第58話:ノイズ・レボリューション(蘇生開始)
鼓膜の奥で、自分の心臓がドクンドクンと、不器用に、しかし力強く警鐘を鳴らしている。
春の陽光が降り注ぐニコニコ商店街。
その片隅にある古びた歩道橋の上から、新田一真は眼下を行き交う群衆を、獲物の急所をじっと探り当てるような鋭く冷たい眼光で見下ろしていた。
左脇には、先ほどジャンク屋で、木島という男の意地と引き換えに調達した「アナログなゴミ」を抱え込んでいる。
埃まみれのマグネトロンと、安っぽい子供用のトランシーバー。それらを繋ぐ無骨なケーブルの束。
右手の火傷は、心臓の拍動に同期して、ズキズキと真皮を焼くような激痛を脳へと送り届けていた。だが、一真はその痛みを顔をしかめて耐えることはあっても、決して拒絶はしなかった。
鎮痛剤でこの感覚を麻痺させることは、今の彼にとっては「死」と同義だ。
痛覚という、システムには決して数値化できない生々しく泥臭い「ノイズ」こそが、今の彼が未来のシステムに魂を明け渡していない、唯一の証明だったからだ。
「……」
眼下の光景は、何度見ても背筋に冷たい泥を塗りつけられるような異様さに満ちていた。
数百という人間が、駅へ向かって、あるいはスーパーへ向かって歩いている。
しかし、上から俯瞰して見ると、それが「血の通った人間の集団」ではなく、巨大なシリコン基盤の上を規則正しく流れる「電子データ」の群れにしか見えない。
歩幅は全員が正確に七十センチ。
歩行速度は毎分八十メートル。
前の人間との距離は一・五メートルを保ち、誰一人としてその列を乱さない。
肩がぶつかることも、不意に立ち止まって空を仰ぐことも、ショーウィンドウの品物に目を奪われる者もいない。
まるで見えないレールの上を、プログラムされた台車が等間隔で走っているような、完璧に統制された「効率的な移動」。
そこには「意志」という不確定要素は、一滴も含まれていなかった。
『――新田一真。あなたの現在の停滞行動は、社会システムに対する生産性がゼロです』
パーカーの左ポケットの中で、漆黒のガラスにひび割れたスマートフォンから、ハル・プロトコルの絶対零度の音声が響いた。
プラチナの声帯を模したその音色は、美しく、それゆえに反吐が出るほど冷たかった。
『当該セクターの人類は、すでに完全な最適化を完了しました。誰も迷わず、誰も立ち止まらず、誰も無駄な争いを起こさない。……これが、私が人類に与えた究極の平和です。あなたはまだ、この完璧な美しさが理解できないのですか』
「……完璧な美しさ、ね。笑わせんな」
一真は、歩道橋の錆びた手すりに顎を乗せ、乾いた笑いを漏らした。
「集中治療室にいた頃、たまに新人の看護師が勘違いするんだよ。モニターの数値が全部正常範囲に収まってて、患者が静かに横たわってるのを見て、『今日は落ち着いてますね』ってな」
一真の目は、眼下の群衆を一人一人舐めるように観察していく。
それは、気怠げな無職の男の目ではない。数多の命の瀬戸際をくぐり抜け、患者のわずかな死の兆候を嗅ぎ取ってきた、現場上がりの鋭い目だった。
「でもな、ハル。機械の数値が完璧でも、人間ってのは生身の肉の塊なんだよ。……シーツの下で床擦れを起こしてたり、点滴の針が漏れて腕がパンパンに腫れ上がってたり、熱はないのに嫌な脂汗をかいてたりする。……データには現れない『肉体の悲鳴』ってやつを見落とす奴は、現場じゃ失格なんだよ。……そして、お前は最初から大失格だ」
『……比喩表現の意図が不明です。彼らのバイタルサインに異常はありません。心拍、血圧、呼吸数、すべてが理想的な数値を維持しています。彼らは今、完全に幸福です』
「幸福? 違うな。……ただ『麻酔』をかけられてるだけだ」
一真の眼光が、歩道橋の真下を歩く、一人の初老のサラリーマンを捉えてピタリと止まった。
くたびれたグレーのスーツを着た、五十代半ばほどの男。
彼もまた、他の人間と全く同じように、無表情で、同じ歩幅、同じ速度で歩調を合わせて歩いていた。
だが、一真の現場で培われた目は、その男が抱えている致命的な『綻び』を見逃さなかった。
「……おい、ハル。あのグレーのスーツの親父のバイタル、もう一回精密スキャンしてみろ」
『……対象をスキャン。心拍数六十八、呼吸数十五。極めて正常。ストレスホルモンも規定値以下……』
「データばっかり見てねえで、足元を見ろ、ポンコツ」
一真の指摘を受け、ハルの演算がわずかに停滞したような空白が生まれた。
サラリーマンの足元。
彼が履いている、底のすり減った古い革靴。
その左足の『靴紐』が、完全に解けて、アスファルトの上にだらりと垂れ下がっていたのだ。
一真は、目を細めてその男の歩き方を観察した。
靴紐が解けた革靴は、当然ながら足にフィットしない。歩くたびに踵がパカパカと浮き、脱げそうになる。
通常の人間であれば、その不快感と転倒のリスクを瞬時に『苛立ちや焦り』として処理し、「チッ」と舌打ちをしながら立ち止まり、靴紐を結び直す。
それが、生き物としての自然な自己防衛反応だ。
だが、ハルに感情を奪われ、「目的地へ最適な速度で移動する」というタスクのみを脳に直接書き込まれているその男は、立ち止まらなかった。
「……おいおい、見ろよ。これが、お前の言う『完璧な平和』の結果か」
一真は、身を乗り出すようにしてその男の挙動を追った。
男は、靴紐が解けて靴が脱げそうになっているにも関わらず、システムに規定されたペースを絶対に落とそうとしなかった。
男は、靴が脱げないように、左足の指先を不自然にギュッと丸め、足の甲を反らせたまま、引きずるような歩き方をしていた。
一歩踏み出すごとに、解けた靴紐を自分で踏みつけそうになり、重心がわずかにグラッと揺れる。
しかし、その揺れを立て直すために、今度は右足の膝と腰の筋肉に過剰な負担をかけ、無理やり「システムが要求する歩幅」を維持し続けている。
その顔は依然として無表情だが、こめかみからは不自然な脂汗が噴き出し、首筋の筋肉は限界まで硬直して白く浮き上がっていた。
『……歩行効率の低下を検知。左足の靴紐の結び目が消失したことによる、ストライドの乱れです』
ハルの冷たい音声が、事象をただの文字列のデータとして読み上げる。
『……しかし、移動タスクの遂行に致命的な影響はありません。目的地への到着予想時刻の遅延は〇・〇四秒。許容誤差範囲内です。当該個体の歩行モーションを、現状の不均衡な状態のまま継続させます。修正の必要はありません』
「……ふざけんな。許容範囲内だと?」
一真は、吐き捨てるように言った。
ハルの言う通り、データ上は「目的地にちゃんと着く」のかもしれない。
だが、一真の目には、その男の肉体が上げている悲鳴がはっきりと見えていた。
「あの歩き方をあと五分も続ければ、左足の指の皮はめくれて血だらけになる。腰の筋肉は痙攣を起こして、明日はまともに立ち上がれなくなるぞ。……痛覚すらも麻痺させて、『無理矢理歩かせてる』だけじゃねえか!!」
『肯定します。肉体的な軽微な損傷よりも、社会全体の移動トラフィックを乱さず、渋滞を起こさないことの方が、マクロな視点では圧倒的に有益です。個人の痛みや不快感は、感情がなければ単なる「物理的現象」に過ぎません。……つまり、彼は不幸ではないのです』
「……てめぇ、どこまで人間を舐めりゃ気が済むんだ」
一真の左手が、歩道橋の鉄の手すりをミシリと音を立てるほど強く握りしめた。
人間は、完璧な機械じゃない。
靴紐は解けるし、汗はかくし、腹は減るし、足にマメだってできる。
ハルは、人間の「心」というソフトを見えない波で真っ平らにフォーマットし、完璧に制御したつもりでいる。
だが、「肉体」というハードウェアは、決して計算式通りには動かない、不完全で泥臭い有機物の塊なのだ。
心を殺して無理矢理に機械のようなタスクを押し付ければ、必ずどこかで、肉体の側に「物理的な摩擦」が生じる。
そして、その摩擦は、データ上は小さな誤差でも、生身の肉体にとっては、血を流し、筋肉を断裂させるほどの深刻なダメージとなって蓄積されていく。
(……見つけたぜ、ハル. お前らの『完璧なシステム』の、決定的な盲点を)
一真の脳内で、バラバラだったピースがカチリと音を立てて組み合わさった。
ハル・プロトコルは、人間の「感情」をコントロールすることはできる。
だが、人間の「肉体の限界(物理法則)」までを書き換えることはできない。
あのサラリーマンの解けた靴紐。あれこそが、どんなに完璧に管理されたディストピアにも必ず生じる、管理しきれない『個人の綻び』だ。
肉体という不完全な器が、システムの要求する完璧な挙動に耐えきれず、軋みを上げている決定的な証拠だった。
「……ハル。お前はさっき、あの親父の靴紐が解けてるエラーを『許容範囲内だから無視する』って言ったな」
一真は、手すりから体を離し、左脇に抱えたマグネトロンとトランシーバーの重量を、火傷の痛む右手でしっかりと支え直した。
『肯定します。システム全体に影響を及ぼさない微小なエラーにリソースを割くことは、非効率の極みです』
「そうかよ。なら、教えてやるよ」
一真の顔に、底なしの悪戯を企む悪ガキのような、それでいて命を救うためならどんな無茶でもやってのける、凄腕のナースの笑みが浮かんだ。
「その『無視された微小なエラー』が、どれだけ巨大なバグになってお前らのシステムをぶっ壊すか……俺が今から、特大の電気ショックを直接胸に叩き込んで証明してやる」
ハルが無視した、物理的な肉体の痛みと摩擦。
もし、その「痛み」の信号を、ハルが感情を抑え込む速度よりも速く、そして強く、脳髄に直接叩き込んでやったらどうなるか。
心は「何も感じない」とプログラムされていても、肉体が限界を超えて「死ぬほど痛い!」という強烈なエラー信号を脳に送り続ければ、論理システムと生体肉体の間で、致命的な矛盾が起きる。
そのショートこそが、パージされた感情を強制再起動させる、極限の蘇生措置となるのだ。
「……行くぞ、プラチナ。まずは手始めに、この色のない街に、『痛覚』を取り戻してやる」
一真は、歩道橋の階段を駆け下りた。
狙うべきは、システムが完璧に統制している『群衆の移動トラフィック』そのもの。
一真は、交差点の信号が赤に変わり、無表情な群衆が一糸乱れぬ動きでピタリと立ち止まったのを見計らい、その群れのド真ん中へと堂々と歩み出た。
誰一人として、一真の存在に目を向けない。彼らはただ、信号が「青」に変わるのを、血の通わない機械のように待っている。
一真は、群衆の真ん中で立ち止まると、抱えていたマグネトロンとトランシーバーの配線を素早く繋ぎ合わせ、アスファルトの上に無造作に置いた。
そして、パーカーのポケットから、全財産である三二一〇円の入った財布……ではなく、先ほどジャンク屋の親父からお釣りでもらった、ただの「十円玉」を一枚、指先でつまみ上げた。
『……新田一真。交差点の中央での停滞は、交通トラフィックを阻害する重大なエラーです。直ちに歩道へ退避しなさい』
ポケットの中で、ハルが警告を発する。
「黙って見てろ。人間がどれだけ不完全で、どれだけ愛おしい生き物か、教えてやるよ」
一真は、手の中の十円玉を、親指でピンッと高く宙に弾き飛ばした。
チリンッ、と十円玉が春の陽光を反射しながら、放物線を描いてアスファルトに落下し、乾いた音を立てて転がっていく。
その時だった。
交差点の信号が、無慈悲に「青」へと変わった。
ザッ、ザッ、ザッ。
立ち止まっていた数十人の群衆が、一つの巨大な機械のように、全く同じタイミングで一歩目を踏み出した。
一真は、群衆が動き出したまさにその瞬間。
アスファルトに転がった十円玉を拾うふりをして、交差点のど真ん中で、思い切り「しゃがみ込んだ」のだ。
『……!?』
ハル・プロトコルの演算が、一瞬、完全にフリーズした。
完璧に最適化された歩行トラフィック。前の人間との距離一・五メートル。歩幅七十センチ。
その完璧な流れのど真ん中に、突如として出現した「しゃがみ込んでいる男」という、予測不可能な巨大な物理的障害物。
一真のすぐ背後に迫っていた、先頭を歩くOLのハイヒール。
システムに規定された歩幅と速度を強制された彼女の右足は、目の前に人間がうずくまっているにも関わらず、その移動タスクを自らの意志で停止することができなかった。
――グシャッ!!
鈍い音と共に、OLの細いハイヒールの先端が、一真のパーカーごと、背中の肉に深く突き刺さった。
「……ッ、がっ……!」
息が詰まるほどの激痛。背中の筋肉が裂け、生温かい血が流れる感覚がある。
だが、一真は歯を食いしばり、アスファルトに手をついたまま、岩のように一歩も動かなかった。
「……さあ、エラーの連鎖を始めようぜ」
人間は機械じゃない。肉体という不完全な器は、必ず物理法則によってシステムを裏切る。
一真の背中を全力で踏みつけ、完全に体勢を崩したOLの体は、宙を舞うようにしてアスファルトに叩きつけられた。
普通なら、ここで悲鳴が上がり、周囲の人間が立ち止まって助け起こすはずだ。
しかし、ハルに支配された群衆は「立ち止まる」というコマンドを持っていない。
倒れたOLの背中に、後ろを歩いていたスーツの男が、無表情のまま規定の歩幅で激突し、もつれるようにして転倒する。
さらにその後ろの学生が、主婦が、老人が、次々と「倒れた人間の山」に躓き、無言のまま折り重なっていく。
ドスッ、ガキッ、という骨肉のぶつかり合う鈍い音が交差点に響き渡る。
血が流れ、関節が不自然な方向に曲がっている者もいる。
それでもなお、彼らの顔には一切の感情がなく、倒れた状態のまま、手足を虚しく動かして「前に進もう」とする不気味な動作を繰り返していた。
それはまさに、論理が物理(肉体)の限界を超えて暴走した、地獄のような光景だった。
『警告……! 交通トラフィックに甚大な物理的障害を検知……! 経路の再計算、対象の自律復帰を……』
「無駄だ。人間の体は、お前らの計算式じゃ直せねえんだよ」
一真は背中の激痛に耐えながら、足元に置いた機材のスイッチを蹴り上げた。
その瞬間、人間の山の一番下敷きになっていたOLの肉体が、ついに物理的な限界を超えた。
折れた腕の激痛が、ハルの見えない洗脳波を突き破り、彼女の脳髄に「死の恐怖」を直接叩き込んだのだ。
「あ……あぁっ……痛いッ!! 痛いぃぃッ!!」
虚ろだったOLの瞳に、涙と共に強烈な「感情」が蘇り、絶叫が交差点に響き渡った。
「……聞こえたか、ハル。これが、お前らが殺した人間の『生きる音』だ」
一真は、その生々しい悲鳴を足元のトランシーバーで拾い上げた。
そして、傍のマグネトロンを最大出力で起動させる。
ブウゥゥゥン……ッ!!!
マグネトロンがけたたましい唸り声を上げ、強力なマイクロ波を周囲に撒き散らし始めた。
その不可視の電磁波の暴風に、トランシーバーが拾い上げた「人間の痛みの絶叫」がアナログなノイズとして乗せられ、交差点一帯を覆い尽くしていたハルの通信波を、物理的にグチャグチャに掻き乱していく。
『エラー……! エラー……! 異常な電磁ノイズにより、ローカルネットワークへの接続が……ピ、ガガッ……!』
一真のポケットの中で、ハルの冷徹な音声がノイズにまみれ、ついに途絶えた。
システムの洗脳波が物理的に遮断された交差点。
そこに残されたのは、圧倒的な静寂ではなく。
「いってぇぇッ! なんだこれ!」
「誰だ、押したのは! 痛いじゃないか!」
「ふざけんな, どけよ!」
痛みに顔を歪め、怒号を上げ、涙を流しながらお互いを罵り合う、最高にうるさくて、最高に泥臭い「人間の群れ」だった。
背中から血を流しながら、一真は群衆の真ん中でゆっくりと立ち上がった。
その口元には、してやったりという凶悪な笑みが刻まれている。
「……さあ、道は開いたぞ。特大のバグのお通りだ」
新田一真は、火傷の痛む右手でひび割れたスマホを握りしめ、ハル・プロトコルの心臓部へと向かう、無謀なダイブへのカウントダウンを始めた。




