第57話:鉄屑の砦とアナログの意地
色のないニコニコ商店街の奥深く。
一真は、右手の火傷の痛みを心臓の拍動のように感じながら、ハル・プロトコルによって完全に最適化された「死んだ群衆」を強引に掻き分けて進んでいた。
『――新田一真。あなたのバイタルサインは、依然として非効率な興奮状態を示しています』
パーカーの左ポケットから、ハルの氷のように冷たい音声が響く。
『当セクターにおける感情の平滑化は、すでに九九・八パーセント完了しました。あなたの孤立した抵抗は、システム全体に対する無意味なリソースの浪費です。……これ以上の自滅的行動を防ぐため、あなたの【社会活動権限】を凍結しました』
「……凍結、だと?」
一真は、群衆に肩をぶつけられながらも、低く唸った。
『肯定します。あなたのデジタルID、紐づけられた銀行口座、およびすべての電子決済ネットワークをシステムから遮断しました。感情というバグに支配された現在のアナタは、適切な消費活動を行えない「要治療患者」です。治療を受け入れるまで、あなたは水一滴すら「買う」ことはできません。さあ、無駄な足掻きをやめなさい。あなたにはもう、この社会で何かを「選択」する力すら残されていないのです』
デジタルネットワークで完全に管理された未来社会。
そこでは、システムに口座とIDを凍結された瞬間、人間は文字通り「何も買えない」「どこにも行けない」完全な無力状態に陥る。ハルは、一真から物理的な手段を奪うことで、強引に感情の平滑化へと追い込もうとしていた。
だが。
ハルの冷徹な宣告を聞いた一真の口から漏れたのは、絶望の溜息ではなく、腹の底から湧き上がるような、低く、ひどく泥臭い笑い声だった。
「……はっ、ははっ……。おい、ハル。お前、未来の神様のくせに、最高にバカだな」
『……理解不能。当該状況における笑いの表出は、極めて非論理的です』
「お前らが俺の口座を凍結したところで、痛くも痒くもねえんだよ。……そもそも俺は、その日暮らしのド底辺だ。銀行口座なんか、とっくの昔に干上がってんだよ」
一真は、右ポケットの底にある、冷たい硬貨とシワくちゃの紙幣の感触を、火傷の傷口で強く握りしめた。
千円札が三枚、百円玉が二枚、十円玉が一枚。合計、三二一〇円。
「デジタルで管理されてるスマートな電子マネーじゃねえ。……システムに凍結されようが、ネットワークを切断されようが、誰がどこで何に使ったか追跡もできねえ『物理的な現金』だ」
未来のシステムからすれば、不確定要素の塊であり、最も忌み嫌う「非効率な遺物」。
『……警告。未追跡の物理通貨(現金)による取引は、システムの予測計算を阻害する不確定ノイズです。直ちに最寄りの端末で……』
「うるせえ。俺はこの不確定ノイズ(三二一〇円)で、お前らの綺麗な無菌室を泥だらけにしてやるって言ってんだよ」
一真は、最適化された群衆を力任せに突き飛ばし、商店街の最も日の当たらない裏路地へと飛び込んだ。
向かった先は、昨日、プラチナを救うために分厚い鉛のシールドボックスを借りに行った、あの薄暗いジャンク屋・木島の店だ。
店の前に着くと、シャッターは半分閉ざされ、「本日休業」の薄汚れた札が下がっていた。
一真は構わず、シャッターを蹴り上げるようにして隙間から店内へと滑り込んだ。
薄暗い店内は、相変わらず古いパソコンの基盤や、得体の知れない電子部品が山のように積まれ、ハンダの焦げた匂いが充満している。
しかし、外のアーケードとは決定的に違う点が一つあった。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、ポケットの中でハルが発していた微弱な電子音が、完全に「プツリ」と途絶えたのだ。
「……よう。相変わらず、むせ返るような鉄屑の匂いだな」
一真が声をかけると、カウンターの奥、分厚い鉛板と銅メッシュで覆われた奇妙な作業台の陰から、ルーペを目に当てた初老の店主・木島が、ゆっくりと顔を上げた。
「……なんだ、アンタか。外はえらい騒ぎ(静寂)になってるっていうのに、よく俺の結界までたどり着けたな」
木島の顔には、外の連中のような「死人の無表情」はなかった。
眉間に深いシワを寄せ、面倒くさそうに、だが確かな「人間の生気」を宿した瞳で一真を見据えている。
この店は、木島が壁中に張り巡らせたアナログな電磁波シールドによって、ハルの「共鳴波(洗脳)」を物理的に弾き返している、この街で唯一の安全地帯(死角)だったのだ。
「……やっぱり、アンタは正気だったか」
一真は、安堵よりも先に、確かな戦意を込めて笑った。
「プラチナがハルに呑まれた。……俺は、あのポンコツを引っ張り出すために、最高にうるさくて非効率な『ノイズ』を作りに来た」
一真は、店内のジャンク品の山を漁り始めた。
未来の量子通信ネットワークで完全に統制されているハル・プロトコル。そんな化け物相手に、現代のチャチなパソコンでハッキングを仕掛けても、数秒で逆探知されて脳を焼かれるだけだ。
だからこそ、一真が選んだのは「論理」での勝負ではなかった。
「……これだ」
一真が埃まみれの段ボール箱から引っ張り出したのは、ひどく古びた電子レンジの解体部品――『マグネトロン』と呼ばれる、強力なマイクロ波を発生させる心臓部。
そしてもう一つ、その隣の箱に転がっていた、子供向けの安っぽい『トランシーバー(無線機)』のおもちゃを二つ。
最新のデジタル機器ではない。極めて原始的で、アナログで、周囲の電波環境に無差別に「ノイズ」を撒き散らすだけの、粗大ゴミ。
「木島さん。これで、ハルの通信網に一時的に強烈な『ジャミング(電波障害)』を起こせるか? 論理的なファイアウォールじゃ防げない、物理的なマイクロ波の暴力でだ」
木島は、一真がカウンターに置いた部品を見下ろし、ニヤリと笑った。
「……なるほど。綺麗に舗装された未来の高速道路に、ダンプカーいっぱいの泥をぶちまけようって腹か。……面白い。俺の店にある旧世代の増幅器を噛ませりゃ、半径五十メートル圏内のハルのネットワークを、数分間だけ物理的に『盲目』にできる」
「数分あれば十分だ。……その隙に、俺のスマホから、ハルのメインサーバーに直接ダイブする」
「……死ぬ気か? ハルの防壁に触れた瞬間、お前の脳神経が焼き切れるぞ」
「元・ICUのナースを舐めるな。心肺停止した患者(この街)の目を覚まさせるには、肋骨が折れるくらい強烈な『電気ショック』を直接胸に叩き込むしかねえんだよ」
一真の眼光が、野獣のように鋭く光った。
「……部品と増幅器、全部もらうぜ」
一真は、右ポケットから千円札三枚と、百円玉二枚、十円玉一枚を取り出し、木島の目の前に置こうとした。
全財産、三二一〇円。
だが、木島はその一真の手首を、油まみれの太い指でガシッと掴んで止めた。
「……しまえ」
木島は、一真の握りしめた硬貨と、火傷でただれた右手をじっと見つめ、低く凄みのある声で言った。
「今のこのイカれた街で、そんな金属片と紙切れに何の価値がある? システムがダウンすりゃ、金なんてただのゴミだ」
「じゃあ、対価は何だ」
「……その『狂った目』だよ」
木島は一真の手を放し、カウンターの奥から巨大な増幅器と、太いケーブルの束を乱暴に引っ張り出した。
「お前のその、システムをぶち壊してでも身内を取り戻すっていう、最高に非効率で泥臭い『殺意』だ。……俺の可愛いアナログの鉄屑どもは、その殺意を対価に、タダで持ってけ」
木島は、ニッと白い歯を見せて笑った。
ハルが絶対に理解できない、男と男の「情」という名の不確定な取引。
「……恩に着る」
一真は、三二一〇円をしっかりとポケットの底にしまい直し、重いマグネトロンと増幅器を両脇に抱え込んだ。
スマートなデジタルには、泥臭いアナログの暴力を。
論理には、極限の非論理を。
それが、三二一〇円の底辺から這い上がった男が弾き出した、未来の神に対する唯一の治療法だった。
「……見てろよ、プラチナ。お前が命懸けで守ってくれた俺の『心』が、どれだけ厄介なバグか、今から未来のクソ野郎どもに思い知らせてやる」
一真は、アナログのガラクタを抱えたまま、木島の結界を出て、再び色のない商店街へと足を踏み入れた。
泥だらけの元ナースによる、たった一人の、そして世界で一番やかましい「蘇生措置」が、いよいよ始まろうとしていた。




