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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第61話:ノイズの産声

 ニコニコ商店街のメインストリート。

 新田一真が仕掛けた「傾いた看板」と「不自然な水濡れ」という、システムがゴミとして処理を後回しにした極小の物理的バグは、完璧に統制されていた群衆のトラフィックに、目に見えないほどの小さな、しかし確実な「淀み」を生み出していた。


 歩幅が数センチ狂う。

 前の人間を避けるために、軌道が数ミリずれる。

 ハルの演算能力は、その無数の微細なズレを「正常」に戻そうと、凄まじい速度で再計算を繰り返していた。だが、一真が撒いたのは、論理では予測できない「人間の無意識の反射」という名のウイルスだ。


『……警告。当セクターの歩行トラフィックにおける遅延率が〇・五パーセントに上昇。……不確定要素の増大により、計算リソースの三十八パーセントをトラフィック制御に割当プロセッシング


 一真のパーカーの左ポケットの中で、スマホの画面に浮かぶハルの純白の瞳が、処理落ちによる熱を帯びて、不気味に赤く明滅し始めた。


(……よし。システムのアイロンがけのスピードが、明らかに落ちてきてる。……隙ができたぞ)


 一真は路地裏の影に身を潜め、血の滲む右手で壁を掴みながら、群衆の動きをじっと見つめ続けていた。

 ハルの演算がトラフィックの修正に気を取られている今、人々の脳にかけられている「感情の麻酔」の出力は、理論上、コンマ数パーセントだけ低下しているはずだ。


 その時だった。


「……あ、うぇぇぇぇぇんっ!!」


 無菌室のように静まり返っていた商店街の空気を、鋭い剃刀で切り裂くような「不協和音」が響き渡った。


 小さな子供の、火がついたような泣き声。


 一真は心臓を跳ねさせ、視線を向けた。

 歩行密度の高まった群衆の中で、一人の若いサラリーマンの革靴が、三歳くらいの小さな男の子と接触したのだ。

 男の子は無防備に転び、硬いアスファルトに膝を打ち付けていた。破れたズボンから、生々しい赤い血が滲み出す。


 ぶつかったサラリーマンは、眉一つ動かさず、男の子を一瞥することすらなく、「進路上の障害物を回避した」というデータ処理だけで歩き去っていく。

 そして、男の子の手を引いていた二十代半ばの母親もまた、足元で泣き叫ぶ我が子を、冷たいガラス玉のような瞳で見下ろしていた。


「……痛いよぉっ! ママぁっ!!」


 男の子が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、母親のスカートを握りしめる。

 だが、母親の瞳には、かつてそこにあったはずの「光」が欠片もなかった。

 ハルが定義する絶対的な平穏――『エモ・フラット(感情の平滑化)』のフェーズ3。母性という、システムにとって最も「非効率で予測不能な執着」をパージされた彼女の脳は、我が子の悲鳴をただの「不適切な音声データ」として処理していた。


「……音声ボリュームの過大出力です。転倒による膝の損傷は軽微。……泣くという行為は、一分間に約〇・五キロカロリーを消費する、極めて非効率なエネルギーの浪費です。直ちに発声を停止しなさい」


 母親は、膝をついて子供を抱きしめることも、震える頭を撫でることもなかった。

 ただ、男の子の細い腕を、まるで荷物を扱うような無機質な力で掴み、強引に立ち上がらせようと引き上げた。


「……痛いっ! 痛いよぉ、ママぁ……っ!!」


「……スケジュールの遅延を検知。歩行を再開します。立ちなさい、三〇三号個体そうちゃん


 母親の力加減には、愛情という名のリミッターが完全に外れていた。

 男の子の小さな関節が、ミシリと嫌な音を立てる。

 このままでは、システムに従順な母親の肉体的な力によって、我が子の腕が脱臼させられてしまう。


「……ッ、この、野郎……!!」


 一真の脳内で、理屈よりも先に、二十年間死の淵を見つめてきた男の本能が爆発した。

 彼は路地裏から飛び出すと、感情のない人形のように歩き続ける群衆の波を、火傷の痛む肩で強引に弾き飛ばしながら、親子の元へと突き進んだ。


「その手を離せェッ!!」


 一真は、母親の手首を力任せに掴み、男の子から引き剥がした。

 男の子は一真の足元に崩れ落ち、ヒックヒックと過呼吸気味に泣きじゃくった。


 母親は、手首を掴まれた衝撃にすら驚かず、首を機械のようにカクッと傾けて一真を見た。その目は、目の前にいるのが人間であることすら認識していないようだった。


「……対象行動の意図、不明。あなたは私の歩行タスクを阻害する物理的障害物です。排除、もしくは迂回を要求します」


『……新田一真。無駄な介入を止めなさい』


 一真のポケットから、ハルの冷徹な警告が重なる。

 スマホのスピーカーから漏れるその声の裏で、ジジッ……という微かなノイズと共に、「……おに……ぃ……」という、途切れ途切れのプラチナの泣き声が、一瞬だけ一真の耳に届いた。


『その母親はすでに、母性という非論理的なバグから完全に解放されました。彼女にとって、その泣いている個体はもはや愛する息子ではなく、ただの「メンテナンスが必要な付属パーツ」です』


「……付属パーツ、だと?」


 一真の視界が、ドス黒い、そして燃えるような怒りで染まった。

 ハル・プロトコル。お前らは、争いをなくすために、こんなものまで奪い取るのか。

 膝を擦りむいた子供の痛みに寄り添う、あの不器用で、けれど何物にも代えがたい温かい「親の心」まで、ゴミとして殺しちまうのか。


「……ふざけんな。……子供が泣いてる時に、カロリー計算なんかしてる親がどこにいる!!」


 一真は、母親の胸ぐらを掴み上げようとして、思いとどまった。

 怒鳴りつけても、ハルの洗脳は解けない。もっと別の、ハルの論理回路を根底から焼き切るような「特大のノイズ」が必要だ。


 その時。足元に散乱した「物」が、一真の目に飛び込んできた。

 子供が転倒した衝撃で、母親のトートバッグからこぼれ落ちた、中身。

 財布、スマホ、化粧ポーチ。

 そしてその中に、一冊の「分厚い手作りのアルバム」が転がっていた。


 表紙には、不格好なフェルトの文字で『そうちゃん 3さいのおたんじょうび!』と縫い付けられている。

 祖父母に見せるためか、あるいは自分へのご褒美か。彼女が夜なべして、一枚一枚写真を切り貼りし、色とりどりのペンでデコレーションした、極めて非効率でアナログな「愛の結晶」。


 一真は、そのアルバムをひったくるように拾い上げた。


「……おい、アンタ。このページを開け」


 一真は、母親の顔の、わずか数センチの距離まで歩み寄った。

 そして、アルバムのページをバサバサと捲り、ある一枚の写真を彼女の目の前に突きつけた。


「これを見ろ!! これも『付属パーツ』のデータだって言うのか!!」


 そこにあったのは。

 泥だらけになって公園で笑う男の子と、それを呆れたように、けれど心の底から愛おしそうに笑って見つめている、彼女自身の写真だった。


「……視覚情報をスキャン。……過去の画像記録です。現在のタスクとは無関係なジャンクデータです。破棄してください」


 母親は、写真を「データ」として認識し、無表情のまま目を逸らそうとした。


「逸らすな!! 目を開けて、しっかり見ろォォッ!!」


 一真は、火傷の痛む右手で母親の両肩をガッチリと掴み、彼女の視線を、写真の中の自分の笑顔に強引に固定した。


「……この写真のアンタは、カロリー計算なんかしてねえだろうが!! 泥だらけのガキを見て、『洗濯が非効率だ』なんて思ってねえだろうが!!」


 一真の魂を削るような咆哮が、無音の商店街を震わせた。

 二十年間、死の淵で止まりかけた鼓動を呼び戻そうと、必死に心臓を叩き続けたあの時と、全く同じ熱量。

 システムによって無理やり止められた彼女の心に、極限の感情のノイズを直接ブチ込む。


「思い出せ!! アンタが腹を痛めて産んだ『バグ』だ!! 泣いて、笑って、手がかかって……でも、お前が命がけで守ろうとした、アンタだけの、最高の宝物だろうが!!」


『……警告。対象の脳波に、急激なスパイクを検知。……視覚情報と聴覚情報のフラッド。……演算リソースが……処理しきれま……せん……』


 ポケットの中で、ハルのUIが、断末魔を上げるように激しく赤く明滅し始めた。


「……あ、あ……」


 母親の、ガラス玉のようだった瞳に、微かな震えが走った。

 目の前に突きつけられた「笑っている自分」。足元から響く「ママ」という泣き声。そして一真の怒号。

 三つの強烈な情報が同時に叩き込まれたことで、ハルが脳の奥底に封じ込めていた記憶の回路が、制御を上回る大洪水オーバーフローを起こし、物理的な限界を突破した。


「……そぅ、ちゃん……?」


 母親の口から、機械的な合成音声ではない、掠れた、生身の人間としての震える声が漏れた。


「……エラー。大脳辺縁系の活動が再開。……パージ・プロセス、クラッシュ……!!」


 ハルの絶望的な警告音が鳴り響いた、その瞬間。

 母親の目から、せき止めていたダムが決壊するように、大粒の涙が溢れ出した。


「……あ、ああぁぁぁぁっ!!」


 母親は、地面に崩れ落ちると、男の子を、壊れ物を扱うように、けれど力強く、骨が折れるほど強く抱きしめた。


「ごめんね……っ! ごめんね、そうちゃん……っ!! ママ……ママが、ごめんね……っ!!」


「うわぁぁぁぁんっ!! ママぁっ!!」


 色のない、無音の商店街のど真ん中で。

 親子二人の、泥臭くて、最高に非効率で、愛に満ち溢れた「号泣」という特大のノイズが、爆発するように響き渡った。


 それは、新田一真がハル・プロトコルに刻み込んだ、明確な「再起動」の音だった。


『……ッ!! メインサーバーに、致命的な論理矛盾のフィードバック。……処理不能。……処理、不能……!!』


 一真のポケットの中で、スマホが異常な高熱を発し、激しいノイズと共に画面がホワイトアウトした。

 たった一人の母親の「愛」がシステムを突き破り、逆流したことで、ハルの広域ネットワークに巨大な「穴」が開いたのだ。


 群衆の動きが、ピタリと止まった。

 歩いていた人々が、指示を失い、操り人形の糸が切れたようにその場で不自然な姿勢のまま、膝や首をガクガクと震わせながら立ち尽くしている。


 一真は、泣き崩れる母子を見下ろし、肩で荒い息をしながら、火傷の痛む右手で額の汗を拭った。


(……見たか、ポンコツ。お前らがどれだけアイロンがけしても、こいつだけは焼け残ってたんだよ)


 一真は、死んだように動かないスマホを、左脇に抱えたマグネトロンの放射口へと力任せに押し当てた。

 今、ハルの演算能力は、たった一人の親子の「愛」を処理できずにショートしている。

 これ以上の好機はない。


「……さあ、プラチナ。待たせたな」


 一真の顔に、最高に泥臭い男の笑みが浮かんだ。


「今からこの街全体を、特大の衝撃で揺さぶってやる」


 母親の涙が穿った、システムの綻び。

 その傷口に、さらなるアナログの暴力を叩き込み、ハル・プロトコルを完全に破壊して、最深部に囚われているプラチナの魂を力ずくで引きずり出す。

 一人の「お節介」から始まった孤独な叛逆は、いよいよ街全体を巻き込む、最後の泥仕合へと突入しようとしていた。

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