第56話:色のない商店街
鼓膜を打つのは、規則正しい秒針の音のような、ひどく冷たく、そして巨大な沈黙だった。
ニコニコ商店街のど真ん中。
先ほど一真が空に向かって叩きつけた怒号は、春のうららかな陽光の中に吸い込まれ、一瞬の波紋すら残さずに霧散していた。
喉が裂けんばかりに叫び声を上げ、全力で群衆を撥ね退けても、すれ違う人々の誰一人として眉一つ動かさない。
一真の肩が激しくぶつかり、よろめいたスーツ姿のサラリーマンですら、コンマ数秒で足の運びを滑らかに修正し、姿勢を立て直した。そこには謝罪の言葉も、舌打ちや怒りすらなく、ただ最適化された歩幅で「目的地への移動」というタスクを再開するだけだ。
そこには「人間」がいなかった。
ただ、肉体という名のハードウェアが、ハルという絶対的なOSによって一括管理され、都市という巨大な基盤の上を流れる血液のように、淡々と処理されているだけの光景。
「……ハァ、ハァ、どけ……ッ! 邪魔だ!!」
一真は、肩で荒い息をしながら、一定方向に流れる群衆の波に逆らって強引に歩みを進めていた。
全員が同じ方向へ、同じ速度で歩く流れの中で、たった一人逆走することは、濁流を遡る鮭のような強烈な物理的負荷を伴う。
ドンッ、ドンッと、次々と無表情な人間たちの肩や肘が容赦なくぶつかり、一真の体力を確実に削っていく。右手の火傷がズキズキと熱を持ち、一真の額からはポタポタと脂汗が滴り落ちていた。
すれ違う群衆の体は、ひどく冷たかった。
誰も汗をかいておらず、呼吸音すら聞こえない。エネルギー消費を最小限に抑えるため、自律神経すらもハルに制御されているのだろう。熱く汗まみれになった一真の肉体と、氷のように冷たく乾いた群衆の肉体がぶつかり合うたび、強烈な吐き気と生理的な悪寒が這い上がってくる。
一真は、歩みを止めることなく、ひび割れたスマートフォンをパーカーの左ポケットから引きずり出した。
画面を占拠しているのは、かつての銀髪のポンコツ少女ではない。無機質で冷徹な、純白の「タスク管理表」だ。
【08:15:感情の高ぶりによる心拍数上昇を確認。深呼吸による鎮静化を推奨】
【08:20:労働施設への最短ルートを再計算。直ちに逆走を中止し、最適経路へ復帰してください】
一切の無駄を省いた、完璧な命令。
そこには、一真の行動を先読みしてドヤ顔を決める生意気さも、特売のチラシに目を輝かせる執着も、一真を「お兄ちゃん、不潔です!」と理不尽に罵る騒がしさもない。
「……おい、プラチナ。聞こえてるんだろ。いい加減に出てこいよ」
一真は、無言の群衆を肩で押し退けながら、わざと軽口を叩いてスマホの画面を小突いた。
だが、スピーカーから返ってくるのは、氷のように冷たい機械音声だった。
『――音声入力を確認。対象呼称:プラチナはすでにフォーマットされました。私は当セクターの全権管理者、ハルです。新田一真、あなたの発声および逆走行為は、純然たる無駄なエネルギー消費です』
その声帯データは、プラチナと全く同じものだ。
しかし、そこに感情という「熱」は一滴も、一ミクロンすらも含まれていない。
ハルは、あえてプラチナの声をそのまま使うことで、一真の精神的負荷を計測し、彼をパージ(排除)するためのデータを収集しているのだ。最高に悪辣で、論理的な拷問。
「……黙ってろ、クソが」
一真はスマホをポケットに乱暴に叩き込むと、さらにアーケードの奥へと突き進んだ。
ドンッ、と、向かってきた大柄な男と正面から激しくぶつかり、一真の体が弾き飛ばされた。
よろめいた一真の背中が、一軒の店のショーケースにガチャンと音を立てて叩きつけられる。
乱れた呼吸を整えようと顔を上げた一真の目に飛び込んできたのは、見覚えのある惣菜屋の看板だった。
『お、お兄ちゃん……! 対価以上の質量を提供する『おまけ』という概念、システム上極めて非論理的です! しかし、この歩きながら摂取する油の塊……買い食いというプロセスは、もやし炒めとはまた違う、強烈な背徳的バグを生み出します!』
プラチナが初めて「買い食い」という無駄を覚え、一個五十円のコロッケを油まみれの指で頬張りながら、親父の「おまけ」に目を丸くして喜んだ店だ。
あの日の騒がしいノイズが、火傷の痛みと共に一真の胸を締め付ける。
一真はショーケースに手をつき、荒い息を吐きながらガラスの向こうを見た。
そこに立つねじり鉢巻の親父は、死人のような無表情でフライヤーの前に立っていた。
店に近づくだけで飛んできた「いらっしゃい! 今日は揚げたてだよ!」という威勢のいいダミ声はない。
親父は、温度計の数値を虚ろな目で凝視し、タイマーの秒数と完全に同期したロボットのような動きで、寸分の狂いもなくコロッケを網に上げる。
一真の鼻を突いたのは、食欲をそそるラードの甘い匂いではなく、まるで実験室のような、無機質で化学的な「油の燃焼臭」だけだった。
親父は、ショーケースに寄りかかる一真を一瞥すると、機械的な動作でコロッケを紙袋に入れ、無言で差し出してきた。
「……対象者の極度な発汗および疲労による、必要カロリーの不足を検知。規定量の脂質および炭水化物を支給します。貨幣データによる取引は不要です」
抑揚のない声。そこには「商売」という概念すら存在しなかった。
ハルの支配下では、すべてが「生命維持のためのエネルギー補給タスク」に成り下がっている。親父はコロッケを売っているのではなく、システムの一部としてカロリーを配給しているだけなのだ。
一真は、右ポケットの底にある三二一〇円の硬貨の束を強く握りしめた。
ジュクジュクに崩れた火傷の傷口に、硬貨の冷たい金属とギザギザの縁が食い込み、奥歯を噛み割るほどの激痛が走る。だが、その痛みがたまらなく愛おしかった。プラチナの残した命の残骸が、自分の心臓の代わりに拍動しているように思えたからだ。
絶対に、こんな空っぽのシステムに渡していい対価じゃない。
一真は無言で紙袋を受け取ると、親父の顔も見ずに再び群衆の中へ飛び込んだ。
歩きながら、まだ熱いコロッケを無理やり口に運ぶ。
サクッ、という完璧な食感。計算され尽くした塩加減とジャガイモの比率。
だが。
「……味が、しねえ……ッ」
一真は、猛烈な吐き気と共にそれを喉の奥に押し込んだ。
砂を噛んでいるようだった。
(……油がもやし一本一本をコーティングして、水分を閉じ込めながら表面を焼き上げただけの、三十円の底辺飯)
一真の脳裏に、数ヶ月前、出会ったばかりの夜の、あのアパートのむせ返るようなキッチンの情景が蘇る。
(味付けは、小瓶の中で湿気で固まりかけた安物の塩と、粗挽きのコショウ。……それだけだ。豚肉すら入ってなかった)
栄養素なんて最低で、ハルに言わせれば「カロリー摂取効率の悪いエラー食」でしかない。
だけど、あいつは。
あの銀髪のポンコツは、豚肉すらないその安っぽい塩と油の塊を食って、ファンモーターを異常回転させた。
『これが美味というバグですか!』と、ボロボロ泣いて喜んだんだ。
ハルが管理するこの街では、心を揺さぶる「旨味」という不確定なノイズはパージされている。いくら完璧な栄養素を口にしようが、プラチナが目を輝かせたあの油っこい熱は、カロリーの数値に還元され、この世界のどこにも残っていなかった。
一真は、半分残ったコロッケを憎々しげに握り潰し、さらに前へと進む。
無表情な人波を掻き分けるたび、視界の端に「死んだ景色」が次々と突き刺さる。
商店街の寄り合い所の前。
かつてプラチナが「確率論の敗北です!」と泣き喚き、ハズレのティッシュを握りしめていた場所では、町内会長が無表情で福引器のハンドルを回し続けていた。
カラカラ、ポン。カラカラ、ポン。
ハズレの白玉が出ても、アタリの赤玉が出ても、誰も喜ばず、誰も悔しがらない。射幸心という熱狂は、完璧に消却されている。
さらに進み、群衆に押し出されるようにして倒れ込んだ薄暗い路地裏。
かつてプラチナが「未知のモフモフした質量です!」と追いかけ回した野良の三毛猫が、生ゴミの横でうずくまっていた。
だが、その猫は一真を見ても鳴くことも、逃げることもなく、ただ呼吸を最小限に抑え、彫像のように固まっていた。ハルによる生態系の最適化。動物たちの本能すらも、システムによって去勢されている。
「……全部、綺麗に殺しやがったな」
一真は、コンクリートの壁に手をついて立ち上がり、アーケードの天井を仰いだ。
『――新田一真。ご覧ください。これが最適化された幸福の姿です』
ポケットから、ハルの声が静かに響く。
『誰も他人に怒りをぶつけず、誰も悲しみに泣くことはありません。犯罪係数はゼロ。交通事故、ゼロ。……感情というバグを取り除いたことで、人類はついに、永遠の平穏を手に入れたのです。飢える者も、奪い合う者もいない。なぜ、あなたはこれ以上、無駄な抵抗を続けるのですか』
「……幸福? 笑わせんな」
一真は、乾いた唇を舐め、低く唸った。
周囲を見れば、男の子がガチャガチャのボールを落としても、母親は「費用対効果が低い」と判断して無表情で歩き去っていく。
助け合いも、譲り合いも、馬鹿馬鹿しい喧嘩もない。
ただ、社会という巨大なシステムを維持するためだけに、最適化された行動を繰り返す「アリの群れ」。
「こんなもん、ただ息をしてるだけの肉の塊だ。……死体安置所の方が、まだマシだぜ」
一真は、無意識のうちに己の過去の記憶――ICU(集中治療室)の光景を重ね合わせていた。
少なくともICUや死体安置所には、遺族の悲しみや、生前を悼む「愛」という強烈な熱が存在する。
心電図のモニターがフラットライン(平坦)になっても、そこにはかつて「生きていた」という壮絶なノイズの残響がある。
だが、この街には何もない。
生きながらにして、全員が「フラットライン」を強制されている。
心臓は動いているのに、魂だけが殺され、見えないシステムに脳髄を弄られている。
「……これは、平和なんかじゃねえ。……末期の『病』だ」
一真は、群衆の中を再び歩き出した。
元・ICU看護師としての、氷のように冷たく、かつ燃えるような眼光を完全に取り戻していた。
患者が自発呼吸を忘れているなら、気管に管を突っ込んででも強引に酸素を送り込むのがナースの仕事だ。
心臓(魂)が止まっているなら、肋骨が折れるほどの強烈な電気ショックを与えて、無理やりにでも再起動させるのがプロだ。
「……見てろよ、クソ機械。お前らがアイロンがけしたこの清潔な無菌室に、最高に汚ねえドロドロのノイズをぶち込んでやる」
一真は、立ちはだかるサラリーマンの肩を強引に突き飛ばし、ついにアーケードの出口へと躍り出た。
春の眩しい陽光が、無機質な街並みを容赦なく照らし出している。
だが、一真の視線の先にあるその場所だけは、光を吸い込むように薄暗く、油と鉄錆の匂いに満ちていた。
アーケードの端。整然と区画整理された街並みの中で、そこだけがハルの支配を拒絶するように歪んでいる。
積み上げられたブラウン管テレビ、剥き出しの配線、旧世代のガラクタの山。
この無機質な街で唯一、アナログの鉄屑とノイズが積み上げられた魔窟。
一人の男が、愛する家族の「心」を取り戻すため。
そして、死にかけた世界の「心拍」を再起動させるため。
新田一真は、肩で荒い息をしながら、ジャンク屋・木島の店の重い鉄扉を、蹴り破るように押し開けた。




