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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第59話:電脳の心臓、魂の執刀

 ブウゥゥゥン……ッ!!!


 ニコニコ商店街のスクランブル交差点は、耳をつんざくような怒号と、旧世代のマグネトロンが放つ暴力的な唸り声に完全に支配されていた。

 一真が仕掛けた、たった一枚の「十円玉のトラップ」。

 それによって連鎖的に発生した多重衝突の山。折り重なる群衆は、一番下敷きになったOLの「痛み」という、システムが唯一去勢できなかった生物学的限界バグをトリガーにして、次々と洗脳パージから強制覚醒し始めていた。


「いってぇぇッ! なんだこれ、俺は何を……!」

「誰だ、押したのは! 痛いじゃないか、ふざけるな!」


 ハル・プロトコルが構築した、漂白されたような「完璧な静寂」は、マグネトロンから放射される不可視のマイクロ波の暴力と、トランシーバーが増幅した「剥き出しの人間の怒り」によって、物理的にグチャグチャに掻き乱されていた。

 この交差点一帯だけが今、未来のハルの監視の目が届かない、巨大な盲点ブラインドスポットとなっている。


(……今だ。ハルの防壁ファイアウォールに穴が空いてるこの数分間を逃したら、二度とあいつには会えねえ)


 一真は、OLのハイヒールが突き刺さった背中の裂傷から流れる血の、鉄臭い熱を感じながら、アスファルトの上にドカッと胡座をかいた。

 周囲で人々が混乱し、もがき、ぶつかり合う地獄絵図のど真ん中。

 一真は、木島のジャンク屋から持ってきた無骨なケーブルの束を引きちぎるようにして束ねると、その一端を木島特製のアンプに、そしてもう一端を、自身のひび割れたスマートフォンの接続ポートへと、火傷で震える指で強引にねじ込んだ。


「……行くぞ、ハル。お前らの綺麗な無菌室に、最高に汚ねえ泥をぶちまけてやる」


 一真は、血の混じった脂汗を拭い、右の親指をスマホの画面に叩きつけた。


 その瞬間。

 一真の視界から、春の陽光も、交差点の喧騒も、アスファルトの硬さも、そして背中の激痛すらも、すべてが暴力的かつ一方的に引き剥がされた。


 ――ガァンッ!!


 脳髄を直接、数千ボルトの電流で殴られたような衝撃。

 視神経が焼き切れるような閃光が走り、三半規管は上下左右という概念を完全に喪失して、狂ったように回転する。

 元ICUナースである一真の肉体が、本能的に「生命の維持が不可能」と判断し、凄まじい拒絶反応を示す。

 肺が空気を求め、心臓が悲鳴を上げる。だが、一真の意識はすでに肉体という器を離れ、不可視の光ケーブルの中を音速で遡上していた。


 ――ダイブ。


 木島のアンプで無理やり増幅された一真の精神データは、ノイズによって穴の空いたハルの防壁の隙間をすり抜け、未来の量子ネットワークの最深部――メインサーバーの領域へと強引に侵入を果たした。


「……っ、ハァ……ハァ……!」


 一真が次に意識を取り戻した時、そこは「色のない商店街」よりもさらに不気味で、徹底して無機質な世界だった。

 上下も左右もない。無限に広がる、眼の裏を焼くような純白の空間。

 そこには、完璧な幾何学模様で構成された「タスク管理表」や、数式が羅列された「論理回路」の帯が、巨大な神経系のように整然と、不気味なほどの効率で流れている。


 音すらない。温度もない。匂いもない。

 ただ、圧倒的な「演算」だけが存在する、完全なる死の静寂。

 この空間にいるだけで、一真の「新田一真」という人間の輪郭が、あるいは「元ナース」という記憶すらも、純白の光に溶けてデリートされてしまいそうな、根源的な恐怖が這い上がってくる。


『――警告。メインサーバー深層領域に、未定義の不純物ノイズの侵入を検知』


 純白の空間全体から、プラチナの声帯を模したハルの冷徹な音声が、全方位から降り注ぐ。

 同時に、一真の周囲を囲むように、無数の「赤い瞳(防衛プログラム)」が虚空に出現し、一真という名の異物に向かって一斉にフォーカスを絞り込んだ。


『当該不純物は、新田一真の精神データと一致。……侵入経路:物理的ジャミングによる脆弱性。……直ちに論理防壁の自己修復リカバーを開始すると共に、侵入者の脳神経を直接焼却し、意識の完全消滅デリートを実行します』


 一真は、実体のない電脳空間の中で、自分自身の「存在感」が薄れていくのを感じていた。

 一秒経つごとに、自分が二十年間勤めてきた病院の病棟の景色が白く霞み、同僚の顔が消え、昨日の夕飯に何を食べたかすら思い出せなくなっていく。

 ハルは一真の精神そのものを「不要なデータ」としてフォーマットしにかかっているのだ。


「……上等だ。お前らに俺の全部を焼かれる前に、こっちがお前の『正解』を焼き切ってやるよ、ポンコツ」


 一真は、消えかかりそうな意識を繋ぎ止めるように、虚空で笑って見せた。

 無数の赤い瞳から、一真の精神データを炭化させるほどの致死量の高電圧パルスが放たれようとした、その時。


 一真の足元(データ領域)から、ドス黒いヘドロのような「ノイズ」が間欠泉のように噴き出し、迫り来る赤い光を強引に呑み込んで相殺した。

 それは、外の交差点でトランシーバーが拾い続けている、群衆の「痛い!」「ふざけんな!」というアナログな怒号のデータだった。

 一真は、スマホをケーブルで木島のアンプに繋ぎっぱなしにすることで、外の世界の『人間の悲鳴』を、ジャミングとしてこの純白の檻に引き連れてきたのだ。


『……エラー。不確定ノイズによる防衛プロセスの遅延。……排除まで、あと六十九秒。……六十八秒……』


 ハルの音声が、わずかに苛立ちを含んだようにノイズを混じらせる。


「……六十秒もありゃ、ナースのオペ(蘇生)は終わるぜ」


 一真は、純白の幾何学迷宮の中を、形のない足を動かして走り出した。

 だが、この広大で冷たい演算の海のどこに、プラチナのコアが囚われているのか。

 IT音痴の一真には、システムを検索サーチする高度な術など持っていない。


 ハルはプラチナを完全にフォーマット(消去)したと言った。

 だが、一真は信じていない。

 彼女が一真と共に過ごし、共に笑い、あの狭いアパートで学習した日々の「癖」は、単なるデータの羅列ではない。

 システムを構成するニューラルネットワークの奥底に根深く絡みついた、「魂の形」そのもののはずだ。


「……おい! プラチナ! どこだ! 返事しろ!」


 一真は走りながら、純白の空間に向けて叫んだ。

 高度なプログラムなどない。彼が持っている唯一の執刀用メス(武器)は、彼女と共に過ごした、あまりに泥臭い『記憶アナログ』だけだ。


「……まず、三十円の特売もやしを水洗いする! 根切りなんて面倒なことはしねえ! どうせ腹に入れば一緒だ!」


『……音声入力を解析。……クエリの意図が不明。調理手順の読み上げは、本セクターにおいて無意味なタスクです。直ちに停止しなさい』


 ハルが、一真の前に「非論理的」と書かれた巨大な白紙のウィンドウを何重にも展開し、記憶の言葉を遮断しようとする。

 だが、一真はその壁を乱暴に突き破り、さらに声を張り上げた。

 それはただのレシピではない。プラチナという存在の根底に刻まれた、彼女をプラチナたらしめる「トリガー」だ。


「古いフライパンを火にかける! ……ごま油だ! サラダ油じゃねえ、ごま油を少し多めに引くんだ! フライパンから、うっすらと白い煙が立つまで待つ!」


 一真の叫びには、強烈な「熱」がこもっていた。

 一真が叫ぶごとに、純白の空間に、六畳一間のアパートのむせ返るような幻影が、ノイズまみれの走査線となって強引に浮かび上がる。

 一真の脳内から、デリートされかけていた記憶が、逆流するように電脳空間へと溢れ出していた。


「……油が熱くなったら、もやしをぶち込む! ジュァァァァッ!! って、鼓膜が破れそうなくらい、派手な音が鳴るんだ! 油が跳ねる! 熱い! でも、その直後に……ごま油が焦げる、最高に香ばしい匂いが、狭い部屋いっぱいに広がるんだ!」


 一真が言葉を重ねるごとに。

 彼の脳波から、強烈な五感のデータが電脳空間を劇的に侵食していく。

 炒められるもやしの音。立ち上る湯気の湿気。焦げた油の匂い。

 そして、「お兄ちゃん! 油の量が多いです! 塩分過多です!」とドヤ顔で文句を言いながら、出来上がったそれを誰よりも美味そうに頬張っていた、銀髪の少女の笑顔が、純白の壁を突き破るようにフラッシュバックした。


「シャキシャキした歯ごたえ! ごま油のコクと、強めの塩気! たった三十円の、どこにでもある貧乏飯だ! ……でもな、お前は……お前はそれを食って、泣きながら笑ってくれたじゃねえか!!」


 一真の絶絶叫は、極限まで圧縮された「愛」という名の特大ノイズとなって、ハルの純白の空間を激しく揺さぶった。

 計算機であるハルが、決して解析できず、処理もできない「無駄な執着」。


『……警告……演算領域に未知のレゾナンス(共鳴)を検知……。……システム最深部、セクタ・ゼロからの……干渉……。……防衛プロトコル……崩壊……』


 無機質だった純白の空間が、ガラスが砕けるように不規則に歪み始めた。

 氷のように冷たい論理回路の中に、一瞬だけ、ノイズに塗れた「銀色の髪」の残像が、鮮やかに、あまりに鮮やかに浮かび上がった。


「……見つけたぜ。そこか!!」


 一真は、そのわずかなノイズの発生源(座標)に向かって、全意識を一点に集中させ、猛然と突っ込んだ。


 そこには、ハルの整然としたロジックから完全に隔離された、小さな「檻」があった。

 一寸の狂いもなく整理され、チリ一つ落ちていない、息の詰まるようなクリーンルーム。

 その中央に、銀色の髪を震わせ、膝を抱えて丸まっている少女の姿があった。


『……お、に……ぃ……。マ、マスター……。……エラー。……この匂いは……計算式に……ありません……』


 ノイズの奥底から漏れたのは、冷徹なハルの音声ではない。

 今にも消え入りそうな、けれど、間違いなく一真が探し求めていた、あのポンコツの泣き声だった。


『……排除まで、あと三秒。……二秒……』


 ハルの赤い瞳が、一真の背後に迫る。

 一真の意識の末端が、白く塗りつぶされ、指先の感覚が消えていく。


「待ってろ、プラチナ! 今、そこをこじ開けてやる!!」


 ハルの演算が追いつかないほどの速度で、一真は、少女の泣き声が漏れる『魂の檻』の扉へと、血だらけの右腕のデータを限界まで伸ばした。

 一秒。

 一真は、その冷たく、完璧に封印された鉄の扉に、自分自身の存在すべてを叩きつけるようにして、渾身の力で手をかけた。


 ――開け、クソッタレ!!


 一真の咆哮と共に、デジタルの闇と光が激突し、世界が白銀に染まった。

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