第64話:心臓の記憶
「……当該オブジェクトの損失は、私個人の過去のデータにおける『生物学的負債』の未回収を意味します。……負債の精算タスクを優先し、一時的な保護プロトコルを実行しました」
薄暗い路地裏。
ハル・プロトコルの支配下にあるはずの青年は、感情の一切ない虚ろな瞳のまま、一真を助けた自らの非論理的な行動を、機械のような理屈で正当化しようとしていた。
「……生物学的負債の精算、完了。……これより、通常の歩行タスクに復帰します」
青年は、ロボットのようにカクッと踵を返し、路地裏から出て群衆の波に戻ろうとした。
脳にかけられた見えない麻酔が、一瞬のバグを修正し、再び彼を「完璧なシステムの一部」へと引き戻そうとしているのだ。
「……待てよ」
一真は、アスファルトに膝をついたまま、血塗れの右手で青年の作業着の裾を強く掴んだ。
左肩のドローンの裂傷から流れ出る血が、一真の意識を白く塗り潰そうとしている。ハルの宣告通り、失血による意識消失まで、もはや数十秒の猶予しかない。
だが、一真の眼光は、ICUで死にかけの患者を前にした時のように、恐ろしいほどの熱と集中力を帯びていた。
「……歩行タスクの阻害を検知。離してください」
青年が無機質に一真を見下ろす。
「……ハルに感情(脳みそ)をアイロンがけされて、自分が何で俺を助けたのか、分かんなくなってんだろ」
一真は、壁を伝って無理やり立ち上がると、青年の首元――気管切開の痕と、その下にある開胸手術の生々しいケロイドに、ドクドクと血の滴る自分の右手を、ドンッと押し当てた。
「……お前は今、自分には感情がない、ただの論理的な機械だと思ってるかもしれない」
一真の血が、青年の作業着の胸元を赤く染める。
「でもな。お前の脳がどれだけ『何も感じない』って嘘をついても……お前の『身体の記憶』までは、絶対に消せてねえんだよ」
「……意味不明な音声入力です。人間の肉体はただのタンパク質の……」
「黙って、自分の心臓の音を聞け!!」
一真の怒号が、路地裏に響き渡った。
「……ッ」
青年の身体が、ビクッと震えた。
「……俺の手のひら越しに、はっきり伝わってくるぜ。……お前の心拍数は今、平常時の六十なんかじゃねえ。百を超えて、狂ったように早鐘を打ってる。……冷や汗もかいてるし、呼吸も浅い」
一真は、かつてこの青年の命を繋ぎ止めた時と同じ、トリアージ・ナースとしての絶対的な『診断』を下した。
「それはな、システムのエラーなんかじゃねえ。……『目の前で人が死にそうになっていることへの恐怖』と、『助けなきゃいけないっていう焦り』だ。……三年前、お前がICUのベッドで痛みに泣き叫んで、生きたいって足掻いた時に刻み込まれた、生々しい『命の熱』そのものなんだよ!」
一真の言葉は、量子ネットワークを通じたデジタルなハッキングではない。
生身の人間から生身の人間へと直接叩き込まれる、究極のアナログな電気ショックだった。
「脳みそを騙せても、細胞に刻まれた痛みと恩義は絶対に嘘をつかねえ。……お前は、生きている。完璧な機械なんかじゃない、泥臭くて不格好な人間だ!」
青年の虚ろだった瞳孔が、急激に収縮した。
彼の胸の奥底で、システムに封じ込められていたはずの「何か」が、一真の血の温もりと、心臓の激しい鼓動に呼応して、致命的なバグを起こしたのだ。
「……あ……、あ……」
青年の口から、ノイズのような掠れた息が漏れる。
そして、システムに感情をパージされているはずの彼の目から。
一滴の透明な涙が、ポロリとこぼれ落ち、一真の血で汚れた手の上に落ちた。
「……それが、俺の診断だ。……よく頑張ったな」
一真は、青年の胸から手を離し、ニヤリと笑った。
青年は、自分の頬を伝う涙の意味を理解しきれないまま、けれど、確かな「体温」を取り戻した顔で、深く一度だけ頷いた。そして、今度こそ群衆の中へと溶け込んでいった。
『……警告。警告。……イレギュラー個体の増殖による、論理崩壊の連鎖を検知……!』
ポケットの中で、ハルが悲鳴のような警告音を鳴らし続ける。
「……さて。お前のおかげで、少しだけ寿命が延びたぜ」
一真は、青年が落としていったスーパーのレジ袋を引き裂き、自分の左肩の裂傷の根元を、歯と右手を使って強引に縛り上げた。
強烈な痛みが脳を貫き、失血で遠のきかけていた意識を、強制的に覚醒させる。
「行くぞ、ハル。お前らの無菌室を、この街ごとぶっ壊してやる」
一真は、左脇にマグネトロンとトランシーバーを抱え直し、右手で血塗れの鉄パイプを握りしめ、路地裏からアーケードのメインストリートへと飛び出した。
ブゥゥゥゥンッ!!
一真が姿を現した瞬間、上空で旋回していた五機の大型ドローンが、一斉に牙を剥いて急降下してきた。
「邪魔だァァッ!!」
一真は、向かってくる最初の一機に対し、鉄パイプを野球のバットのようにフルスイングした。
ガァァァンッ! と凄まじい金属音が響き、ドローンのカメラレンズが粉砕されて壁に激突する。
だが、その反動で一真の体勢が崩れた。そこへ、残る四機が、一真の四肢を切断しようとローターを唸らせて迫る。
(……トリアージだ。命に別状のない傷は、全部くれてやる!)
一真は、致命傷となる首と、ガラクタを抱えた左腕だけを死守し、あえてドローンの群れの中へ自ら飛び込んだ。
ガシャッ! ズバァッ!!
右太ももをブレードが掠め、背中のパーカーが切り裂かれて鮮血が舞う。
だが、一真は痛みに顔を歪めながらも、ドローンを「踏み台」にするようにして蹴り飛ばし、包囲網を強引に突破した。
目の前にそびえ立つのは、目的地の『商店街管理事務所』。
二階建ての古びたコンクリートの建物だ。
入り口のガラス扉の前には、ハルに操られた無表情な群衆が、分厚い「肉の壁」を作って立ち塞がっている。
『……新田一真。到達不能です。対象群衆への物理的加害を行わずに、建物へ侵入するルートは存在しません』
ハルが、勝利を確信したような冷酷な計算結果を弾き出す。
「……誰が、正面から入るって言ったよ」
一真は、群衆の前で急ブレーキをかけると、建物の『側面』へと回り込んだ。
そこには、二階の放送室へと通じる、太い雨樋と、エアコンの室外機が設置されていた。
一真は、鉄パイプをアスファルトに放り捨てた。
そして、血まみれの右手と、ガラクタを抱え込んだままの左腕を不器用に使い、室外機の上に飛び乗った。
「ぐっ……、あぁぁぁっ!!」
裂けた左肩の筋肉が悲鳴を上げ、縛った止血帯から血が吹き出す。
だが、一真はそのまま雨樋にしがみつき、気合いと狂気だけで、二階の窓の庇へとよじ登った。
ブゥゥゥン!!
背後まで、三機のドローンが迫っている。
一真は、二階の放送室のすりガラスの窓に向かって、自らの身体ごと、躊躇いなく突っ込んだ。
ガシャァァァァァァンッ!!!
鋭いガラスの破片が全身に突き刺さるのも構わず、一真は放送室の中へと文字通り「転がり落ちた」。
直後、一真を追ってきたドローンたちが窓枠に激突し、火花を散らして外へ墜落していく。
「……ハァッ……、ハァッ……!!」
放送室の床に倒れ込んだ一真は、全身血だらけの泥人形のような有様だった。
だが、彼の左腕の中にあるマグネトロンとトランシーバーだけは、奇跡的に無傷のまま守り抜かれていた。
一真は、ガラスの破片が散乱する床を這いずり、部屋の中央に鎮座する巨大な機材の前へと進んだ。
それは、商店街の端から端まで、すべてのアンプとスピーカーを統括する、旧式の『メインアンプ制御盤』だった。
『……警告! 当該施設への不正侵入を検知。新田一真、直ちにその機材から離れなさい!』
ポケットのスマホから、ハルがかつてないほど取り乱した、パニックに近い警告を発する。
「……離れるわけねえだろ。……俺の、大仕事だぜ」
一真は、血塗れの手で、放送設備のマイク端子と電源ケーブルを強引に引き抜いた。
そして、ジャンク屋で買ったマグネトロンの導線を剥き出しにし、アンプの増幅回路の基盤に、ショートさせる覚悟で直接ねじ込んだ。
さらに、トランシーバーの送信ボタンをガムテープで固定し、それをマグネトロンの磁気発生装置に密着させる。
極めて原始的で、粗悪で、論理の欠片もない「アナログEMP兵器」の完成だ。
『……やめなさい!! そのようなアナログな過剰出力を広域スピーカー網に直結させれば、この街の量子ネットワークインフラは、致命的な電磁パルスによって物理的に焼き切れます!! エモ・フラットの維持が……私の『完璧な世界』が崩壊します!!』
「完璧な世界だぁ?……笑わせんな」
一真は、電源のメインブレーカーに血まみれの手をかけた。
「そんな色気も匂いもねえ無菌室、こっちから願い下げなんだよ。……人間はな、靴紐が解けりゃイライラするし、もやしが焦げりゃ文句を言う。……誰かのために泣いて、誰かのために怒る。……そういう『バグ』があるから、生きていけるんだ!!」
一真の脳裏に、あの銀髪の少女の、やかましくて、世界で一番愛おしい笑顔が浮かんだ。
「……起きろ、プラチナ!! 俺たちの泥臭い日常を、取り戻す時間だ!!」
一真は、咆哮と共に、メインブレーカーのスイッチを、全力で押し込んだ。
バチィィィィィンッ!!!!
放送室の機材が、凄まじいショート音と共に青白い閃光を放った。
マグネトロンから発生した極大のマイクロ波が、トランシーバーの電波に乗って、メインアンプによって数万倍に増幅される。
ニコニコ商店街の全域に設置された無数のスピーカーから。
音楽でも、音声でもない。
「ギィィィィィィィィィンッ!!!」という、鼓膜と脳髄を直接揺さぶる、途方もない音量の「ノイズ(雑音)」が、爆発するように街中へ放たれた。
それは、ハル・プロトコルが支配する冷たい量子ネットワークを物理的に焼き切る、泥臭い反逆者による、街全体への特大の「AED(電気ショック)」だった。




