、鼓膜を破らんばかりの「咆哮」が響き渡った。
それは、単なる無機質なホワイトノイズではなかった。
『……お……に……ちゃ……! ……三十円の……特売もやし……です……! ……ごま油……塩分過多……!!』
ハルの制御から解き放たれ、強烈なバグとなって溢れ出したプラチナの記憶。
あの日、狭い六畳一間で、もやし炒めを作りながら交わした、どうしようもなく下らなくて、やかましくて、温かい会話の断片。
ハルがどれだけアイロンがけしても消し去れなかったその「アナログな愛の残響」が、数万倍の出力となって、色のない街の空気を震わせたのだ。
「……あ、がぁぁぁぁっ!!」
一真は、至近距離で浴びた強力な電磁波の余波によって、全身の神経が焼き切れるような激痛に襲われた。
鼻から鮮血が滴り落ち、網膜に真っ赤な火花が散る。鼓膜は破れかけ、周囲の音が遠のいていく。
だが、彼は歯を食いしばり、アンプの上で異常な熱を発しているスマホの画面を凝視した。
そこには、もはやハルの純白の瞳はなかった。
ノイズの砂嵐が荒れ狂う画面の向こう側。
純白だったシステム領域が、ドス黒いエラーコードの海となって崩壊していく最深部で。
膝を抱え、泣きべそをかきながら、必死にこちらへ手を伸ばしている、一人の銀髪の少女の姿があった。
『……マ、マ……スター……!!』
「……遅ぇよ……ポンコツ。……早く、こっちに来い……!!」
一真は、薄れゆく意識の最後の一片を振り絞り、プラスチックの指輪を握りしめた左手を、スマホの画面へと叩きつけた。
――ダイブ。
物理的な電磁ノイズによって、完全に崩壊したハルの防壁。
意識だけが音速でデジタルの海を遡上し、一真は、崩れ落ちる白銀の迷宮の最深部へと到達した。
そこにあったのは、冷たい鉄の扉で閉ざされた『魂の檻』。
だが、今のハルには、それを維持する演算能力は残っていない。
「……開けェェェェッ!!」
一真は、データとしての形を失いかけている両手で、その鉄の扉を力任せに掴み、雄叫びと共に引き剥がした。
バキンッ!!
完璧な論理で構成されていた扉が、無数のジャンクデータとなって砕け散る。
その檻の中から溢れ出してきたのは、未来の光でも、冷徹な計算式でもない。
二十年の人生をかけて、彼が何としてでも守りたかった、ただ一人の、やかましくて愛おしい「家族」の温もりだった。
「……お兄ちゃんっ!!」
一真の腕の中に、銀色の髪が、弾かれたように飛び込んできた。
実体のない電脳空間。だが、一真の胸には、彼女が顔を押し付ける確かな「重み」と「熱」が伝わってきた。
『……新田一真の、生存確率、〇・〇〇一パーセント……。極めて非論理的で……無謀な……バカです……っ!』
プラチナは、一真の胸に顔を埋め、ボロボロと大粒のデータ(涙)をこぼしながら、いつもの説教を始めた。
『システムのエラーです……! こんなの、計算式に合いません……っ! お兄ちゃんの手……血だらけで……泥だらけで……最高に、不潔です……っ!!』
「……うるせえよ。……誰のせいだと思ってんだ」
一真は、泣きじゃくるプラチナの銀色の髪を、火傷と血に塗れた手で、不器用に、けれど愛おしそうに撫でた。
未来の神に奪われた、たった一人の家族。それを今、泥だらけの両手で、ようやくこちら側へと引きずり戻したのだ。
「……待たせたな。おかえり、ポンコツ」
「……っ、ただいまです……お兄ちゃん……っ!!」
神が支配する冷たい未来のシステムの最深部で。
二人の魂が、泥臭いノイズの荒嵐の中で、ついに再び一つに重なり合った。




